2月×日(土) 昨年の秋のことだった。 青山のベルコモンズのニコルに洋服を取りに行った帰り、 向かい側のスターバックスでコーヒーを一杯飲んで帰ろうと、 私は二階でカフェラテを買い求め、そのまま二階の空席を探してうろうろしていた。 その日は小雨が降っており、床は少し湿っていた。 ようやく空いた席に向かう時、他の客の傘につまづき、私はトレイごと、転倒した。 ちょうど、その横で仕事をしていた男性のノートパソコンに、カフェラテをこぼしてしまった・・・。 店員さんが、「大丈夫ですか?」と飛んできたが、 男性は「チェッ・・・」と言いながら、ただ呆然としている。 私は周りやその男性に「すいません・・・」と何度も言いながら、起き上がった。 男性はタオルで洋服を軽く拭うと、すぐにパソコンをたたんで店を出て行ってしまった。 私は後のことを店員さんに頼み、すぐさま男性を追った・・・。 その男性は呼び止めると不機嫌そうに立ち止まり、 「気をつけてくださいね・・・」と言いすぐにまた立ち去ろうとした・・。 私はパソコンのことも気になり、連絡先を教え、 「修理代やクリーニング代を請求してください」とだけ伝えた。 男性はメモを受け取ると、すぐに横断歩道を小走りで駈けて行った。 店内に戻り、店員さんにお詫びを言うと、 「さきほどの男性のお忘れ物のようです・・」 と、一枚のマフラーを渡されてしまった・・・。 三日後、その男性<佐久間>から連絡があった。 カフェラテがかかったPCのキーボードがやられてしまい、修理は不可能だが、 パソコン関係の会社にいるので、すぐに新しいのを買ってもらえたとのこと。 ああいう場所で、パソコンを開いていた自分も悪かったとも話してきた。 夫にはすでに相談していた。 賠償云々の話と、少しはお詫びも渡しておいた方がいいだろうと。 また、マフラーも預かっていたので、一度お会いしたいと、私は伝えた。 「それでは、近々青山にいらっしゃる時に連絡をください」 と佐久間は携帯の番号を教えてきた。 さらにその一週間後、私は青山に出向き、佐久間を呼び出した。 先日のスタバの時よりも、はるかに感じの良い男性がいた・・・。 ベルコモンズの一階のカフェで、私はマフラーとクリーニング代として、 封筒に入れた5万円を手渡した。 佐久間は現金は一旦は固辞したものの、 「それでは私の気が済まないので・・・・」 と言うと、 「それじゃあ・・・」 と素直に受け取った。 用事が済んだ私は、すぐに帰ろうとしたが、 「俺、昼飯まだなんで、ついでにここで一緒に食べませんか?」 という佐久間に、付き合うことにした。 佐久間の左薬指にはまだ新しい指輪が光っており、 結婚したての風情があった・・・。 私の視線に気づき、少しづつ自分の話をし始めた・・。 31歳で今年の春に結婚したこと。 だけど、奥さんも共働きで、しかもキャリアウーマンなので、 ほとんどすれ違ったままの生活を送っているというような話をした。 佐久間は、私にもいくつか質問をしてきた。 家族の話や、青山にはちょくちょく買い物に訪れるというような話をした・・・。 「そろそろ、会社に戻らなければ・・・」 と言うと、佐久間は立ち上がった。 私は慌てて、請求書を持って、レジへ向った。 「ここはいいですよ」 と言いながら、サイフをだしてきたが、 「私が呼び出したんですから」 と言うと、佐久間は、 「ごちそうさまです」 と頭を下げた。 カフェを出ると、 「頂いたお金・・・今度、ご馳走しますよ」 と言いながら、この時も小走りで去っていった・・・。 その後も、たびたび自宅や携帯に電話があり、 私達は何度も話をしたが、なかなか夜に出かける機会を得られず、 ご馳走したいという佐久間の誘いに乗ることはできなかった・・・。 そして今週の火曜日にも、佐久間から電話があった・・。 何気に流れで、子供の話となった。 私は、土曜日から美奈と姉の子が二人っきりで、 三浦の実家の母のところにお泊りに行くという話をしていた・・・。 それを聞いた佐久間は、 「それじゃ・・その土曜日、出られませんか?」 と誘ってきた。 夫のことが気がかりだったが、 夕食さえ作って置いていけば問題が無いなと思い、私は承諾した・・・。 待ち合わせの18時に、マフラーを渡した同じカフェに入った。 そこには、すでに佐久間が待っていた・・・。 私の姿を見つけると、 「店、予約してあるんで・・」 と店を出るように促した。 青山のサバティーニは何度か来たことがあったが、 男性と来るのは初めてだった。 過剰なほど丁寧な店員が、奥まった席に案内する。 席に着くと、「なんだか緊張するなぁ」と佐久間は笑った。 私達は勧められたコースではなく、 アラカルトを何品かとイタリアンワインを注文した。 佐久間は思いのほかワイン通で、 「俺にまかせてくれますか?」 と言うと、店員にあれこれ尋ねながら注文していた。 私はどういう取っ掛かりで会話をして良いのかわからなかったが、 とりあえず男から何か話し掛けてくるのを待つことにした。 本当にたわいの無い話、青山界隈の話、 お互いの差し支えない程度の家庭の話、 趣味の話など。 運ばれてきた料理にいちいち感想を述べながら、 私達は本当に世間話程度の会話を1時間半も続けた。 目的も無く、或いは共通な話題など何も無い、 ただ迷惑をかけた者とかけられた者の出会いなのだから仕方が無いとは感じていた。 ただ、、、 佐久間はとても嬉しそうにしていた。 食事も終わり、店員に勧められるままに、エスプレッソとデザートを食べ、 テーブルが落ち着き始めた頃、いきなり佐久間が尋ねてきた。 「杉本さん、浮気ってしたことあります?」 「は?どうしてそんな事聞くんですか?」 と、私は即座に返した。 「女房がね、結婚する前から付き合ってる男がいるみたいなんですよ」 佐久間は決して見劣りする男では無い。 むしろ、都会的で洗練されたイメージを持っている。 容姿も30歳の男性としてはスタイルも良く、ハンサムな部類に入ると思う。 とても意外な感じがして、私は言葉を失った。 自分がどうして今ここにいるのかわからないくらい、重苦しい沈黙の時間が経つ。 「佐久間さん、それを知っていて結婚したの?」 「う〜ん・・・」 佐久間が悩む。 「怖いくらい完璧なんだよね。彼女は・・・」 ファニチャー関係の仕事をしているの奥さんは、買い付けのために、 今は海外に出張していると言う。 仕事を持ちながらも、家事はほとんどこなし、火の打ち所が見当たらないのだという。 「普通は『私だって仕事してるのだから』とか言って、 色々不満をぶちまけられたりするもんでしょ?共働きの夫婦なんて」 私はなんと答えて良いものか迷ってしまった。 その後も、佐久間は不自然な夫婦生活について吐き出していった。 「結婚前に気づかなかったの?」 私の問いかけに、一瞬、佐久間は慟哭した・・・・・。 「薄々は感じてたよ」 淋しげな表情で佐久間は答えた。 既婚である奥さんの上司と奥さんは、かなり長い間不倫関係にあるようだと続けた。 何のために自分と結婚したのか、今となってはさっぱりわからないでいるとも話した。 「奥さんとしてるの?」 私は少し尋ねてみた。 「時間帯がずれててね、彼女はウィークデイが休みで土日はほとんど出勤してて、 俺は土日が休みだし、帰宅時間も微妙にずれてることが多くてね・・・」 要するに、新婚にしてはほとんどSEXをしていないということだった。 「こんなこと話すつもりなかったんだけどね」 私は淋しい笑顔を返した・・・・。 「もう一杯、どこかで飲みましょうか?」 と誘われ、私達は店を出た。 西麻布にいい店があるのでと言われ、私達は2月の寒い夜、外苑東通りを西麻布に向かった。 青山墓地に沿った道は車の往来こそあれど、人通りはあまり無かった。 カーブする車が走り去った時、佐久間がいきなり後ろから抱き締めてきた。 額から頬にかけて、男の白い吐息を受ける・・・。 「佐久間さん・・・」 「ああ、、暖かい・・」 身動きができないくらい強い抱擁が続いた・・・。 後ろから頬擦りをされながら、 何度か私の唇を求めたが、私は何故か頑なに応じることができなかった・・。 佐久間の妻への想いを感じていたせいかもしれなかった・・・・。 |
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