月の美しや外伝 豹と子狐の詩

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日本国は認めていないが、実質的に日本とは異なる制度をかたくなに守っている、
それが、日本の最南端に位置する――『阿麻和利島』だ。

周りを海に囲まれた面積約1000ku、人口約2000人からなる。
一応日本国に所属してはいるものの、その特異な文化と日本の最南端に位置するという地理的な条件により、
日本国とは異なる社会システムを形成してきた。

特に目を引くものの一つは『通い婚』と呼ばれる結婚制度だ。
『通い婚』とは通称『夜這い』ともよばれており、成人に達した男女が想いをよせる成人の家に通い、一夜を共に過ごすというものだ。
この場合、その相手を受け入れるか、あるいは拒否するかの選択権は通われる側にある。
合意の上で行われたわけではない性交渉(強姦)は最も重い罪として罰せられる。
また、子供が生まれた場合は母親方の家で育てられることが多い。
一度限りの関係は数少なく、生涯同じ人に通い、通われることが多いという。
阿麻和利島では満十七歳をむかえた男女は、成人として『通い婚』に参加する資格と責任を得ることになる。

そしてもう一つ『ノロ』と呼ばれる女性の存在がある。
ノロは大自然の声を聞くことができる女性として、島人からあつい信頼をうける。
その才能は母から子供に引き継がれ現在に至っている。


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2000年1月15日、中澤裕子は直接の上司であり、また学院時代の恩師でもあるA教授から頼まれ、
彼になり代わり、定期健康診断のため、阿麻和利島へと向かっている最中だった。
裕子と同じく、東京の某国立大学病院に所属するA教授は変わり者だと評判の人物だったが、
裕子は医者として、生命に対して常に敬虔であろうとするA教授を尊敬していた。

東京から沖縄本島まで飛行機で約3時間、それから船に乗って約3時間の長い旅が始まる。
昨夜遅くまで仕事の資料を整理したからだろう、裕子は飛行機の中で機内食、飲み物に目もくれず、ひたすら眠り込んでいた。
三時間の休息の後、裕子はすっきりとした気分で沖縄の地に降り立った。

沖縄本島から阿麻和利島までは、阿麻和利島在住のつんじいというおじさんに船に乗せてもらう。
つんじいは、裕子の顔を見たとたん驚いたような顔を見せたが裕子はまったく気にとめなかった。

裕子の金髪に染めた髪や、ブルーのカラーコンタクトは世間一般がもつ『医者』というカテゴリーからは
外れているという認識は持っていたし、自分が医者であることを知らない第三者に職業を明かす時は、
決まってこういう反応をされてきたからだ。

そういう時、裕子は自分の上司がA教授である事を心から感謝した。
出世にまったく興味を持たないA教授(しかし腕は確か)と
金髪碧眼の裕子(しかし顔立ちは東洋人)の子弟コンビは病院内で浮いた存在だった。
お堅い大学病院で、A教授以外の教授の部下になっていたら、自分は難癖をつけられた上に解雇か、
もしくは、思う存分いびられた末に心因性の病気にでもなっていたのではないだろうか。
しかし、そのA教授も今年の3月いっぱいで定年退職してしまう。そうなったら自分はどうなってしまうのだろうか。
裕子は不安を感じていた。


裕子を乗せたつんじいの小型船舶は、ゆっくりとしたスピードで動き出した。
裕子はまだ見ぬ阿麻和利島に対する緊張と期待から、体が浮き上がるような高揚感をあじわっていた。
甲板に腰掛けると、の青い空と海をまぶしく感じ、目を細めながら、胸いっぱいに潮の香りのする空気を吸いこんだ。
「いいにおい〜」
裕子の叫びにつんじいは笑い声をあげた。
操縦桿を握りながら話しかけてくる。
「先生、先生は阿麻和利島は初めてかい?」
「ええ、沖縄本島までは、観光で来た事がありますけど」
「じゃあ、島に親戚がいる・・・・ってことはない?」
「・・・・ない・・・・と思いますよ」
裕子の言葉につんじいは無言で頷いた。

「どうしたんです?」
「・・・・先生が・・・・知り合いによく似ているから・・さ・・」
「知り合い?・・・・まさか外国人じゃないですよね?・・・・うちは、うちの髪は染めてるだけで、本当は黒いですよ?」
「わ、わかってますよ。先生が日本人ってことはっ」
つんじいは慌てたように首をぶんぶんと横に振った。
つんじいの慌てぶりがおかしくて、裕子はクスクスと 笑った。


島に着くまで約3時間かかるため、それまで船室で休んでもいいですよというつんじいの言葉に甘えて、
裕子は甲板から船室へと移動した。
船室の中は簡易ベットや小さなコンロなどが置いてあり、それなりにくつろげる空間になっていた。
裕子は旅行かばんの中からA教授が渡してくれた注意書きを取り出すと、ベットに横になりながら、読み始めた。
しばらくすると、事前に飲んでおいた酔い止めの薬が効き始めたのか、睡魔が訪れた。
裕子は抵抗もせず、あっさりと睡魔に身を任せた。

どのくらい眠っていたのだろう。
気がつくと、船のエンジンは止まっているし、何やら甲板の方で人の話し声がする。
つんじいの低い声と少女の高い声。
裕子は目をこすりながら、腕時計を見た。
到着予定時間より1時間ほど早い。
もう、島に着いたんやろか?
裕子はゆっくりとベットから起きあがると、背伸びをした。
それから甲板へと通じるドアをゆっくり回して、船室から外へ出る。


裕子の視界に、ハンドルを握るつんじいの後ろ姿と、
その隣に腰掛けた小さな少女の後ろ姿が入ってきた。と、物音に気づいたのだろう、少女が振り向いた。
日に焼けて金色に近い髪と浅黒い肌、歳の頃は高校生ぐらいだろうか。
大きな瞳は真っ直ぐに裕子を見つめている。

「何や、えらい、可愛い子やなぁ」
裕子はニコニコ笑いながら少女に近づいた。

少女はじっと身動きもせず、凝視していたかと思うと、いきなり裕子に抱きついてきた。
「な、何や、どないしたん?」
突然の事に裕子は狼狽した。
「・・・・・・違う」
少女は小さく呟くと、抱きついていた腕をほどき、裕子から離れた。
「・・・・あんた、誰?」
「こら、真里っ、この人は先生だ。・・・・言っただろ、医者先生だよ」
つんじいが慌てたように言った。
少女は目を見張ると、ため息をつき、それから俯いてしまった。
「・・・・すいません。・・先生、難しい年頃なんで、勘弁してもらえますか。わしからよく、言っときますんで」
つんじいが申し訳なさそうに頭を下げた。
「ああ、気にしせんといてください。うちもこんな格好なんで、医者に見られん事多いんです」
裕子は気にしてないという風にひらひらと手を振り、俯いている少女に手を伸ばすと、頭を撫でた。
びくっと少女の体が震えた。


・・・・・・その時、うちは気づいてなかった。

この少女との出会いが――その後のうちの運命を大きく変えることとなる。


――― ―――

つんじいが裕子にこの少女が船に乗る事になった経緯を説明した。
どうやら一人で船を出したものの、途中でエンストしてしまい途方にくれている所に、ちょうど、つんじいが通りかかったという訳らしい。

少女は俯いていた顔を上げると、再び裕子の顔をまじまじと見つめ、顔を歪めた。
裕子の黒いハーフコートの裾を握りしめると、嗚咽をもらして泣き出してしまった。
つんじいはそんな少女の様子をチロチロ見て、オロオロしながら、ハンドルを握っている。
「・・・・つんじい・・さん、いいですよ。うちがこの子の事みてますから。・・・・運転に集中して下さい」
裕子は幾分戸惑いながら少女の頭を撫で続けた。

この少女が何故泣いているのかはわからないが、少なくとも嫌われているわけではないらしい。
それどころか、甘えられているような気さえする。
裕子は何故か、顔がゆるむのを押さえる事ができなかった。

少女の握り締めたハーフコートに深いしわがよっている。
このコート高かったよなぁ。
裕子はぼんやりとそんな事を考えていた。


しばらくすると、少女の嗚咽も収まり、呼吸も落ち着いてきた。
「・・・・泣き止んだなら、顔上げてーな。・・・・可愛い顔が見たいやんか」
裕子がおどけてみせると、少女はおずおずと顔を上げた。
泣いたせいで目と鼻が赤いものの、少女の可愛さは損なわれてはいなかった。

裕子が笑いかけると、少女もはにかんだような笑顔を見せた。
「・・・・やっぱり、笑った方が可愛いで」
裕子は目を細めると、今度は少女の髪をワシワシとかきあげた。
とたんに、少女が息を呑んだ。
裕子は慌てて手をひっこめた。
「ご、ごめん。嫌やった?」
「・・・・違う・・・・びっくりしただけ・・です」
少女は首を横に振ると、小さく笑った。


――― 

船が阿麻和利島に到着した頃には、すでに大勢の島人が出迎えにきていた。
裕子が船を港に繋いでいるつんじいの様子を見ていると、先程の少女が寄ってきた。
「・・・・さっきはイロイロ・・ごめんなさい」
ぺこっと頭を下げた。

「気にせんでええよ。・・・・あんた名前何ていうんや?」
「・・矢口真里です」
「矢口か・・・・うちは中澤や、中澤裕子。・・・・よろしくな」
「・・中澤・・裕子」
真里が確認するかのように、重々しく言った。


「ん?何や?」
裕子はそんな真里がおかしくて、笑いながら聞いた。
「な、何でもないです!」
「ふーん」
「何ですか!?」
「怒った顔も可愛いなぁって」
真里の顔が真っ赤に染まった。
裕子はその様子を見て、ニヤニヤ笑いを顔に貼りつかせた。

「へ、変な人」
真里はそう叫ぶと、きびすを返して、船から飛び降りた。
裕子は小さくなっていく真里の後姿を眺めながら肩をすくめ、小さなため息をつくと、両手に1つずつ、計2個の旅行かばんを持って、船を降りた。


――― 

裕子の顔を見ると、島の人々は一様に驚愕の表情を浮かべた。中には腰を抜かさんばかりに驚いている人もいる。
一体、何なんや!
まわりを島人に囲まれ、ジロジロと見つめられると、裕子は言い様のない心地悪さを感じた。

と、人だかりがさっと割れて、白い服を身に着けた少女が現れた。
年の頃は高校生ぐらいだろうか。ショートカットの黒髪の下には、強い意思を示す瞳が輝いていた。
体つきは小柄にも関わらず、身にまとう空気が少女を大きく見せている。

人だかりが割れたでぇ。
・・・・まるでモーゼの十戒やな。
裕子は唖然と少女が近づいてくるのを見つめていた。


少女は裕子の前に立つと、挑戦的な眼差しを投げかけた。
「ようこそ、中澤先生。私は市井紗耶香・・・・阿麻和利島のノロです。」

・・・・ノロ?
裕子はA教授が渡してくれた注意書きを思い出した。
確か『ノロ』についての一節もあった。
確か――えらい信頼されてる・・人らしいケド。
でも、こんなに若いんか?
まだ子供やんか。

「ホンモノのノロですよ。・・・・若いですけど」
裕子の訝しげな視線に気づいたのか、紗耶香が顔を曇らせながら言った。
「い、いや、疑ったわけやないで!」
紗耶香は表情を緩めると、島人達に目配せをした。
島人達はゾロゾロと解散して、帰宅していく。


「・・・・宿は私の家を利用してください。健康診断についてですが、
この島には診療所がないので、代わりに明日から公民館で行うことにします。・・・・これからちょっと行きましょうか。」
紗耶香はそう言うと、さっさと歩きはじめた。
戸惑いながらも裕子も紗耶香の後に続いた。
と、紗耶香が振り向いて、裕子が右手に持っている旅行かばんを取ると、ニッコリと笑いかけてきた。

「A教授はお元気ですか?」
「元気やで。・・・・退官が近いんで、忙しそうやけどな」
「よかった。今年は来れないって連絡があって、気になっていたんですよ」
紗耶香が裕子の顔をのぞきこんだ。

「忙しいからな、うちに頼みよったんや。・・・・自分が引退するから、後継ぎにしよう思ってるんちゃうかなぁ」

「ふーん・・・・そうそう、手伝いの女の子を頼んであるんですよ。
・・・・かなりウルサイけど、根はいい人ですよ。・・・・先生も気に入るといいけど」
そう言いながら、紗耶香は笑いを堪えているようだ。

一体どんな問題児が手伝ってくれるんやろか?
裕子は不安を覚えた。


港からしばらく、一本道を真っ直ぐ歩いていると、視界が開けてきた。
島の部落に着いたようだ。まばらに民家が見え、子供達が元気に走り回っている。
子供達が紗耶香と裕子を見つけると、駈け寄って挨拶してきた。
紗耶香はニコニコ笑いながら対応している。
こんなのどかな風景を見るのは久しぶりやなぁ。
裕子の顔に自然に微笑みが浮かんできた。

そこからさらに南へ10分ほど歩いていくと、公民館らしい建物が見えてきた。
建物の前には3人の若い女性が座りこんでいた。
紗耶香と裕子を見つけると、走り寄ってきた。
「うわ〜、うわ〜、そっくりだべ」
「紗耶香遅いよ。待ちくたびれちゃった」
「あ〜金髪だ〜」
口々に叫び始めた。

紗耶香は苦笑すると、呆然としている裕子に、彼女達がお手伝いの女の子ですと言った。


――― 

健康診断を手伝ってもらう女の子との顔合わせも無事に終わり、
必要な器具を公民館に置かせてもらうと、裕子は紗耶香の自宅へと案内された。

部落のはずれにぽつんと建っている2階建ての建物は、シーンと静まりかえっていた。
「・・・・誰も、居らんの?」
「あたしは一人暮しです」
「そうなん?」
「両親とも、もう亡くなりましたから」
「あ・・・・スマン」
裕子は慌てて謝った。
紗耶香は裕子の顔をじっと見つめた。

「・・・・どうしたん?」
「・・・・先生が、知っている人によく似ているから・・・・」
「・・つんじいも同じ事言ってたわ」
裕子は紗耶香の顔を見つめかえした。 

紗耶香はふいっと視線をそらすと、夕飯の仕度をしますねと言って席を立った。
裕子はため息をつくと、右手でガリガリと頭をかいた。


紗耶香が作った夕食は、新鮮な魚の煮付だった。
裕子はあまり魚を好きではなかったが、不思議とおいしく感じ、珍しく食べすぎてしまった。
食後のお茶を飲みながら、裕子が食べすぎたわと笑うと、紗耶香も笑いながら、
あたしも食べすぎました、いつも一人だから誰かと一緒に食べると食欲が増すんですよね、と言った。

「何か、質問はありますか?」
唐突に紗耶香が聞いてきた。
「んー・・・・この島の人口はどの位やったかな?」
「約2000人です」
「うちは・・9泊10日の予定で来ているから・・・・実質8日で2000人みるわけか・・・・
2000÷8は・・・・えーっと・・・・250!・・・・1日250人もみるんか!?」

「・・・・そんなことはないと思いますよ」
「ん?どういうことや?」
「・・・・日に30人来れば上出来でしょう・・・・去年もそれ位しか来ませんでしたし」
紗耶香が言いよどんだ。
裕子は訳がわからないというような顔をしている。


「30人?・・・・何でそんだけしか来なかったんや!」
「・・・・健康な人が多いのがひとつ。・・・・それと、もうひとつの理由は・・・・日本人フォビア(恐怖症)・・です」
「日本人フォビア(恐怖症)?」
裕子にとっては耳慣れない言葉だ。 

「・・・・先生はここに来る時、不思議じゃありませんでした?
・・・・何故、わざわざ、東京の国立大学病院から、こんな小さな島に派遣されるのか。
東京からこの島に来るのに、飛行機で3時間、さらに船で3時間、計6時間もかかるんですよ。
・・・・それなら、沖縄本島から医者を派遣した方が早いでしょう?」
裕子は頷いた。 
確かに紗耶香の言う通りだ。
時間といい、コストといい、東京よりも沖縄から医者を派遣した方が、いいに決まっている。


「そうしない訳は・・・・日本政府は、この島を監視したいんですよ。
だから目の届く所にいる東京の国立病院の医者を派遣しているんです。
・・・・まぁ、この島自体、日本政府の方針を極力、無視する方向で動いてますからね、目の上のタンコブなんでしょう」
紗耶香はたたみかけるように言葉をつむぐ。
「・・・・監視やなんて・・・・うちはそんな事・・・・」

「この島から帰ったら、報告書を厚生省に提出するように言われているでしょう?
・・・・たかが健康診断ぐらいで厚生省本庁に報告書を提出するなんて、おかしいと思いませんか?
・・・・それに一時期、この島に医者がいないのは、日本政府の陰謀だっていうウワサが流れていたんです」
紗耶香が吐き捨てるように言った。
裕子は黙りこむと、俯いてしまった。


「・・・・べつに先生を責めているわけじゃないんですよ。・・・・ただ、そんな訳で、日本人を嫌いな島人が多いんですよ。
・・・・この島に移住してきた日本人は別ですけどね」
紗耶香は困ったように裕子を見て、小さくため息をついた。
「移住?」
「最近、多いんですよ、移住者が。・・・・すっかり、島にとけこんでますよ」

裕子は旅行かばんをガサガサと探ると、一枚のクシャクシャになった紙を取り出した。
「A教授にな、色々注意せんとイカンこと書いてもらったんや・・・・」

裕子の取り出した注意書きには次のような事が記されていた。


中澤君、阿麻和利島には、色々な不思議が溢れているよ。君もきっと気に入るだろう。
その中でも、特出している事をここに書いておく。

@ この島においては『通い婚』が一般的だ。通称『夜這い』とも呼ばれている。
  成人に達した男女が思いをよせる成人の家に通い、一夜を共に過ごすというものだ。まあ、君には縁がない話かもしれないね。
A この島では、十七歳以上が成人扱いとなる。十七歳を子供扱いすると、痛い目にあうぞ。気をつけたまえ。
B 『ノロ』と呼ばれる女性の存在がある。大自然の声を聞く事ができる女性として、島人からあつい信頼をうけている。
  現在のノロはえらく綺麗な子だ。しかし困った事に、気難しくてな。まぁ、君ならうまくやっていけると信じている。
C 『日本人フォビア(恐怖症)』が根強い。移住してきた日本人はともかく、ふらっと来た日本人は嫌いな島人が多い。
  重々気をつけて、行動してくれたまえ。
D 『おばば』と呼ばれる女性の存在。これは驚くぞ。推定年齢130歳の女性だ。医者としては、非常に興味深い存在だ。
E 同性愛のカップルが多い。おそらく、同性愛に関する偏見がほとんどないという事に起因していると思うが、
  日本から移住してくる人も多い。島人が恋愛に関して、非常におおらかであるということも、原因の一つに挙げられるだろう。
  同性愛に関する差別的な行動、発言は極力慎むこと。


裕子は紗耶香の言った『日本人フォビア(恐怖症)』言葉を反芻しながら、注意書きをじっくり読んだ。
どうやら、うちは、あんまり歓迎されていないらしい。
それなら、港での、島人の妙な反応も納得できるというものや。
お馬鹿な日本人がやってきたとでも思われていたんやろか。
裕子は自嘲的な笑いを浮かべた。
「・・・・先生・・どうしたんです?」
裕子が注意書きを読んでいる様子を、黙って見つめていた紗耶香が口をひらいた。

「いや・・・・島の人がな、うちの顔を見たとたん、驚いたような顔をしたんよ。・・・・なんや急に思い出してな」
「あー」
紗耶香は納得したように頷いた。


裕子が不満そうな顔をすると、紗耶香はちょっと待っててと言って、立ちあがり、部屋を出ていった。
階段を上がる音が聞えてきた所をみると、おそらく二階に登ったのだろう。
裕子はすでにぬるくなってしまったお茶を飲んだ。
しばらくすると階段を降りる音がして、紗耶香が姿を現わした。

無言で右手に持っていた写真立てを裕子に差し出した。
裕子は写真立ての写真を見て、驚愕した。

自分が写っているではないか。
いや、髪と目の色が違う。
黒髪に黒い瞳、幾分、裕子よりは年上であろう。
その女性の隣には、幼い紗耶香が写っていた。


「・・・・そっくりでしょ?・・・・最初、先生見たとき、悪い冗談かと思ったもん」
「・・・・誰や?」
「・・母さん・・・・死んだ、あたしの母さんだよ。・・・・つまり、先代のノロ。・・・・みんなびっくりしてたもんね・・・・アハハハ・・」
紗耶香がの笑い声がむなしく響いた。

「・・・・知ってる人って・・・・母親のこと、だったんか?」
「・・まあね・・・・先生は・・・・いくつ?」
「・・・・26や」
「ふーん・・・・」
「あんたは?」
「16歳だよ」
「・・・・そうか」
裕子は紗耶香をじっと見つめた。
紗耶香は顔を赤くすると、散歩に行ってくる、と言い残し、部屋を飛び出していった。


大人びて、可愛げのない子やと思ったけど、可愛いいところもあるやんか。
そういやぁ、健康診断を手伝ってくれる子達も、顔だけは可愛かった。
矢口・・・・やったっけ・・・・あの子もめっちゃ可愛かったよなぁ。
・・・・何や、楽しくなってきたでぇ。
裕子の顔が、見る見るうちに、にやけてきた。


しばらくすると、紗耶香が散歩から帰ってきた。
山盛りのみかんを抱えている。
「どないしたん?」
「・・・・庭にあった」

紗耶香はみかんをテーブルの上に置くと、上着のポケットの中から小さな紙片を取り出し、裕子に手渡した。
「何や?」
「みかんと一緒に置いてあった・・・・」

裕子は四つ折の紙片を開いた。
紙片には、ただヒトコト『中澤裕子さんへ』と書いてあった。
 
「・・・・どういうコトやろ?」
「さぁ?」
紗耶香は興味なさそうに答えると、さっそく皮をむいて食べ始めた。
「甘くて、おいしい」
「そうか・・・・」

紗耶香の能天気な声を聞きながら、裕子は明日の健康診断に思いをはせていた。


――― ―――

健康診断は島の部落ごとに、8つの地域に分けられ、それぞれの地域の健康診断を何日目に実施するかという通知は、
予めなされているらしい。

矢口は、何日目に、来るんやろうか・・・・。
って、違う!
それよりも、一体、何人の島人が健康診断に来てくれるんやろか。
30人より少なかったら、うち、まじでへこむわ・・・・。
早朝、裕子は誰もいない公民館で、そんな事を考えていた。

しかし、裕子の心配をよそに、昼頃には、診療室に大勢の島人がやって来た。
みんな一様に、まじまじと裕子の顔を見つめる。
先代のノロ(亡くなった紗耶香の母親)にそっくりな裕子を、ひとめ見ようとやって来たのだろう。

そんなにジロジロ見んといてや。
動物園の檻の中にいる気分やな。
裕子はこっそりため息をついた。

最初はジロジロ眺められる事に、居心地の悪さを感じていた裕子も、しばらくすると、慣れてきたのか、
微笑を浮かべ、会釈する余裕も出てきた。
聴診器を当てながら、島人に、にこやかに話しかけたりすることもできるようになる。


「ちょっと太り過ぎじゃない?」
「え〜そんなこと、ないべさ」
「ちょっと、圭ちゃん、血圧低いよ〜」
健康診断の手伝いをしてくれる、三人の娘達、保田圭、飯田圭織、安部なつみの声が公民館中に響きわたった。
圭は体重と身長の測定、圭織は血圧測定、なつみは視力判定を担当している。
先程から、三人は、好き勝手な事を大きな声で話していた。

「あんたら、ちょっとは静かにしてや!聴診器の音も聞えないやんか!!」
裕子が青筋を立てて怒鳴った。

裕子と向かい合って座り、聴診器を胸に当てられていた男性は、驚いたような顔をしている。
裕子ははっとして、すいません、と謝った。

「そんなこと言ったって、忙しいんだもん」
「圭織だって、一生懸命やってんだからさ〜」
「そうだべ、そうだべ」
三人は、口々に叫び始めた。

出会った初日から、うるさい子達やと思っていたが、こんなにとは思わんかった。
裕子は頭をかかえた。


――― 

午後四時、今日一日の、健康診断が終了した。
来診数、約30人という予想を裏切って、84人が来診に訪れた。

「・・・・1日目にしたら、上出来やでぇ〜。うちも、安心したわ」
裕子は腰掛にぐったりと身を沈めながら、心底ほっとしたように言った。

「でも、こんなに大勢来るなんて、珍しいよね」
「先生が見たくて、仕方ないんだべ」
「去年なんか、暇でしょうがなかったもん」
圭、圭織、なつみも疲れているらしく、床に座りこみ、静かな声で話している。

「去年?」
裕子が聞き返した。

「うちら、去年も手伝ったんだよ」
圭が面倒くさそうに言った。
「去年は楽だったよね〜」
「ね〜」
圭織の言葉になつみが同調した。

・・・・道理で手馴れているわけや。
こいつらウルサイけど、十分使えるしな。
裕子は横目で三人を眺めた。

「・・・・今日は助かったわ。明日もよろしくな」
裕子はぺこっと頭を下げた。


――― 

冬の季節は日が暮れるのが早い。まだ、午後五時前だというのに、どんどん暗がりが近づいている。裕子は帰宅を急いだ。
帰る途中、若い男女の言い争う声を聞いた。
足を止め、二人の会話に耳をすます。

「・・・・しつこいよっ。悪いけど、あたしにその気はないから」
女のイラついたような声。
「・・・・誰か、いるのか?」
「あんたに関係ない!」

裕子は悪いなぁと思いつつも、好奇心を押さえられず、茂みの間からそぉっと首を伸ばして、二人の様子を覗いた。


矢口!?
口説かれているのは、矢口やったんか!?
裕子は驚いたと同時に、胸の中にモヤモヤとした、形にならないモノが充満していくのを感じた。

「死んだ人のことなんか忘れろよ・・・・」
男の声が聞えたとたん、
『パンッ』
乾いた音が響いた。

真里が男の頬を叩いたのだ。

「俺は、お前が好きだ。・・・・諦めないからなっ」
男は叩かれた頬を押さえもせず、そう言い捨てると、裕子が隠れている茂みとは反対の方向へ去っていった。


真里は男を叩いた右手を見つめて、立ち尽くしていたが、やがて嗚咽をもらして泣き始めた。身体が小刻みに震えている。

船で一緒だった時も――こんな風に泣いてたなぁ。
――そんなに、泣かんといてや。
あんたは、笑っているのが、一番可愛いんやから。
そうは思ったものの、泣いている真里に言葉をかけることができず、裕子はため息をつくと、そっとその場を後にした。


裕子が紗耶香の自宅に帰ってくると、庭先に、目にも鮮やかな魚が2尾、紙を敷いた上に置かれていた。
昨夜のみかんと同様、四つ折の紙も添えられている。
裕子は身をかがめ、紙片をひらいて読んだ。
ただヒトコト『中澤裕子さんへ』と書かれていた。

「・・・・何なんや・・一体」
「まるでゴンギツネだね」
何時の間に来たのか、気がつくと、紗耶香が裕子の後ろに立っていた。

「ひゃっ・・・・いきなり、何やねんっ。びっくりするやんか!」
「知らないの?・・・・新美南吉のゴンギツネだよ」
裕子の抗議を気にする様子もなく、紗耶香は言い続けた。

「・・・・そん位知っとるわ。・・・・つぐないのために、せっせと働くゴンギツネやろ!」
「そうそう、それ!」
紗耶香が嬉しそうに笑った。


「先生さ、どこかで可愛い子ギツネに懐かれたんじゃないの?」
紗耶香は何故か、とても楽しそうだ。
「・・・・あんた、何か、知ってるんか?」
「さぁ?」

「隠さんと、姐さんに話さんかい!」
裕子は紗耶香に手を伸ばし、捕まえようとした。

紗耶香は裕子の手を、するっとかわすと、(ゴンギツネが置いていった)魚を持ち上げた。
「あたしは忙しいんだ。・・・・これから、この魚をさばかなきゃいけないんだから。・・・・先生と遊んでる暇はないの!」
紗耶香はにくらしげにそう言うと、ニヤニヤと笑った。

「先生は、そこで、じっくり、子ギツネを捕獲する方法でも考えなよ」
悔しそうに顔を歪める裕子を尻目に、紗耶香はそう言うと、鼻歌を歌いながら、さっさと家の中に入ってしまった。


子ギツネ?
そんなんイキナリ言われても・・・・。
一体、誰・・なんやろ?
ん〜、覚えがないしなぁ。
裕子は腕を組んで、考えこんでしまった。

ひとり残された裕子は、夕暮れの風に吹かれて腕を組みながら、紗耶香の謎かけのような言葉を反芻していた。
冷たい外気が、静かに裕子の頬を冷やしていった。


――― ―――

「今日は、3時には終わるからそのつもりでな。キリキリ働くんやで!」

「えーっ」
「何よ。それ〜」
「イキナリ言われても困るっしょ」
裕子の言葉に、圭織、圭、なつみの三人が抗議の声をあげた。

「うっさい。決めたんや!・・・・ほら、さっさと動いた。動いた!!」
裕子はシッシと手を振って、犬を追い払うかのように、三人を追い払った。

昨日はこの三人に振りまわされたが、今日はそうはいかんで。
うちが、ここを、仕切ってるんや!
うちの言う事を聞いてもらうで!!


昨夜、裕子が考えた末に出した結論は、『ゴンギツネ』を待ち伏せるという、実にシンプルなものだった。
そのためには、今日の予定を早めに切り上げなければならない。
公民館の入り口には、念のため、『本日の診断時間は午後2時30分までです』という張り紙をしておいた。
これで、どう考えても、午後3時には、今日の業務を終了することができるだろう。

ブーブー文句を言いながらも、圭、圭織、なつみの三人は、次々と仕事をこなしていく。

やればできるやんか。
これで、もうちょっと静かやったら、いい子達なんやけどなぁ。
裕子は三人の仕事ぶりを眺めながら、そう思った。

圭、圭織、なつみが真面目に仕事に取り組んだのも手伝ってか、午前中の健康診断は、ほぼ裕子の計画通りに終了した。


午後2時をまわり、公民館に訪れる島人もまばらになってきた。

よしよし、計画通りやんか。
これで『ゴンギツネ』を捕獲することができるやろ。
しかし・・・・紗耶香のやつ、・・・・あいつは何か隠しとるで。
裕子が物思いにふけっていると、
「・・・・いいですか?」
男性の声が聞えた。

見ると、20代校半と30代前半の男性が立っている。
「あのー・・・・診療時間はちょっと過ぎてるんですけど・・・・いいですか?」
若い方の男性が口をひらいた。
時計の針は2時35分を指していた。

「いいですよ。・・・・二人だけですよね?・・・・そんなら、たいして時間かからんし」
裕子はかるく頷いた。


「すいません」
「・・・・先生は、関西の方ですか?」
青年がニコニコ笑いながら、裕子に話しかけてくる。
「ええ、京都です」
裕子もにこやかに返答した。

「僕、大学は京都だったんですよ」
「そうですか。・・・・うちは、東京の大学です。はい、息を吸って」
裕子は青年に聴診器を当てながら受け答えする。
「あっ、僕も、Kも東京出身ですよ」
圭織に血圧を計ってもらっている男性を指して言った。

「東京?」
裕子が首を傾げた。
「・・・・僕ら・・移住組なんです」
「移住組?」
「あっ・・・・日本からこの島に移住してきた人の事を『移住組』って言ってるんです」
「えぇっ、そうなんですか?・・・・見えませんね・・」

裕子は青年の顔をしげしげと眺めた。
浅黒く日に焼け、顔の彫りは深い。
一見すると、生粋のこの島の人間という印象を受ける。


「そうなんです。もう5年にもなりますよ。今じゃすっかり、この島にも慣れましたけど」
青年は嬉しそうに笑った。
「最近移住してくる人が増えているそうですね。・・・・はい、後ろを向いて、息を吸って。
・・・・どういうきっかけで、ここに移住しようと思ったんですか?」
裕子は青年の背中に聴診器を当てながら訊ねた。

「・・・・ここなら、差別されることもないし・・・・」
「差別?」
「・・・・僕、同性愛者です」
青年は振り向くと、裕子の目を、強い視線で真っ直ぐ見つめながら言った。

裕子は思わず、目を見張った。
目の前で同性愛者であると、カミングアウトされたのは初めての経験だ。
それに、何やら、睨まれているような気がする。
裕子は、A教授の注意書きを思い出した。
『同性愛に関する差別的な行動、発言は極力慎むこと』
うち・・・・自分でも気づかんと、何か失礼な事言ったんやろか。
裕子は頭の中で必死に、この青年に対する自分の発言を思い出そうとした。

「こら、B、あんまり見つめるんじゃない。先生が恐がっているじゃないか」
裕子が何も言えずに固まっていると、視力検査を終えたKが近づいてきた。

「すいません、先生。こいつ、カミングアウトする時は、相手に負けちゃいけないって気合が入るみたいで、
それで・・・・睨んでるみたいに見えちゃうんです」
Kがぺこっと頭を下げた。
その横で、Bもすまなそうな顔をしている。

「気にせんといて下さい。・・・・話してくれて、ホンマ嬉しいです」
裕子はほっと胸をなでおろすと、ニッコリと笑った。


――― 

予定通り午後3時には診察を終えた裕子は、真っ直ぐ紗耶香の自宅に戻ると、門扉側の木の影に身を潜めた。
ここなら、侵入者には死角になるし、侵入者の様子を手に取るように見ることができる。

ここなら、パッと見、見つからんやろ。
さて、一体どんな子ギツネが現れるんやろか。
裕子はいたずらを仕掛けた子供のように、ワクワクしていた。

30分も過ぎただろうか、誰かがやってくる足音が聞えた。
裕子にも緊張が走る。

その人物はゆっくりと侵入すると、あたりをキョロキョロと見渡した。
そして、誰もいないのを確認すると、大きな魚を庭先の木につるした。
その後、ごぞごそと上着のポケットを探ると、四つ折の紙を取り出して魚の口にくわえさせる。

裕子はソロソロと侵入者に近寄ると、背後から抱きついた。


「ひゃあっ・・・・な、何すんだよ!」
侵入者が驚いたような声をあげる。
「捕まえたでぇ〜。いや〜、子ギツネがこんな可愛い子やったなんて、今まで知らんかったわ〜」
裕子は抱きついた腕に、ぎゅうっと、さらに力を込めた。

「な、何だよ。キツネって・・・・」
「知らんの?・・新美南吉のゴンギツネや!」
どこかで聞いたようなセリフやなぁ。
裕子は自分のセリフに苦笑した。

「ほら、悪さばっかりした子ギツネが・・・・つぐないのためにやな・・・・」
「・・知ってる」
「子ギツネは、矢口、やったんやな」
腕の力を緩めると、裕子は微笑みながら、真里の顔を覗きこんだ。
真里の顔が真っ赤に染まった。


「ちょっ・・・・離してよ」
真里が裕子の腕の中で、ジタバタともがいた。
真里の言葉に素直に従い、裕子は真里を解放した。

矢口の顔が残念そうに見えるのは、うちの、気のせいやろか?
裕子は真里をじっと見つめた。

真里は照れているのか、もじもじと居心地悪そうに体を動かし、決して裕子と視線を合わそうとしない。


「お二人さん、どうしたの?」
背後から紗耶香の助け舟が入った。

「「紗耶香!」」
裕子と真里がほとんど同時に叫んだ。

「お〜・・・・気が合うね〜」
紗耶香は裕子を見ると、ニヤリと笑った。
裕子は紗耶香の視線に、何か良からぬものを感じた。

「・・・・矢口、せっかくだから、夕飯ここで一緒に食べていきなよ。矢口が取った、新鮮な魚なんでしょう?」
「う、うん」
紗耶香は真里が木につるした魚を取ると、そのまま、真里を促して家に入ろうとする。


「ちょー待て、あんた、矢口がゴンギツネって事、知っとったんか?」
裕子が紗耶香を引き止め、詰め寄った。
「うん」
「な、何やてっ」
「矢口とは長い付き合いだし・・・・筆跡見たらすぐにわかったよ」
紗耶香は持っている魚の口にくわえられた紙片を取ると、裕子に手渡した。

「なっ・・・・」
「まぁ、いいじゃん。・・・・ゆーちゃんだって楽しかったでしょ?」
目を白黒させる裕子を、紗耶香は可笑しそうに見つめた。

他に何か言いたいことは、という紗耶香の質問に、裕子が答えられずにいると、紗耶香は肩をすくめ、
何か言いたげな真里を伴ない、家へ入った。


一人庭に残った裕子は、一連の今日の出来事を振り返った。

・・・・確かに、ゴンギツネが何者なんか、推理するんは楽しかった。
待ち伏せしたのも、何や、えらいワクワクしたし、照れて真っ赤になった矢口は、めっちゃ可愛かった。
それは認める。
けど、気に入らんのは、紗耶香の手の上で踊らされたような気がする事や!
しかも、あいつ、何気にうちの事を“ちゃん”付けで呼びおった。
しかし・・・・不思議なことに・・・・悪い気はせんわ。

裕子は日が暮れて、赤く染まった空をぼんやりと眺めていたが、思い出したかのように、先程紗耶香が渡してくれた紙片を見た。
丁寧に四つ折にされた紙片には、ヒトコト、『中澤裕子さんへ』と、女の子らしい、丸い文字で書かれていた。

裕子はふと、緊張の面持ちで、この紙片に文字を書く真里の姿を想像してみた。
裕子の顔が、自然に、にやけてくる。

って、イカン。こんな顔、紗耶香に見られたら何て言われるか・・・・。
そうは思うものの、裕子はこみあげてくる笑いを押さえることができなかった。


――― ―――

「うわーーーん」
大きな泣き声と共に、少女が公民館に入ってきた。髪の毛を二つ分けにして、左右で結んでいる。
年の頃は、小学校の高学年といったところだろうか。
「辻、どうしたの?」
圭織が慌てたようにその少女の元に駆け寄った。

「あいぼんが、花をちぎっちゃった〜」
少女の手には、がくから下がちぎれてしまった赤いハイビスカスの花が握られていた。
「加護が?」
圭織の質問に少女が頷いた。
圭織が困ったような顔で、少女の頭を撫でた。
圭織に優しくされて、少女の涙腺が更にゆるくなり、ポロポロと大粒の涙を落とした。


「辻、待ってな。圭織が、加護を連れてきて、謝らせるから」
「連れてくるって、あんた、仕事はどうするんや!」
裕子が慌てたように、今にも飛び出していきそうな勢いの圭織を引き止めた。
「そんなの、圭織じゃなくたってできるでしょ」
圭織が不満そうに口を尖らせた。
「何言ってるべ。圭織じゃなきゃ駄目だべさ」
なつみも圭織を止めに入る。

「圭織、子供のケンカに口だしするもんじゃないよ」
圭も腕組をしながら言った。
「だって・・・・」
圭織が反論しようとすると、
公民館の扉が開き、仏頂面の少女が入ってきた。先程の少女と同じ年頃、同じく二つ分けの髪型だ。
「加護!」
入ってきた少女に、圭織が急いで駆け寄った。


泣いているのが辻希美、圭織のお気に入りなんだ。今入ってきたのが加護亜衣だよ。
圭が裕子に耳打ちした。

「加護!・・・・あんた、辻に謝りなさい」
圭織が亜衣に詰め寄った。

「まあまあ、圭織、そんな怒るもんじゃないよ。・・・・落ち着いて、加護の言い分も聞こうよ」
圭が圭織と亜衣の間に割って入った。
「さっ、加護・・・・」

「だって、だってな・・・・うちが一生懸命話しかけてもな、のの、うちの言う事聞いてないんやもん。・・・・花ばっかり摘んでるんやもん」
そう言うと、亜衣はポロポロと涙を落とした。

「・・・・ののは、先生にきれいなお花をあげたかったんです。
・・・・でも、亜衣ちゃん・・・・亜衣ちゃんのこと、ムシしたのは、ののが悪かったです。・・・・亜衣ちゃん、ごめんなさい」
希美はおずおずと亜衣に謝った。
「ヒック・・・・ごめんな。・・・・のの、ごめんな・・・・」
亜衣が希美に謝ったのをきっかけに、二人とも一層激しく泣き出してしまった。


なつみはそんな二人の様子を黙って見ていたが、席を立つと、ガラスのコップになみなみと水を入れて戻ってきた。

「ほら、辻、花かして?・・・・こうしたら綺麗だべ?」
なつみは泣いている希美からハイビスカスを受け取ると、ニッコリと笑いながら、水を張ったコップに浮かべた。
「ホ、ホンマや。のの、見てみ、綺麗やで!」
亜衣が歓声をあげた。いつのまにか泣き止んでいる。
「・・・・きれいです」
希美は涙を拭うと、目を輝かせた。

「ほら、辻、先生の所に持っていきな?」
なつみが希美をうながした。
希美は右手で花を浮かべたコップを持ち、左手で亜衣の手を握ると、事の成り行きを黙って見ていた裕子の元へやってきた。


「はい、せんせい」
「・・・・ありがとう。・・・・仲直りした、お利口さんには、褒美をあげんといかんな」
裕子はニッと笑うと、上着のポケットから飴玉を取り出し、希美、亜衣の手のひらにそれぞれのせた。

「やったー、イチゴ味やで!」
「ののは、レモンです」
二人は早速、飴玉を口の中にほうりこんだ。そして、元気いっぱい叫ぶと、公民館の中を走り回った。

数分後、裕子の怒声が響き渡ったのは、言うまでもない。


――― 

昨夜、真里は裕子と紗耶香の三人で食卓を囲んでいる時に、明日も、海で取ったエモノを持ってくるようにと約束させられてしまった。

裕子はそれは横暴だと反対したが、強引に、紗耶香に押し切られる形になった。
裕子と一緒に食事を楽しめる絶好のチャンスなので、正直、真里は嬉しかった

今日は『キビレアカレンコ』というマダイに似て、赤く、色や形が美しい魚が大量に取れた。この魚は刺身や煮付にすると美味しい。
真里は裕子の喜ぶ姿を想像しながら、3匹の『キビレアカレンコ』を持って、紗耶香の自宅へと向かった。

早速、真里と紗耶香は夕飯の仕度をはじめた。
裕子が戻ってくる前に、夕食を作ってしまおうというわけだ。


「・・・・矢口、本気なの?」
慣れた手つきで魚をさばく真里を見て、紗耶香は米を研ぐ手を止めて訊ねた。
「ん?何が?」
「ゆーちゃんの事だよ」
「・・・・・・」
「・・・・いい人だけどさ、六日後には帰っちゃうんだよ?」
「・・・・わかってる」
真里は紗耶香を見ようとしない。
真里の包丁を動かすスピードが、さらに早くなった。

「・・・・なら、いいけどさ。・・・・あたし、矢口が泣くの、見たくないから」
紗耶香がそう言ったとたん、
「・・・・っ・・痛・・」
真里が包丁を置いて、顔を歪めた。
見ると、真里の左の人差し指の先端から、鮮やかな赤い液体が筋をつくって流れ落ちている。


「っ・・矢口・・何やってんだよっ」
紗耶香は叫ぶと、真里の側に駆け寄った。
「・・・・やっちゃった・・・・」
真里は切った指を口にくわえながら、紗耶香を見た。
見る見るうちに、真里の瞳には大粒の涙が浮かんでくる。
紗耶香は真里の涙を見ると、ごめん、と呟き、真里の体を引き寄せ、抱きしめた。

裕子は公民館から帰ってくると、真里の左手人差し指のバンソウコウに気づいて、どうしたんや、と訊ねてきたが、
真里はなんでもない、と誤魔化した。
紗耶香も何事もなかったかのように、振舞っている。


夕食の後、裕子と真里は食後の散歩に出かけた。
紗耶香も一緒に行こうと誘ったのだが、気を利かせてくれたのか、あたしはいい、と素っ気無く断られた。

「矢口、ありがとうな」
並んで夜道を歩きながら、裕子が真里の顔を覗きこんだ。
「ん?」
真里がきょとんとした表情を浮かべた。

「ほら、今まで、色々、・・・・みかんとか魚とか・・・・持ってきてくれたやろ」
「・・ああ、・・別に、あたしも迷惑かけちゃったし」
「ん?」
「・・・・船の上で」
「ああ、そうや・・・・子ギツネは、ドジな漁師さんで、おまけに泣き虫やったな」
裕子は目を細め、カラカラと笑った。
真里は不満そうに口を尖らせた。


「なぁ、何で、あの時泣いたんや?」
裕子がふっと真面目な顔になって、質問した。
「・・・・ん・・・・何でかな。・・・・多分・・・・懐かしかったから・・・・かな」
矢口が俯き加減で、言葉を選びながら話す。

「紗耶香の母親か?」
「・・・・格好良くってさ。ずっとあんな人になりたいって思ってた」
真里は立ち止まると、道端の石ころを蹴りはじめた。
裕子も真里と一緒に立ち止まると、真里の蹴った石が暗い夜道を転がっていく様を見つめていた。

「・・・・そうか」
「うん。・・・・あたしの・・・・憧れの人だったんだ・・・・」
真里は顔を上げると、裕子の顔を見た。
二人はしばらく見詰め合った。夜の闇と沈黙が二人を包んだ。


「先生?」
やがて、真里が口をひらいた。
「ん?」
「・・・・その腕時計、男物だよね・・・・」
裕子の左手の腕時計を指差した。
「ああ・・・・これな、うちの宝物やねん」
裕子は左手を上にあげて腕時計を真里に見せると、右手で愛しそうに腕時計を撫でた。

「・・・・彼氏から?」
真里が小さな声で、聞いた。
「・・・・父親の形見やねん」
「そうなんだ・・・・彼氏いるの?」
真里はほっとすると、一番聞きたかった言葉を口にする。

「何や、本当に聞きたいのはそれかい」
裕子が笑って、真里の額を軽く小突いた。
「・・・・そ、そういう訳じゃないけど」
真里は顔を赤くして、視線をそらした。
「・・・・おらんよ。」
裕子はポリポリと頬をかいた。


「そうなんだ」
真里はほっとすると、目の前にあった石を、思いっきり蹴飛ばした。
石は勢い良く転がっていき、夜の闇に消えてしまった。

「ホンマ、こんな美人なのにな。まったく世の中どうにかしとるで」
夜空に視線を移しながら、裕子がぼやいた。
「・・・・よかった」
真里がぼそっと呟いた。
「ん?何か言ったか?」
裕子が聞き返した。

「ううん、何でもない」
真里は首をフルフルと振ると、裕子の腕に自らの腕を絡ませた。


「あたしが・・・・一緒に、遊んであげる!」
「そら、ありがたいなぁ。・・・・矢口みたいな可愛い子やったら、大歓迎やで」
裕子はおどけたように言った。
真里は複雑な表情で裕子を見つめた。

裕子はその時真里の顔に浮かんだ、喜びとも悲しみともつかない複雑な表情を、見る事ができなかった。
夜の闇がそれを邪魔していた。

ただ、夜空に輝く三日月だけが、それを見ていた。




――― ―――

公民館に一人の少女のが運び込まれた。
高さ5メートルの崖の上から、転落したらしい。
幸いな事に崖下はちょっとしたぬかるみになっていて、少女は泥だらけなものの、意識ははっきりしていた。

「ともかく、ベットに運んでな」
裕子がきびきびと指示を出す。
自らはハサミを取り出すと、少女の泥まみれのジーパンを縦に裂いていった。
こんなに泥まみれやと、汚れなのか、傷なのか、わからんわ。
裕子はチラッと少女を見た。

年の頃は15〜6歳ほどだろうか、肩につくほどの長さの髪は、べっとりと頭皮にはりつき、
泥だらけの顔には、愛嬌のある目が輝いている。

「あー・・・・ひどいよ、先生。このジーパンお気に入りだったのに・・・・」
少女が頬をふくらませた。
「なっ・・・・先生に何言ってんだよ。ごっちん」
付き添っていた少女が慌てたように、少女を諌める。
「だって・・・・っ痛・・・・」
少女が苦痛に顔を歪めた。


「ほらな、ちょっと触っただけで、こんなに痛いんやで?・・・・こんなピチピチのジーパンなんか、脱げるわけないやろ?」
裕子は小さく笑うと、少女の顔を覗きこんだ。
少女は目に涙を浮かべている。

「ほら、自分の名前覚えてるか?」
「・・・・後藤・・真希」
「意識は、はっきりしてるみたいやな。まぁ、へらず口きけるくらいやったら、大丈夫やろ」
裕子は濡れタオルで、真希の顔についた泥を拭ってやった。

「よかった」
裕子の言葉に真希に付き添っていた同年代の少女が、ほっとしたような表情を浮かべた。

「レントゲン撮ってみんと、ようわからんけど、多分、骨にヒビがはいっとるな。
・・・・と言っても、ここにはレントゲンなんか置いてないし・・・・。とりあえず応急処置しとくわ」
裕子は少女の足に添え木を当てると、固定し始めた。


「後藤が怪我したって!!」
紗耶香が血相を変えて、公民館に飛び込んできた。
「ゆーちゃん!どうなんだよ!!」
ベットに寝かされ、ジーパンを切り裂かれ、両足に添え木を当てられた真希の姿を見て、紗耶香は我を失ったらしい。
裕子の首根っこを掴みかからんばかりの勢いで、つっかかる。

「・・・・市井ちゃん」
紗耶香の様子に呆気に取られて、一言も発しない裕子に代わって、真希がおずおずと話しかけた。
「後藤!?・・・・大丈夫なのか?」
「うん・・・・ちょっと痛いけど」
「・・よかった」
紗耶香はほぅっとため息をつくと、真希を抱きしめた。

「・・市井ちゃん」
真希が嬉しそうに、紗耶香の名前を呼んだ。
真希の声にはっと我に返った紗耶香は急いで真希から離れると、
このバカ、何で崖から落ちる羽目になったんだよ、と怒ったような声で言った。


とたんに、甲高い少女の泣き声が響いた。後から、紗耶香と一緒に入ってきた、真希と同じ年頃の少女だ。
「あたしが、あたしが悪いんです」
細い体を震わせ、目から大粒の涙をぽろっと流した。

「梨華ちゃんのせいじゃないよ。・・・・あたしが勝手に・・・・」
真希が慌てたように、ジタバタと体を揺すった。
「あたしのせいです。・・ごっちんがあんな子ってことは、知っていたのに・・・・」
そう言うと、梨華はさめざめと泣き出した。

「吉澤」
紗耶香は、公民館を見渡し、先程からずっと、真希に付き添っていた吉澤ひとみを見つけると、威圧的に名前を呼んだ。
「は、はい」
ひとみは高い背を縮めながら、おずおずと返事をした。
「説明できるよな?」
「は、はい」
ひとみは唾をゴクッと飲みこむと、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。


「あ、あの・・・・今日は梨華ちゃんの誕生日なんで、梨華ちゃんとあたしとごっちんの三人で遊んでいたんです。
・・・・そんで気がついたら、あの崖の上に来ていて・・・・そしたら、梨華ちゃんが、崖の上の木にみかんが実っているのに気づいて・・・・
『あっ、おいしそうなみかん』って言ったんです。・・・・そしたら、ごっちんが『あたしが取ってあげるって』言って・・・・
あたしと梨華ちゃんは必死で止めたんです。・・・・でも、ごっちん、ちっとも言うコト聞いてくれなくて・・・・それで・・・・」
ひとみが言いよどんだ。
どう表現していいのか、わからないといった様子だ。

「木からすべって、落ちてしまったちゅーわけやな?」
横から、裕子がひとみに助け舟を出した。

「違うよ。そんな、ヘタじゃないもん!勝手に、枝が折れちゃったんだよ!!」
真希は裕子の言葉に、心底、心外だというような顔をした。

「・・・・あたしと梨華ちゃん、本当にびっくりしちゃって。・・・・梨華ちゃんは『ごっちんが死んじゃう』って泣き出すし・・・・。
それで、梨華ちゃんには、市井さんに知らせに行ってもらって・・・・あたしは、とにかく、先生に診てもらわなきゃと思って
・・・・人を呼んできて、ごっちんをここに運んだんです」
ひとみは、その時の状景を思い出したのか、震えながら、涙を浮かべた。


「・・・・この・・おバカっ」
ひとみの話を黙って聞いていた紗耶香が、真希を怒鳴った。
「市井ちゃん」
「みんな、どれだけ心配したと思ってるの!?」
「・・・・ごめんなさい」
しゅんとして、真希が小さくなった。

「・・・・まっ、どっちにしろ、ここには治療器具がそろってないから、沖縄の病院に運ばんとなぁ。
・・・・今までは、どうやって連れて行ってたんや?」
「急患の場合はヘリを呼んでいました。急ぎでないときは、船です」
紗耶香も落ち着いてきたのだろう、裕子に対する口の利きかたが、丁寧になっている。
「・・・・そうか」
裕子はどうしたもんかと考え込んだ。

「あっそうだ。梨華ちゃん、忘れるところだった。はいっ」
考えこんでいる裕子と紗耶香をよそに、真希の能天気な声が響いた。
真希の手には、崖から落ちる元凶となったみかんが、しっかりと握られていた。
梨花の目が真ん丸くなる。
「ごっちん・・・・」
ひとみは呆れたような声をあげた。

結局、真希は、裕子が応急処置を施したのと、命に別状のない怪我ということで、両親に付き添われて、
つんじいの船で沖縄の病院に行く事になった。


――― 

前日と同じように、真里は取りたての魚と共に現れ、裕子、紗耶香、真里の三人は仲良く夕食を囲んだ。

「先生、星を見にいこうよ。あたし、すごくいい場所知ってるんだよ」
真里が食器に洗剤をつけながら言った。
「おっ、ええなぁ」
真里の横で、洗剤を流している裕子が、嬉しそうにニコニコと笑った。

食後の後片付けの時、紗耶香にも一緒に星を見に行こうと誘ったが、やることがあるからと、素気無く断られた。

星を見る絶好のポイントへ移動する間、裕子は真里に、昨夜と同じく、色々話しかけてくる。
真里は嬉しかったが、反面、家に残してきた紗耶香の事が気になっていた。

紗耶香、ひょっとして、昨日あたしが泣いちゃった事、気にしているのかな?
別に、紗耶香のせいじゃないのに・・・・。
そりゃ、切った指の痛さだけで泣いたわけじゃないけどさ。
結局は、自分の問題なんだ。
・・・・あたしは、本気・・・・なんだろうか?
もしも、本気なら、覚悟を決めなきゃならない。


「いや〜、今日の紗耶香はみものやったで。あんなオロオロするの初めて見たわ。」
考えこんでいる真里に気づかず、裕子がおかしそうに今日の公民館での出来事を話し始めた。
「・・・・あっ・・・・もともと、後藤は紗耶香のお気に入りだから。・・・・昔は、よく、ごっちんのこと泣かしてたな」
真里ははっと我に返ると、不自然のないように、急いで返答した。

「そうなん?」
「ほら、紗耶香って、変なとこひねてるから、好きな子をいじめちゃうんだよね。
ごっちんも『いちーちゃん、いちーちゃん』って懐いててさ・・・・」
真里の口調には、懐かしさがにじみ出ていた。
「今とは、えらい、印象違うな。」
「うん。・・・・紗耶香が変わったのは、お母さんが亡くなって、ノロの後を継いでからだよ。
・・・・それからは・・・・自分の感情を押さえるようになって・・・・大人びた口の利き方をするようになった。
まぁ、実際、島人達も、紗耶香がそうなるのを望んでいたと思うけど」
「・・・・・・」
裕子は黙って頷くと、道端の石ころを蹴った。

「でも、先生の前では、紗耶香、素を出してるみたいだよ?」
「そうか?」
「うん。・・・・ときどき、すごくいじわるな目をする時あるんじゃない?・・・・あれって、心を許している証拠だよ。
・・・・ノロを継いでから、あたしは、見てないけど」
真里が寂しそうに言うと、複雑な子やな、紗耶香を好きになった子はえらい苦労するで、と裕子は笑った。


「・・・・そういや、矢口。明日、誕生日やて?」
裕子が思い出したように言った。
「うん」
「何でもっと早く言わんのや」
「だって、何か請求してるみたいで、嫌じゃん?」
「そんな事あるかい」
裕子が憤慨したような声を出した。

「じゃあ、先生、何かくれるの?」
「ちゃっかりしてるな。・・・・いくつになるん?」
裕子は目を細めて、進行方向に向けていた視線を、真里に向けた。
「十七だよ」
「十七・・・・若いなぁ・・・・青春って感じやなぁ」
裕子が感慨深げに、言った。

「せやな、何が欲しい?・・・・せっかくの記念の年やもんなぁ。うちが何でもプレゼントしたる。
・・・・何なら、よそから取り寄せてもええで。ふとっぱらやろ?」
裕子がわざとらしく、胸を叩いて見せた。

「・・・・・・」
「矢口?」
何も言わない真里に、裕子が訝しげな視線を向けた。

「あっ・・・・うん・・・・考えとく」
真里は慌てたように言った。
続けて、欲しいものありすぎて困っちゃうなぁ、と笑った。


楽しく喋っていると、真里が立ち止まった。どうやら、目的の場所に到着したらしい。
「見て、先生」
真里が夜空を指差した。
降るような星空というのは、この事を言うのだろう。
「・・・・満天の夜空やな」
星空に圧倒され、言葉を失っていた裕子が、やっとという感じで言葉をしぼりだした。

「ねぇ、見て。ほら、ちょうど、真上に見える小さな星が、子ギツネ座だよ」
真里の声は弾んでいる。
「矢口、詳しいんやな」
裕子が驚いたように言った。
「まあね、漁師だもん」
真里は得意げに、鼻の下を指でこすった。


「ここに、横になるんだ。そしたら、全宇宙が見れるよ!」
真里はさっさと横になると、裕子にも横になるように促した。
「全宇宙?」
「そのくらい、すごいって事!」

裕子も、真里の隣に横たわって、夜空を見た。
地面は柔らかな草で覆われているらしく、背中に受けるフワフワとした刺激は心地よかった。

「・・・・何か、怖いな」
星空を眺めながら、裕子がポツリと呟いた。
「・・・・・・」
「自分一人でいるような気になってしまうわ」
「・・・・・・」
真里は黙ったまま、隣に横たわる裕子の手をぎゅうと握った。

「矢口?」
「・・・・あたしが、いるじゃん」
真里がぼそって呟いた。


「・・・・そやったな」
「・・・・・・」
真里は無言のまま、更に裕子の方へ体を寄せ、ぴったりと体をくっつけた。
「矢口?」
裕子の戸惑ったような声を出した。

「・・・・先生・・・・あったかい」
真里の顔は、ちょうど裕子の首のあたりに埋められている。
「矢口の方があったかいで?」
裕子は風に揺れる真里の髪の毛を、軽く撫でると、満天の星空を見つめた。


――― ―――

裕子の前には、阿麻和利島最年長、推定年齢130歳の女性が座っている。
通称『おばば』と呼ばれ、島人の尊敬を一身に集めている人物だ。

「せんせい、どうかね、わしのからだは?」
じっと黙って裕子の診断を受けていたおばばが、おもむろに口をひらいた。
「申し分ないです」
裕子はおばばの胸に当てていた聴診器を外した。

おばばの体は、健康そのものだった。
歯は総入れ歯、目はかすみ、耳は遠くなっているものの、年齢を考えれば、十分、許容範囲に入るだろう。

「健康の秘訣ってなんですかね?」
裕子が興味深そうに訊ねた。
おばばの130年使いこんでいるとは思えない身体を診た後では、当然抱く疑問だろう。


「いしゃの、あんたが、いちばんしってるんじゃないのかね?」
おばばが目をしばたかせた。
「うちは、基本的に、病人しか診ませんから」
裕子の答えに、おばばは、ひひひひ、と笑った。
「そりゃ、こまったもんだね。そうさな、わしのけんこうのひけつは、じぶんにしょうじきであることかね」
「正直・・・・ですか」
裕子は困ったように首を傾げた。
おばばの言っている事は、抽象的すぎて、いまいちよくわからない。

「せんせいに、ひとつ、じょげんを、さしあげようかね」
おばばは目を細めると、裕子に微笑みかけた。
「何です?」
裕子が身を乗り出した。


「ちかぢか、せんせいは、にほんのみちのうちの、いっぽんをえらばないといけなくなる」
「二本の道?」
「どっちのみちをえらぶかによって、そのごのじんせいが、おおきくかわるはずじゃ」
「・・・・どの道がいいか、聞いてもいいですか?」
裕子は不安そうに、おばばを見つめた。
おばばの言っている事を、鵜呑みにするわけではないが、もらえる助言はもらっておいた方が得策といえるだろう。

「きめるのは、じぶんじしんだけじゃよ」
おばばは小さく笑うと、椅子から立ちあがった。
「そんなこと言われても・・・・」
「ここで、きめるんだよ」
おばばは、拳を固めると、自らの胸を叩いた。

「じぶんのこころにうそをついちゃいけないよ、せんせい」
おばばは、それだけ言うと、自分の用は済んだとばかりに、振り向きもせず、お付きの島人と共に帰っていった。


――― 

すでに、真里が持ってきた魚を料理して、紗耶香、裕子、真里の三人で夕飯の食卓を囲むのは、日常となっていた。
いつものように夕食を食べた後、真里の誕生日ということで、紗耶香が買ってきたバースデーケーキを食べる。

「あたし、おばばに呼ばれてるんだよね。ちょっと今から行ってくる」
ケーキを食べると、紗耶香は思い出したように言った。
「何やて、こんな夜からか?」
裕子が渋い顔をした。
「うん」
「アカン。明日にし」
「駄目。急ぎだもん。本当はもっと早く行きたかったんだけど、せっかく買ったケーキ食べないのもしゃくだから・・・・」
「・・・・・・」
裕子はため息をつくと、好きにし、と言って、そのままゴロッと畳間に横になった。


「今夜は、あたし、おばばの所に泊まるから。ゆーちゃん戸締りよろしくね。じゃ、矢口、ゆっくりしていきなよ」
紗耶香はバタバタとあわただしく準備を整えると、玄関で靴を履きながら言った。
「う、うん」
横になった裕子を見つめていた真里が、慌てて頷いた。

「何じゃ、あいつは・・・・」
裕子がつまらなそうに呟いた。
「しょうがないよ。・・・・忙しい人だからさ」
真里の言葉に、裕子はフン、と鼻をならした。


「ゆーちゃんの髪って綺麗だね」
真里が隣に横たわっている裕子の金髪に触れた。
「ん?・・・・ああ、これかい、この色出すの、苦労するんやで」
裕子は照れたように笑うと、右手で髪をかきあげた。

「仕事場で何にも言われないの?」
「ああ、うるさく言うやつも居るけどな。・・・・無視しとるわ。・・・・矢口の髪だって、いい色やんか」
裕子が手を伸ばして、真里の赤茶けた髪に触れた。

「あたしのは、荒れてるだけだもん・・・・」
真里が拗ねたように俯いた。
裕子は真里の腕を掴んで、ぐいっと体を引き寄せた。
裕子の上に真里の体が覆い被さる形になった。
「そんなことないやろ?・・・・太陽の匂いと・・・・優しい、働き者の匂いがするで?」
そのまま、裕子は真里の髪に鼻を押しつける。

「ちょ・・・・やめてよ」
真里がジタバタと暴れた。
「それに、子ギツネはやっぱりこの色じゃないとな、感じ出んわ」
裕子は笑って、真里の髪をワシワシとかきあげた。
「・・・・先生は・・・・キツネって感じじゃないね。・・・・もっと・・・・ん・・・・何だろう・・・・」
真里は起きあがると、じっと裕子の顔を見つめた。


「そうや、矢口、欲しいもの考えたか?」
横たわっていた体を起こすと、裕子は真剣な口調で聞いた。
「ん・・・・まあね」
真里は視線をそらした。
意味もなく、畳のヘリをいじっている。

「何や?」
「・・・・・・」
「えらい、もったいつけてんなぁ」
答えない真里に、裕子は小さく肩をすくめた。


「あたしが欲しいのは・・・・」
真里は言うのを一瞬ためらった。
・・・・この優しい人を、あたしの愛情で包み込んで、他の誰にも触らせないようにして、自分だけのものにしてしまいたい。
そう、言ったら、この人はどんな反応を示すだろう。
あたしを受け入れてくれる?
・・・・それとも、拒絶する?
真里は決心したように、顔を上げた。

「ん?」
相変わらず、裕子は優しい瞳で真里を見つめている。
あたしがこれから言う言葉を聞いた後、この瞳はどういう変化をとげるのだろう。
真里は目を閉じると、深呼吸を一つした。
ありったけの勇気をふりしぼって、言葉を紡ぐ。

「あたし、先生が欲しい」


「な、何・・・・」
裕子は、一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「先生が欲しいの」
真里は真っ直ぐに裕子の瞳を見つめている。

「うちは女やで」
裕子の瞳には戸惑いが色濃く浮かんでいた。
真里の強い瞳におびえるように、あとずさる。
「・・・・そんなの、関係ない」
真里は裕子の腕を掴むと、力いっぱい自分の方へ引き寄せた。


「先生が好き」
真里は、そう言うと、驚いたように目を見開いたまま固まっている裕子の唇に、自らの唇を重ねた。

「なっ・・・・矢口っ・・・・」
裕子は体を突っ張らせて、一旦は真里の唇をもぎはなすことに成功したものの、またすぐに真里の唇が迫ってくる。
真里の体を押しかえそうという意思は働くものの、裕子の体はいうことをきかなかった。
すでに、裕子の口内には真里の舌が侵入し、いたずらをしかけてくる。
いつのまにか、裕子も真里に答えるように、深いくちづけをかわしていた。


「・・・・ずっと、好きだった」
真里が唇を離すと、裕子の耳元で囁いた。

・・・・ずっと?
うちと矢口が会ったのは、ほんの数日前やで・・・・。
裕子の脳裏に、つい先日盗み見てしまった、真里の浮かんだ。
『死んだ人のことなんか忘れろよ』
そう言った男を平手打つ、矢口。
『あたしの・・・・憧れの人だったんだ』
楽しげにに話す、矢口。
そういえば、あの時の矢口は、やけに嬉しそうやった。

「やめぇっ」
裕子は真里の体を突き飛ばした。そのまま、ズルズルと壁際まであとずさる。

「・・・・うちは、死んだ人の代わりはごめんや」
裕子は壁にもたれかかって、真里を睨みつけた。
「先生?何言って・・・・」
真里は戸惑ったように、首を傾げた。


「この前、偶然見たんや、あんたと男が言い争いしてるの・・・・。
男が『死んだ人のことなんか忘れろよ』って言ったら、あんたが男をひっぱたいたんや。・・・・あれは図星やったからやろ?」
「・・・・っ・・それはっ」
「聞きたないわ!」
裕子は目を伏せ、怒鳴った。
真里の体がビクッと揺れた。

「帰ってな」
裕子が俯いたまま、ぼそっと呟いた。
真里は呆然と立ちつくしていた。

しばらくすると、衣擦れの音がかすかに聞え、その後、玄関のドアの閉じる音が聞えた。


――― ―――

真里の誕生日から二日が経過していた。
裕子はじっと砂を噛むような日々を過ごしていた。
毎朝、重たい体を引きずるようにして、公民館へ向かい、機械的に健康診断を行う。
その後、疲れ果て、ボロボロになった体で帰宅する。

あの誕生日の夜の後も、真里は毎日、取りたての魚を、庭先に置いていく。
しかし、姿を見せる事はない。
裕子はどんな顔をして真里と顔を合わせればいいのかわからない事もあり、あえて真里を探すことはなかった。


『・・・・彼氏いるの?』
不安そうな矢口。

『・・・・あたしが、いるじゃん』
優しい矢口。

『先生・・・・あったかい』
甘える矢口。

『あたし、先生が欲しい』
熱っぽい瞳で見つめる矢口。


裕子はふと我に返った。
いつのまにか、また真里の事を考えている。

「なぁ、矢口が住んでる地区の、健康診断の日は、もう終わったんかいな?」
裕子は台所で夕食の仕度をする、紗耶香に向かって訊ねた。
「・・・・確か、最終日だったと思うけど」
「そうか・・・・」

最終日っていうたら、明日か・・・・。
矢口は来るやろか・・・・?
裕子は、ため息をつくと、思いを振りきるように、両手で自分の頬を軽く数回叩いた。


――― 

夕食後、後片付けを裕子一人にまかせると、紗耶香は真里の自宅へと向かった。

「矢口、ゆーちゃんと何かあったでしょう?」
真里の部屋に通されると、紗耶香は単刀直入に聞いた。
「・・・・何で、そう思うの?」
真里は急須から二つの湯のみにお茶を注ぎ、一つを紗耶香の前に置いた。

「んー・・・・何となく」
紗耶香は、そう言うと、出されたお茶を飲んだ。
ひどく苦い味。
葉の分量を間違えたんじゃないか?
紗耶香は顔をしかめたが、真里が何の反応も示さないので、肩をすくめ、またお茶に口をつけた。

真里はつまらなそうに、体育座りで、ユサユサと体を揺すった。
しばらく沈黙が続いた。紗耶香のお茶を飲む音が、やけに大きく聞える。


「ねぇ、紗耶香、『ゴンギツネ』の最後ってどうなるか知ってる?」
ふいに真里は真顔になると、紗耶香に訊ねた。
「・・えーと・・・・」
紗耶香は真里の豹変ぶりにたじろいた。

「ゴンは、尽くしていた『へい十』に鉄砲で撃たれて、死んじゃうんだ」
真里にとっては、紗耶香が質問に答えようが、答えまいが、どっちでもよかった。
自分の心情を吐き出すきっかけを、紗耶香が与えてくれたにすぎない。
それでも、真里は、なるだけ感情を押さえようと努力した。
そうしなければ、身も蓋もないほど、泣き崩れてしまいそうだった。

紗耶香は黙って、真里の言葉を聞いている。
「・・・・あたしも、撃たれちゃった・・」
真里は震える声でそう告げると、自らの胸を両手で押さえた。
ココが痛いんだよね、そう言って、俯いてしまう。


「・・・・矢口」
おずおずと紗耶香が話しかけた。
「・・・・・・」
「・・・・告白したわけ?」
「・・うん」
真里は顔をあげ無理やり笑おうとしたが、失敗してしまい、顔は不細工に歪んでしまった。
そんで?というように、紗耶香が視線で、続きを話すように真里を促した。

「死んだ人の代わりはごめんだ・・・・って」
真里の瞳からは、今にも涙がこぼれおちてしまいそうだ。
「死んだって・・・・、もしかして、うちの母親の事?」
「・・うん」
「何だよ、それ」
紗耶香が呆れたような声を出し、何でそういう話しになるのさ、と言って、天井を見上げた。
真里は無言で、ボロボロと涙を落とすと、鼻をすすった。

「まさか、諦めたわけじゃないでしょ?」
「・・・・・・」
「・・・・じゃあ、何で、今でも、魚置いてくの?」
「・・・・・・」
真里は俯くと、嗚咽をもらして、泣き出した。

紗耶香はため息をつくと、真里の体を抱きしめた。
真里の小さな体は微かに震えていた。


――― 

夕飯の片付けの後、裕子は一人、海に沿った夜道を歩いていた。
ったく、何やねん。
紗耶香のやつ、夜からフラフラと出かけおって。
おもしろくないわ。
今の裕子には、目の前に転がっている石でさえ、自分を邪魔する障害物のように、思えて仕方なかった。
視線を前に向けると、夜空の下、佇む二つの人影が見える。
裕子は内心ムカつきながらも、そのまま通過しようとした。

「先生、ひとりですか?」
健康診断に来ていた、BとKだった。大き目の岩に二人並んで腰掛け、星を見ている。
Bが裕子に気づいて、声をかけてきた。

「・・・・見ればわかるやろ」
裕子の剣幕に驚いたのか、BとKは口をつぐんだ。
温和な雰囲気が一瞬で険悪なものに変わろうとしていた。


「・・・・スマン」
裕子は気まずそうに謝った。
「・・いや、どうかしましたか?」
「・・・・何でもない」
裕子はBに一緒に座ってもいいか、と訊ねた。
どうぞ、とBが言うと、裕子は軽く頷き、そのままBの隣に腰をおろした。

「なぁ、変な事聞いてもいいか?」
裕子の目は、夜空の星に向けられている。
「何です?」
Bが怪訝そうな顔で裕子を見た。Kも視線こそ星に向けられているものの、意識は裕子とBに集中しているのがわかる。

「・・・・自分、いつ、同性愛者って気づいたんや?」
裕子は、気い悪くせんといてや、と前置きした後、おもむろに訊ねた。
「うーん・・・・先生は、いつから、男が好きでした?・・・・それと同じくらいからですよ」
Bはいたずらっぽく笑った。
「・・・・気がついたらってことか?」
裕子が首を傾げる。

「そういう事です」
Bは頷くと、よくできました、と笑った。


「なぁ、・・・・例えばやけど、急に、女が女を好きになるっていう事あるかいな?」
裕子はためらいながら、おずおずと聞いた。
「・・・・・・そりゃ、あるんじゃないですか?・・・・事実は小説より奇なりって言いますし」
Bは肩をすくめ、無責任に同意した。

「俺の場合もそうですし・・・・」
黙って裕子とBの話を聞いていたKが口をひらいた。
「・・・・俺、ずっと、こういうゲイの世界とは、一生縁がないものと思ってましたよ。コイツのせいで、人生変わったんです」
何だよ、その言い方、ひでぇなぁ、というBの声を無視しながら、Kはなおも言い続けた。

「コイツとは同僚だったんです。新入社員で、俺がコイツの教育係に選ばれて、それで・・・・色々世話しているうちに、
その・・・・好きだって告白されて。正直、困りましたよ。男に告られるなんて、想像したこともありませんでしたから。」
Kの言葉を受けて、Bはケタケタ笑い始めた。

「・・・・今だから笑えるけどな。当時は、笑い事じゃなかったよ・・・・」
KはBを軽く小突いた。Bが痛てぇ、と大袈裟な声をあげる。


「コイツを避けたり、殴ったり、泣かしたり、脅したり・・・・色々あったけど・・・・。ある日、気づいたんです。
ジタバタしている自分に。・・・・それで、ああ、もう遅いやって。・・・・ジタバタしてるって事は、もうすでに、コイツにとらわれているって。
・・・・とうとう、俺はホモになってしまったんだって・・・・・・開き直ったら、楽になりましたけど」
Kは、話している間もじゃれついてくるBを軽くいなしながら、開き直るまでが大変なんです、と笑った。

「・・・・それからは、流されるままに、仕事も辞めて、コイツとこの島に移住したってわけです」
話している間も、二人はじゃれあうのを止めなかった。KがBをヘッドロックで固めると、BはギブギブとKの腕を2回叩いた。
Kは笑って、Bを解放する。互いに微笑みあった。
裕子は黙って二人を見つめた。

この二人のどこがおかしいというんやろ?
互いが互いを、必要と感じ、助け合っている。
理想的なカップルやんか。


「先生?」
考えこんでいる裕子にKが声をかけた。
「ん?」
「何があった?なんて、野暮な事は聞きませんよ。そのかわり、忠告を一つ・・・・」
「何や?」
「自分に、正直が一番ですよ」
Kは生真面目な顔で言った。
「・・正直・・ね」
裕子は皮肉そうに、唇を歪めた。


『せんせい、じぶんのこころに、うそをついちゃいけないよ』
脳裏に、健康診断でおばばから言われた言葉がよみがえってきた。

・・・・そんな事言われても、自分の心がわからんから、悩んでいるんや!

中澤裕子、お前が一番欲しいものはなんだ?
何を望む?
何を?


『・・・・彼氏いるの?』
不安そうな矢口。

『・・・・あたしが、いるじゃん』
優しい矢口。

『先生・・・・あったかい』
甘える矢口。

『あたし、先生が欲しい』
熱っぽい瞳で見つめる矢口。


優しく、可愛いあの子を・・・・お前自身、惹かれてならなかった、あの子を拒んでしまった。

中澤裕子、お前は何を恐れている?

矢口真里を見ると、異常な感情の高まりをおぼえることか?
同性愛者になる不安か?
世間の人の目か?
それとも、死んだ紗耶香の母親か?

お前の勇気はどこにある?
希望は?
愛情は?

お前が一番欲しいものはなんだ?
何を望む?
何を?

真里の誕生日と同じ、満天の星空の下、裕子はBとKが帰った後も、ただ一人、じっと考えこんでいた。


――― ―――

一夜明けて、健康診断、最終日。
明日の朝には、東京に帰らなければならない。
裕子は公民館で、真里の来るのをじっと待っていた。
大勢の島人がやって来たが、終了時間を過ぎても、真里は姿を現わさなかった。


――― ―――

「矢口、今日の健康診断に、行かなかったんだって?」
夕方、紗耶香は真里の家を訊ね、真里の顔を見るなり、開口一番そう言った。
「知っているなら、聞かなくてもいいじゃん」
真里は仏頂面で答えた。
「何で、行かなかったんだよ!・・・・この、弱虫。・・・・今日だって、魚は家の前に置いてきたくせに」
紗耶香の顔が険しくなった。
「何でって・・・・あたし健康だもん」
真里は視線をそらし、消え入りそうな声で、意味のないいい訳を試みた。
「そんな事言ってんじゃない」
「・・・・・・」
紗耶香の言葉に、真里は無言で俯いた。

「どうすんだよ。ゆーちゃん、明日の朝には東京に帰っちゃうぞ」
紗耶香はこれ見よがしにため息をついた。
「・・・・何で、『先生が欲しい』なんて、言っちゃったんだろう。・・・・こうなることは、十分予想できたのに」
真里は自嘲気味に笑うと、唇を歪めた。
「そんなこと言ったの?」
紗耶香が驚いたような声を出した。
「うん」
「・・・・そうか」
紗耶香は頷くと、しばらく何か考えているふうだったが、おもむろに立ちあがると、
じゃあ、あたし帰るね、今日はよく寝るんだぞ、と言った。


紗耶香に何か言われるに違いないと身構えていた真里は、拍子抜けした感じだったが、紗耶香の言葉に素直に頷いた。
紗耶香の助言通り早く眠りについてしまおう、そうすれば嫌な事は考えなくてもすむ、そう考えた真里は、早々と布団に潜り込んだ。
しかし、いっこうに睡魔が訪れる気配はない。それどころか、頭は冴えてくるばかりだ。
否応なく裕子の事を考えてしまう。

最初は、確かに、似てるって思ったんだ。
初恋のあの人に似てるって・・・・。

つんじいの船で、初めて会った時、突然泣き出したあたしを、嫌な顔ひとつみせないまま、ずっと優しく頭を撫でていてくれた。
多分、その時から惹かれていたと思う。
でも、その時は自分の気持ちに気づいてなかった。
ただ、『ゆーちゃん』が紗耶香の家に宿泊するって聞いたから、
迷惑をかけてごめんなさいって意味をこめて、みかんを持っていったんだ。
誰からかわからないように、カードだけ残したのは、ほんのいたずら心からだよ。
っていうより、本当は、あたしを探してって思っていたのかもね。

だから、最初は好奇心だったんだよ。
あの人にそっくりな、『ゆーちゃん』がどんな人か、知りたかったんだ。
だから、健康診断に行ってきた人達の感想を、いっぱい聞いた。

日本人が嫌いなおじさんもね、あの医者先生はいい人だって言うんだよ。
びっくりしちゃった。


それから、あたしが、魚を置いていった犯人ってばれてから、『ゆーちゃん』と親しくなるまで、時間はかからなかった。
紗耶香と『ゆーちゃん』とあたしの三人で食べる夕食も、いつもの何倍も美味しかった。
『ゆーちゃん』と二人で散歩したり、星を見たり、楽しかったなぁ。

内心、先生の事を『ゆーちゃん』って呼んでいる、紗耶香がうらやましくてたまらなかった。
あたしは、心の中ではいつも、『先生』じゃなくて、『ゆーちゃん』って呼んでいたから。
だから、つい、一回だけ、『ゆーちゃん』って呼んだんだ。
『ゆーちゃんの髪って綺麗だね』って。
あの時は、照れたように笑ってくれて、嬉しかったなぁ。
『ゆーちゃん』がいずれ東京に帰っちゃうってわかってても、この気持ちは止められなかった。

誕生日プレゼント、別のものを頼んだ方がよかったのかな?
告白しない方がよかったのかな?
そしたら、今でも、『ゆーちゃん』の傍で笑っていられたかな?

今日だって、本当は健康診断に行こうと思って、朝からお風呂に入って、準備はしていたんだ。
でも、いざとなると、足が動かなくなった。
公民館に行くんだって思ったら、玄関から一歩も動けなくなってしまった。


『うちは女やで』
戸惑う裕子の瞳。

『・・・・死んだ人の代わりはごめんや』
裕子の冷たい瞳。

『聞きたないわ!』
吐き捨てたような言葉。

『ずっと、好きだった』って言葉は、『ゆーちゃん』に向かって言ったんだけどな・・・・。
あの人は――初恋の人は――あたしの思い出の中にしかいない。
今欲しいのは、中澤裕子、その人だ。
でも・・・・
真里はぎゅうと目をつむった。

決定的な言葉を聞きたくない。
今度、はっきり拒絶の言葉を聞いたら、あたしは・・・・

・・・・でも、やっぱり、好きだなぁ。
あたしは――中澤裕子が好きだ。

真里は、何度も、寝返りをうった。
今夜も眠れそうもない。
真里の瞳に涙が浮かんだ。


――― ―――

裕子は平坦な荒野をただ一人、黙々と歩いていた。
どこに向かって歩いているのか、何のために歩いているのかさえもわからない。
ただ、ひたすら前に足を踏み出すだけだ。
立ち止まってしまったら、得体の知れない何者かに飲み込まれてしまいそうだった。
と、裕子の足元が揺らぎ始めた。
ずぶずぶと音をたてて、土の中に沈んでいく。
気がつくと、いつのまにか平坦な荒野は、沼地へと変化していた。

裕子は前に進もうと、足を踏み出すが、沼地の泥に足を取られるだけだ。
それでも懸命に足を踏み出そうとする。
裕子のまわりには、すがる物は何一つない。見渡す限りの沼地だ。
すでに腰の高さまで、泥に埋まってしまい、身動きできない。
もう、おしまいだ。裕子は絶望感に襲われた。


『ゆーちゃん』
突如声が聞えた。
裕子が声のした方を振り向くと、真里が立っていた。
不思議な事に、沼地の上を、すべるように歩いている。
真里は真っ直ぐに裕子の前に来ると、嬉しそうに笑いかけた。
「・・・・何がおかしいんや」
泥の中に体半分埋まっているのだ、自然に裕子の口調も、不機嫌なものになる。
いつもは背の低い真里を見下ろす形の裕子も、この時ばかりは真里に見下ろされる形になった。

『ゆーちゃん』
真里は裕子の言葉を気にする様子もなく、裕子の頬に両手を当て上を向かせると、唇を重ねた。
すると、真里の体も、ずぶずぶと音をたてて、泥の中に沈み始めた。
「何、やってんのや!早く逃げえ!!」
裕子は真里から唇をもぎ離すと、真里を泥の中から押し出そうとした。
『嫌だ。ゆーちゃんと一緒にいる』
真里は裕子の体にしがみつき、決して離れようとしない。
見る見るうちに、二人の体は、泥の中に埋まっていく。
もはや、泥の上に出ているのは、首から上だけだ。

『ゆーちゃん、好きだよ』
真里の声がする。
裕子は諦めきれずに、ジタバタと泥の中で体を動かし続けた。
真里はそんな裕子を、物悲しげな表情で見つめている。


「・・わああああっっ・・・・・・」
大声をあげて、裕子は目覚めた。
真冬にも関わらず、べっとりと額に髪の毛が張り付くほどの汗をかいている。
裕子は上半身を起こすと、深い、安堵のため息をついた。
夢で良かった。
これが、裕子の率直な感想だった。

枕下のスタンドの明かりをつけ、時計を見た。ちょうど午前三時をまわったところだ。
裕子は布団から起きあがると、旅行かばんをひらいた。
今日の朝、東京に立つ為に、もうすでに荷物はまとめてある。
汗ばんだ寝間着を脱ぎ捨て、かばんからシンプルな上着とズボンを取り出し、それに着替えた。

湿った布団の中に戻るのも気がひけて、裕子はかばんの中から小さなポーチを取り出すと、窓を開け、窓のふちに腰掛けた。
夜明け前の冷たい空気が、裕子の頬を撫で、同時に眠気を覚ましてくれるようだった。
裕子はポーチからタバコとライターを出し、タバコを口にくわえ、火をつけた。
裕子の口からタバコの煙がはきだされる。
裕子はぼんやりと、タバコの煙を見つめた。


あと六時間ほどで、この島ともサヨナラか・・・・。
裕子はここ十日ばかりの、島の人々との交流を思いだし、小さく笑った。

この島は、好きや。
豊かな自然、美しい空と海、あたたかい人間関係、おいしい食べ物。
うちが東京暮らしで失ってしまったものが、この島には脈々と生きているという感じがする。
この島やったら、ずっと居てもいいような気さえするわ。

そこまで考えて、裕子ははっと我に返った。

何を考えている?
うちは、今日の朝、東京に帰るんやで?
第一、こんな島に住むって言ったら、うちのおかんが何て言うか・・・・。
裕子は短くなってしまったタバコをビールの空き缶に捻りこむと、新しいタバコに火をつけた。


しかし、なんちゅう夢を見るんや。
裕子は夢の内容を思い出すと、ぶるっと震えた。
自分で自分が恐い。
結局、うちは、矢口から逃げられんということやろか?
昼間は昼間で、気がつくと矢口の事を考えて。
夜は夜で、夢の中に矢口が出てくる。

そこなし沼にはまり込んでいるようなものや。
矢口の姿が見えない事にほっとしている自分と、その姿を追い求めてしまう自分。
矢口の唇の感触を忘れられない自分と、その事を嫌悪する自分。
矢口の『ずっと好きだった』という言葉の意味を考え続けている自分。
あれは自分に向けられたものだと思う自分と、いや、あれは紗耶香の母親に向けられた言葉だと思う自分。
自分で聞きたくないと、矢口のいい訳じみた言葉を拒絶したくせに、それで黙り込んでしまった矢口に腹を立てている自分。

裕子はタバコのフィルターをギリギリと噛み潰した。


『せんせい、じぶんのこころに、うそをついちゃいけないよ』
『自分に正直が一番ですよ』
おばばもKも、同じコトを言っている。

どうしたらいいんやろ?

何故、矢口のキスを受け入れた?
受け入れたばかりか、応えてしまったのは何故だ?

うちは、女が好きなんやろか?
仲のいい女友達は大勢いる。しかし今まで、性的な意味で女性に惹かれた事はない。

裕子はためしに、今まで付き合ってきた恋人達の事を、思い出してみた。
男性、年上、長身、筋肉質、テノールの声。
うん、どれも、矢口とは大違いや!
どこかで、ほっとしている自分がいる。
裕子はタバコをビール缶にこすりつけ、火を消した。
フィルターは平たく潰れてしまっている。


裕子はため息をつくと、窓を閉めた。
寝た方がいいかもしれん、と言ってみた。
どこか、白々しい響きがする。
裕子は布団の中に潜り込むと、頭まで布団を引き上げた。
汗で湿った布団が気持ち悪い。
裕子は何も考えず、眠り込んでしまいたかった。
しかし、睡魔が訪れる気配はまったくない。

『・・・・彼氏いるの?』
不安そうな瞳の矢口。

『・・・・あたしが、いるじゃん』
優しく寄り添ってくれた矢口。

『先生・・・・あったかい』
顔をすりつけ、甘える矢口。

『あたし、先生が欲しい』
熱っぽい瞳で見つめる矢口。
そして、やわらかい唇。

気がつくとまた、矢口の事を考えている。
裕子はそんな自分自身を嫌悪した。


中澤裕子、お前は何を恐れている?

矢口真里を見ると、異常な感情の高まりをおぼえることか?
同性愛者になる不安か?
世間の人の目か?
それとも、死んだ紗耶香の母親か?

お前の勇気はどこにある?
希望は?
愛情は?

お前が一番欲しいものはなんだ?
何を望む?
何を?

いくら考えても、答えは出なかった。
裕子はまんじりともせず、考え続けた。


――― ―――

今日は、裕子が東京に戻る日だ。
空は晴れ渡り、雲一つない。
裕子は青空を見上げると、深いため息をついた。
明け方近くに目覚めてからは、結局一睡もできず、朝食も箸が進まず、ひたすら真里の事だけを考えていた。
恋に恋していた学生の頃でも、こんなに一人の人物――しかも、十も年下の女の子――の事ばかり考えていた事はない。
裕子の恋はもっとスマートで、理知的なものであったはずだ。

うち・・・・ホンマ、おかしいで。
どないしてしまったんやろ?
裕子は落ち着きなく、部屋の端から端までを行ったりきたりを繰り返した。
そうすれば考えがまとまるとでもいうように。
しかし、裕子の混沌とした内面は、裕子自身、理解に苦しむものだった。


そうするうちに、一刻一刻と、島を離れる時間が近づいてきた。
「ゆーちゃん、そろそろ行かないと」
紗耶香の能天気な声が聞えた。

今の裕子にとっては、紗耶香の親切な一言でさえ、苛立ちの対象だった。
そんなに、うちを、東京に帰したいんか!?
そう、考えてしまった自分を、裕子は必死で律した。
何を考えている?
紗耶香は親切にも、船の出る時間が近づいている事を、それとなく教えてくれただけにすぎない。
裕子は紗耶香に弱々しく笑いかけると、旅行かばんを右手で持ちあげた。

紗耶香は裕子のもう一つの旅行かばんを持つと右手で持つと、一緒に港まで歩いていく。
裕子の足取りは重たかった。
裕子は何も考えずに、ただ足を交互に前に出すように心がけた。
旅行かばんでさえ、来た時の何倍も重く肩にのしかかっているように感じた。


港には、大勢の島人が見送りに来ていた。
裕子は無意識のうちにキョロキョロと辺りを見渡し、真里の姿を探した。
そして、そんな自分に気づくと、激しい自己嫌悪におちいった。
うちは、一体、何を考えてるんや?
矢口は十も年下の、しかも女の子やで?
どうにかしている。バカ丸出しだ。

そうは思うものの、心は理性を裏切って、真里の姿を捜し求めている。
しかし、真里はどこにもいない。
諦めきれず、裕子はさらに、視線をさまよわせた。

「矢口は、来てないみたいだよ」
紗耶香が裕子に耳打ちした。
「絶対、来るようにって、言っておいたんだけど・・・・」
「・・・・・・」
申し訳なさそうな紗耶香の顔を見ていると、裕子は何も言えなくなった。
本当は思いっきり怒鳴りつけてやりたいぐらいだったが、それでは、単なるやつあたりになってしまう。

うちが、矢口を傷つけてしまったんや。
自業自得ってやつやな・・・・。
裕子は目を閉じると、深い深呼吸を数回繰り返した。
気を静めないと、矢口の名前を大声で叫んでしまうかもしれない。
裕子はそれを恐れた。


先生、そろそろ行きましょうか、とつんじいが言った。
裕子は頷くと、つんじいの船に乗り込むため、タラップを歩き出した。
こんなに足が重いなんて・・・・まるで鉛でも入っているみたいや。
このまま、海に沈んでも、うちは浮き上がってこないに違いない。
裕子は海に沈んでいく自分を想像してみた。
真っ直ぐに海底に沈んでいく自分。
案外、悪くないかもしれん。
裕子は唇を歪めると、自嘲気味に笑った。
こんな事、考える自体が、すでに病気や。

つんじいがエンジンをふかせると、船はゆっくりと動き出した。
裕子は船の後部甲板から、うつろな眼差しで、見送りに来ている人々を見下ろした。
紗耶香をはじめ、この10日間の短い中で、交友を深めた人々ばかりだ。
両足にギブスを巻いた真希までが、見送りに来ていた。
表情から、みんな、裕子との別れを惜しんでいるのが見て取れる。
裕子は泣きそうになった。
気づかないうちに、しかし確実に、この阿麻和利島は裕子の心の中に入りこんでいた。
今では、かけがえのない存在になっている。
この島を離れるのが、身を切られるようにつらい。

矢口真里に関しても、同じ事がいえた。
向こうから近づいてきて、告白してきたくせに。
勝手に、裕子の心の中に入りこんできたくせに。
別れの挨拶も言ってこない。見送りにも来ない。
うちは・・・・悲しくて、寂しくて、つらいのに・・・・姿も見せない。
裕子は絶望感に襲われた。


と、見送りに来ていた人の波が、割れた。
息をきらした真里が現れた。
途中で転んだのだろうか、頬と、足の膝に泥がついている。

裕子と真里の視線が絡まりあった。
船が動き出しているため、二人の距離はすでに、20メートルは離れている。
裕子は真里に会った時に言おうと思って、色々考えていたが、実際真里を目の前にすると、
考えていた言葉は霧のように消えてしまった。

「・・・・矢口・・・・ごめんな・・」
やっとの思いで、言葉を絞り出した。
もっと、気の利いたことが言えたらと、裕子は歯噛みする思いだった。
真里がぶんぶんと、首を横に振る。
真里も言葉にならないようだ。

言葉というのは、時には厄介なものだ。
誤解を生みやすいし、必要な時に出てこない事が多い。

裕子は船の後部甲板に立ったまま、次第に小さくなっていく真里を見つめ続けた。
港には大勢の人が立っていたが、目に入ってくるのは、真里ただ一人だった。


船は100メートルも進んだだろうか、真里の姿は、本当に小さくなっていた。
裕子はその豆粒のような真里を、涙でかすんだ目で見つめ続けた。
その、真里の小さな体がかがんだと思った瞬間、水飛沫がおこった。
真里が海に飛び込んだのだ。
人々の歓声が、陸から離れた船の上の裕子のもとにも聞えた。

裕子は急いで、つんじいに船を止めるように言った。
真冬の海を、真里は真っ直ぐに、裕子の乗っている船に向かって泳いでくる。

南の島とはいえ、真冬には、気温は10度近くまで冷え込む。
真里は何故、自分が海に飛び込んだのかわからなかった。ただ、裕子の傍にいたかっただけだ。
真里は泳ぎながら、体が悲鳴をあげるのを感じていた。
手足の感覚はほとんど感じられなくなっている。
ただひたすら、足をばたつかせ、腕をまわし続けた。

裕子は呆然と、クロールで近づいてくる真里を見つめた。
真里は船の端にへばりついて、息を整えていたが、裕子の差し出した手を取ると、船によじ登った。


「・・い、行っちゃ・・嫌だ。・・ゆーちゃん、行かないで!」
叫びながら、ずぶ濡れの体で、裕子に抱きついた。

裕子は真里の氷のように冷たい体を、しっかりと抱きとめた。
つんじいが、船室から毛布を取ってきて、真里にかけてやった。

「ゆーちゃん、行か・・ないで、あたしの・・傍・・にいてよ!」
真里は歯をガチガチ鳴らし、ガタガタ小刻みに体を震わせながら、それでも、瞳を真っ直ぐに裕子に向けた。
唇は紫色に変色し、涙と鼻水まみれの真里の顔は、客観的に見るとひどく不細工だったが、裕子の目には美しく輝いて見えた。

裕子の顔が泣き笑いに変わっていく。
「あんたって子は・・・・ホンマ、かなわんな・・・・」
裕子の瞳には、先程までの、狂おしい葛藤の色は微塵もなかった。
この子にはかなわない。逃げ回っても、無駄だ。
完敗だ。白旗をあげてしまおう。
その証拠に、この子が追っかけてくれただけで、こんなに幸せな気持ちになれる。


裕子は真里の体にしっかりと毛布を巻いてやると、困惑の表情を浮かべるつんじいに、島に戻ってもらえますか、と言った。
船が島に戻ってくると、もう大騒ぎとなった。
真里の両親は、何が起こったのかわからないという表情を浮かべ、それでも、
娘が裕子に迷惑をかけたという意識はあるらしく、裕子に向かってすいませんと謝ってきた。
裕子も、こちらこそすいません、と返した。
真里の両親は、さらに訳がわからないという表情を浮かべた。

「こうなると、思っていたよ」
紗耶香がニヤニヤ笑いながら、裕子に近づいてきた。
「嘘つけ」
裕子の言葉に、紗耶香は肩をすくめた。

「・・・・それより、急患発生や!・・あんたの家を借りるで!!」
裕子が早口にまくし立てた。
裕子自身も、真里ほどではないにしろ、海水で濡れてしまっている。
「・・・・わかった。好きにつかっていいよ。・・・・矢口の両親には、あたしから適当に言っとくから」
紗耶香はヒラヒラと手を振って、早く行けという仕草をした。
「矢口を運ばんと・・・・」
裕子は助けを借りようと、辺りを見まわした。


「俺が運びます」
一人の青年が進み出た。
どこかで見た顔だ。裕子は記憶を探ってみた。
・・・・真里を口説いていた男や。
俺はあきらめないからな、と真里に向かって、ほざいていた男や。

「あんた・・・・うちの矢口にちょっかい出さんといてや!」
裕子はギロッと青年を睨んだ。
青年がビクッと身をこわばらせた。

最初が肝心やからな。
締めとかんと・・・・。
裕子は青年を一瞥すると、フンと鼻をならした。

裕子の考えている事を見ぬいたのか、紗耶香が含み笑いをした。
「先生、いたいけな青年を、びびらせちゃいけないと思いま〜す」
Bもちゃらけたような声をあげた。
Bの隣で、Kも笑いを堪えているようだ。

「うっさい。・・・・BとK、見てないで、矢口を紗耶香の家まで運んでや」
裕子は顔を赤らめると、そっけなく言った。




紗耶香の自宅に到着すると、裕子はBとKを部屋から追い出し、風呂を沸かしてくれと頼んだ。
それから、真里の濡れた服を剥ぎ取り、水分をタオルでふき取ってやる。
毛布で保護されていたとはいえ、真里の体は氷のように冷えきっていた。
徐々に、体温を常温に戻してやるのが、先決だ。
裕子は自らの濡れた服を脱ぎ捨て全裸になると、同じく全裸の真里の体を抱きしめ、毛布にくるまった。

自分の体温全てあげてもいい。裕子はそう思っていた。
真里の体温は少しずつではあるが、もとに戻ってきているようだった。
青白かった頬にも、赤みがさしてきた。
もう大丈夫だろう。
数時間が経過して、真里が落ち着いた頃を見計らって、裕子は毛布からそっと脱け出した。

床に散らばった、濡れた服を身に着ける。
気持ち悪いが、致し方ない。
家の中とはいえ、全裸で歩きまわるわけにはいかない。


「往生際が悪いんだよ」
「言えてる」
濡れた服を着替えて、応接間に入ろうとした裕子の耳に紗耶香とBの話し声が聞えてきた。
どうやら二人は、裕子を話しのネタにしているらしい。
裕子は深呼吸すると、一気に応接間のふすまを横に引いた。
紗耶香、B、Kが息を呑むのがわかった。

「楽しそうに、何、話しているのかな?」
ニッコリ笑いながら、裕子が尋ねた。
「な、何って、別に、なぁ?」
Bが慌てたように、Kに同意を求めた。
Kもあいまいに頷き返した。

「ゆーちゃん、矢口は?大丈夫なの?」
紗耶香が急須からお茶を湯のみに注ぎながら、聞いてきた。
裕子が重々しく頷いた。
「・・・・ふーん。・・・・お風呂沸いたからさ、呼んでこようと思って、覗いたら、いい雰囲気なんだもん。
・・・・あれじゃ、声かけられないよね」
紗耶香がニヤニヤと笑った。
「な、何言ってるんや!あれは、りっぱな治療やで!!」
裕子は顔を真っ赤にすると、慌てたように言った。
「まあまあ、ゆっくりお茶でも飲んで、落ち着きなよ」
紗耶香は裕子の前に、コトンと音をたてて湯のみを置いた。


紗耶香はお茶を飲む裕子の顔をチラッと見た。疲労の色が見える。
「・・・・お風呂わいてるよ。入ったら?」
「・・・・そうやな」
裕子はおとなしく頷いた。
Bが、じゃあ先生がお風呂に入っている間、僕らが矢口さんの事みてますよ、と言った。
「頼むわ。・・・・ただし、ちょこっとでも、毛布をめくったら、あんたらコロスで?」
裕子はギロッとBとKを睨んだ。
真里は、今、別室で、全裸で毛布に包まれて眠っている。

紗耶香は、そう言った裕子の顔を見て、また、ニヤニヤと笑った。
BとKも、笑いを堪えているのか、俯いて小刻みに体を震わせている。
「・・・・何や?」
裕子が憮然としたように聞くと、紗耶香は、ジタバタ逃げ回っていた人のセリフとは思えないね、と言った。
裕子は照れたように、ふいっと紗耶香から視線をそらした。


裕子が風呂場に入ると、すでに、風呂桶にはお湯がはってあった。
裕子は手早く体を洗うと、桶の中に体を沈めた。
桶の中からお湯が溢れ出す。
裕子はゆっくりと体を伸ばした。
疲れが取れていくようだ。

『ちかぢか、せんせいは、にほんのみちのうちの、いっぽんをえらばないといけなくなる』

『どっちのみちをえらぶかによって、そのごのじんせいが、おおきくかわるはずじゃ』

『きめるのは、じぶんじしんだけじゃよ』

『じぶんのこころに、うそをついちゃいけないよ、せんせい』

おばばに言われた言葉が、胸をうつ。
今なら、おばばが何を言おうとしたか、わかるような気がする。
おばばの言う、二本の道のうちの一本を選ぶ時というのは、おそらく今なのだろう。

これから――どうするか。
結論は出ている――が――問題は――
お湯に肩までつかりながら、裕子は目をつぶって、考えた。


風呂からあがると、裕子はかばんから携帯電話を取り出すと、かけはじめた。
紗耶香が気を利かして、席をはずそうとするのを、引きとめる。
数回のコールの後、相手が出た。
「・・・・A教授ですか?・・中澤です。・・実は、急患が出まして・・・・いや、大した事はないんですが、それで、帰るのが遅れます。・・・・・・いえ、明日には、東京に帰りますから。・・・・はい、・・・・はい、わかりました」
裕子はため息をつくと、電話を切った。

「最近の携帯電話は、えらい、性能がいいなぁ。こんな南の島でも、よく聞えるで」
裕子はおどけたように言った。
紗耶香は黙ったまま、裕子を見つめた。
二人の間に、しばし沈黙が訪れる。


「・・・・なぁ、例えばやけどなぁ・・・・美人で、若くて、腕がよくって、性格もいい医者が、この島に住むって言ったら、あんた、どうする?」
裕子は紗耶香の視線を避けるように、俯いて、畳のくぼみをいじり始めた。
「・・・・そうだなぁ・・・・小さな診療所と小さな家ぐらいは、準備しますよ?」
紗耶香は笑いを奥歯でかみ殺すと、至極真面目な声色で答えた。

「・・・・若いんやで?・・・・貧乏暇なしの研修医やで?・・・・そんな金ないわ」
裕子が自信なさげに、小さな声で呟いた。
「・・・・アハハハハ・・・・ローンにしときますよ。無利息、無担保の。・・・・先生がこの島に来てくださるのなら・・・・アハハハ・・・・」
紗耶香はもはや笑いを堪える事が不可能になっていた。
裕子の自信なさげな態度がおかしくて仕方なかった。
裕子がこの島に来てくれるならば、おそらく、多くの島人が喜んで協力してくれるだろう。
小さな診療所と家くらい、準備するのは朝メシ前だ。
ゆーちゃん、あなたは、自分が思っている以上に、色々な人から愛されているんだよ?
紗耶香は腹を抱えて笑い転げた。
「・・・・・・」
裕子は憮然とした様子で、笑い続ける紗耶香を見つめた。

「それに・・・・今なら、可愛くて健気な子ギツネが、もれなく付いてくると思いますけど?」
笑いすぎて涙のにじんだ瞳を、いたずらっぽくきらめかせて、ニヤニヤ笑いながら、紗耶香は裕子の顔を覗きこんだ。
「・・・・それは・・・・子ギツネ本人に聞かんことには、何とも言えんな」
「とか言って、本当は自信満々のくせに」
紗耶香は裕子の背中をバシッと叩いた。


Bが裕子を呼びに来た。
真里が目を覚ましたらしい。
もうすでに、日が暮れ、辺りは真っ暗になっていた。

「ゆーちゃん・・・・」
部屋に入ってきた裕子を見ると、真里は上半身を起こした。
裕子が部屋に来る前に、誰かが着替えを持ってきてくれたのだろう。真里は紗耶香のパジャマを身に着けていた。
裕子と入れ替わりに、BとKが出て行く。
「どんなや?調子は?」
真里が答えられずにいると、裕子は真里の傍に座り、真里の額に手を当てた。その後、真里の右手を取ると、脈を計り始めた。
「熱があるな。・・・・脈もはやいし・・・・」
裕子は困ったような顔をした。

「まったく、冬の海に飛び込むなんて、無茶するからや・・・・」
「・・・・迷惑だった?」
恐る恐るという感じで、真里が尋ねてくる。その声は、心なしか震えているようだ。
裕子は黙っている。


「ねぇ、迷惑だった?」
なおも、真里が尋ねた。
「・・・・そうやな・・・・驚いたゆうのが、率直な感想やな」
「・・・・・・」
裕子の言葉に、真里は黙り込むと、俯いてしまった。
裕子に迷惑をかけるつもりはなかった。ただ、考えるより先に体が動いて、海に飛び込んでしまった。

「矢口、頼むから、こんな無茶はせんといてーな」
裕子が弱々しい声で、囁くように言った。
真里が驚いたように顔をあげた。
裕子の瞳には涙が光っている。
「・・・・ゆーちゃん」
真里は呆然と、裕子の涙を見つめた。

「・・・・あたし・・・・ゆーちゃんが・・ずっと・・・・好き・・・・」
考えるより先に、真里の口からは言葉がこぼれ出していた。
「・・・・そうか」
裕子は涙を拭うと、頷いた。
「・・紗耶香のお母さんは・・・・もう、なんでもないよ」
「・・・・そうか」
裕子は目を細めると、嬉しそうに何度も頷いた。
真里の髪に手を伸ばすと、優しく撫でた。
自然に二人は寄り添う形になった。真里は裕子の肩に頭をのせ、体重を預けた。


「うちな・・・・明日の朝、東京に戻るわ」
裕子の言葉に、真里の体がぴくっと震えた。
「・・・・そう」
消え入りそうな声で呟くと、両手で毛布の裾をぎゅうっと握り締め、それっきり俯いてしまった。

「矢口、顔上げてーな」
裕子が苦笑した。
真里は黙って俯いたままだ。
「・・・・そうやな。・・んー・・・・残ってる仕事片付けたり、うちのおかんと話し合ったりせんといかんから・・・・
戻ってくるのは・・・・一ヶ月後ぐらいかな」
裕子は独り言をいうように、口の中でもごもごと言った。
真里は口を開け、ポカンとした顔をした。

一ヶ月ぐらい我慢できるやろ?
そう言うと、裕子は顔を傾けて、真里の顔を覗きこんだ。


「それって・・・・」
真里が大きな目を、さらに見開いた。
裕子は無言で頷いた。

「・・・・・・」
真里は裕子に抱きついた。
嬉しくて、言葉が出てこない。
腕の中の愛しい人の存在を確かめたくて、更に力を込めて抱きしめた。

「うわっ・・・・矢口、苦しいわ」
裕子が苦しそうな声出した。そうは言うものの、裕子の顔はこの上なく幸せそうだ。

「・・ゆーちゃん」
真里は裕子の胸に、顔を擦りつけた。
「ん?」
裕子が返答する。
「ゆーちゃん・・・・ゆーちゃん・・」
真里は裕子が返事をしてくれるのが、嬉しくてたまらなかった。

「今日は、先生って、言わないんやな」
繰り返し自分を呼ぶ真里に、裕子は照れたようにはにかんだ。
「・・・・あたし、心の中では、ずっと、ゆーちゃんって呼んでた・・・・」
「・・・・そうか」
裕子が頷いた。


裕子が頷いた。

真里は裕子の胸から上体を離すと、目をつぶって、唇を寄せてきた。
唇が重なる寸前に、裕子は人差し指で、真里の唇を止めた。
「駄目や。風邪ひいとる人とは、キスせーへん!」
唇に受ける感触が、思っていたものと違うことに驚いた真里が目を開くと、裕子がいたずらっぽく笑いかけてきた。
「えー・・・・」
真里は不満そうに、プーっと頬を膨らませた。

「それが嫌やったら、早く治すことや!」
裕子は真里の額にすばやく唇を落とした。
今はこれで我慢しとき、そう言うと、裕子は目を細めて笑った。


――― ―――

裕子は久しぶりに、さわやかな朝を迎えた。
布団から起きあがり、カーテンを開け、朝日を浴びると、自分があらゆるものから、祝福を受けているかのような幸福感に包まれた。
こんな朝を迎えられたのも、矢口のおかげやな。
裕子は大きく背伸びした。

今日は裕子が本当に、東京に戻る日だ。
想いが通じ合った今、離れ離れになるのはつらいが、仕方がない。
昨日の電話でA教授は何も言ってこなかったが、仕事がたまっているのは確実だろう。
これ以上引き伸ばす事は困難だ。


「まだ、熱があるな」
裕子は体温計を見ると、困ったような顔を見せた。
「もう、平気だよ。・・・・あたし、港まで一緒に行くから」
真里は上半身を起こすと、裕子をじっと見つめた。
「アカン」
裕子は首を横に振った。
「平気だって」
「アカン。おとなしく寝とり」
裕子は真里の両肩をつかむと、再び布団に横たえようと、力を加えた。

「嫌だ」
これから一ヶ月も会えなくなるというのに、見送りに行っちゃいけないなんてひどすぎる。
真里は肩をこわばらせ、口をへの字に曲げると、ブンブンと首を横に振った。
「矢口・・・・聞き分けのないこと言わんといてーな」
裕子は困ったような、そして、どこか嬉しそうな複雑な表情を見せた。
「嫌」
「・・・・すぐに、また、会えるやろ?」
「・・すぐ・・・・すぐじゃないよ」
真里は涙を浮かべると、右手で裕子の上着のすそを握り締めた。
「・・・・矢口」
裕子は困ったように笑った。

「離れたくないよ」
涙の浮かんだ瞳で裕子を見つめ、真里は拗ねたように、唇を尖らせた。
「・・・・うちかて、離れたないわ」
裕子は真里から視線をそらし、ポリポリと額をかいた。
真里の、だって、だってさ、という涙声が聞える。


「・・・・しゃーないな・・・・本当は風邪ひきさんとは、したくないんやけど・・・・」
裕子は顔を傾けると、真里の唇に、自分のそれを重ねた。
真里の唇は微熱のせいで、熱く感じた。
困ったな・・・・。
やっぱり、唇にキスなんかするんじゃなかった。
ずっと、キスしていたい。
もっと、深く感じたい。
そう思いながらも、裕子はゆっくりと唇を離した。
風邪をひいている体に、無理は禁物だ。

唇が離れると、裕子は嬉しそうに笑った。
真里は照れたように俯くと、裕子の両手に指を絡めた。


「・・・・矢口?」
「何?」
「・・・・うちが帰ってくるまでな、これ預かっていて欲しいんや。・・・・うちだと思って、大事に扱ってや」
裕子は左手から腕時計を外すと、真里の左手を取って、その手首につけた。
「・・これ・・」
真里が驚いたように、裕子の顔を見上げた。
裕子の父親の形見の時計だ。
裕子がとても大切にしているのを知っている。
「ん?」
真里の驚いたような顔を見て、裕子はニコニコと笑った。
「・・いいの?」
「矢口に預かっていて、欲しいんや」
「・・・・嬉しい・・・・嬉しいよ」
真里は時計をつけた左手をかざすと、裕子を涙目で見つめた。


裕子は真里の涙目を見たとたん、真顔になった。
真里の体を引き寄せると、きつく抱きしめた。
真里が苦しそうな吐息をもらす。
裕子は腕の力を弱め、真里の顔を覗きこんだ。
いいからもっと強く抱きしめて、と真里が言った。
上気した真里の顔を見ていると、裕子はどうにも我慢ができなくなっていた。

右手で真里の頬に触れ、そっと撫でた。そのまま固定すると、唇を重ねた。
真里の両手も、裕子に首に回され、指先は裕子の髪の毛をせつなげに愛撫している。
裕子は真里の口内に侵入すると、真里の熱い舌を探し出した。
真里の唇の感触を、夢中になって味わう。
唇が離れると、真里は苦しげに息を乱していた。

「・・・・うちが、風邪ひいたら、矢口のせいやで」
裕子は真里を抱きしめ、髪を優しく撫でながら、耳元で囁いた。
「・・いいもん」
真里は小さく呟いた。


「いいの?」
港に向かう道すがら、紗耶香がためらいがちに、裕子に聞いた。
「ん?」
「矢口・・・・」
「・・・・いいんや。・・・・熱もまださがらんしな。・・・・それに・・・・あいつなら、また、船を追って、海に飛び込みかねんからな」
裕子は困ったように肩をすくめた。
「アハハハ・・・・言えてる。・・・・でも、よく矢口がいうこときいたね。絶対、自分も行くって言い張りそうだけど・・・・」
紗耶香は右手に持っている裕子のかばんを、振り子のように揺らしながら、不思議そうに聞いた。

「まあな・・・・」
裕子は赤くなって、俯くと、道端の石ころを蹴飛ばした。
「・・・・ふーん・・・・朝から、大サービスしたわけね・・・・」
赤くなった裕子の顔を見て、何か思い当たったのだろう、紗耶香はニヤニヤ笑うと、港に向かって走り出した。

「な、何や、大サービスって・・・・」
裕子の声が追いかけてくる。
「アハハ・・・・別に」
ゆーちゃんと矢口ってホント、からかいがいがあるよね。
走りながらも、自然と、紗耶香の顔に笑みがこぼれ出した。
紗耶香の後ろから、待ってやーという、裕子の悲壮な声が聞えてきた。


裕子は、昨日と同じように、つんじいの船に乗り込んだ。
港には、昨日と同じように、たくさんの島人が見送りにきている。
ただ一つ違うのは、裕子の足取りが非常に軽いということだ。

裕子は真里に、一ヶ月後にこの島に戻ってくると約束した。
今は、その約束を果たすため、しばらくの間離れるだけにすぎない。

つんじいの船は裕子を乗せて、沖縄本島へと出発した。


――― ―――

裕子は沖縄に向かう飛行機の中、この一ヶ月の出来事を思い返していた。
京都から沖縄本島までの約ニ時間のフライトだ。
少しぐらい、感傷にひたってもいいだろう。
裕子はシートに身を沈めると、瞳を閉じた。

東京に戻ってからの裕子は、厚生省に『阿麻和利島の住人に関する健康状態報告書』を提出しなければならなかった。
報告書には逐一、島民の健康状態を記入しなければならない。
阿麻和利島は人口における、病人の割合が驚くほど低い。長寿社会なのにも関わらず、過疎化している気配もなかった。
稀有な存在の島といえるだろう。
報告書を書き終わる頃には、裕子は紗耶香が以前もらしていた、
日本政府が阿麻和利島を監視したいんだ、という発言はまんざら的外れではないと思い始めていた。

日本政府の本省がたかだか人口2000人の阿麻和利島の情勢を気にするなんて、如何にも不自然過ぎる。
あの美しい島を、日本化したいと考えているのだろうか?
健康状態を把握することで、弱みが握れるとでも?
それとも、病んだ日本社会を建てなおす見本になるとでも思っているのか?

裕子は報告書の最後にこう書き加えた。
『阿麻和利島島民の健康状態きわめて健康な者多し、しかし、長年の医者不在の現状を黙殺してきた日本政府の対応が、
島民の根強い日本人不信につながる要因の一つであると思われる』


裕子は大学病院に戻ると、早速、A教授に退職したいと申し出た。A教授は驚き、理由を聞いた後、更に驚いた。
裕子が阿麻和利島の診療所の医者になるつもりだと言ったからだ。
裕子が阿麻和利島に住もうと決心したきっかけは、医者としての使命感、阿麻和利島に関する憧憬の他に、矢口真里の存在が大きい。
しかし、裕子はどうしても、矢口真里と自分との関係を話す事ができなかった。

A教授は最終的には、裕子のわがままを許してくれた。
寂しそうに目を細めると、君は不器用にしか生きられないんだな、きっと良い医者になる、と言った。

大学病院で残っていた仕事を片付け、引継ぎの手続きと、担当していた患者と涙の別れをすませ、
辞表を提出すると、裕子は単身京都の母親の元に向かった。
母親に阿麻和利島の医者になると言うと、母親は呆れたようにため息をついた。
あんたって子はホンマ落ち着かん子やね、一体いつまで心配かけさすんや、と言った。
傍で黙って裕子と母親の会話を聞いていた妹が、スタンドプレーが得意なんだからしかたないよ、と笑った。
裕子は母親と妹に対しても、矢口真里のことについては一言も触れなかった。
話さなければという思いはあるものの、いざ話そうと思うと、言葉が出てこなかったのだ。


――― ―――

飛行機から降り、港に向かうと、すでにつんじいの船が待機してあった。
真里は裕子の姿を見つけると、一目散に走ってきた。
「ゆーちゃんっ」
力いっぱい裕子の体にしがみついて、離れようとしない。
裕子はこの一ヶ月という間、暇さえあれば、思い出していた真里の体の柔らかさ、吐息の温かさ、甘い香りを思う存分味わった。
つんじいは所かまわず抱き合って、再会を喜んでいる、恋人達をみて、苦笑いを浮かべている。

「・・・・そろそろ、行きましょうか」
つんじいはしばらくの間、海を眺めたり、意味もなく船の掃除をしたりして、
裕子と真里の再会の邪魔をしないように気を使っていたが、やがて、おずおずと声をかけた。
真里はしぶしぶという感じで裕子の体から離れた。

船が出発すると、真里は裕子を船室に連れ込んだ。裕子は甲板で一人、ハンドルを握っているつんじいを気にしていた。
真里は船室に備え付けの簡易ベットに裕子と並んで座り、嬉しそうに、裕子がいなかった一ヶ月の出来事を話している。
「・・・・なぁ、つんじい、一人にしていいんか?」
裕子は真里の話が一区切りついた所で、おもむろに尋ねた。
「・・いいんだよ」
真里が素っ気無く返答した。


「・・・・でもなぁ・・」
裕子は船室の扉からかすかに見えるつんじいの後姿をチラッと見た。
「・・・・さっきから、ずっと、つんじいのことばっか見てるじゃん。・・・・つんじいの事ばっか気にしてないで、あたしの顔見てよ。」
真里は拗ねたように口を尖らせると、裕子の頬に両手をかけ、無理やり自分の方へ向かせた。

「・・・・・・」
裕子は困ったように目をしばたたかせた。
「あたし、毎日、裕子のことばかり考えてたんだよ」
真里は裕子の顔をじっと見つめた。
真里の言葉を聞くと、裕子は顔にニヤニヤ笑いを貼りつかせた。
裕子は真里ににじり寄り、船室の壁に追いつめ、両手を船室の壁に付けて、自分の両腕と壁で真里を挟んで、逃げられないようにした。


「な、何だよ」
真里は裕子の豹変ぶりに、焦ったように腕をつっぱらせて、裕子の体を押返そうとした。
「うちの子ギツネはホント可愛いな〜。・・・・もう、離さんでぇ。このまま食べてやるわ」
裕子は目を細めると、舌なめずりをし、そのまま、真里の体を抱きしめた。
耳たぶに息を吹きかけ、背中に回した腕をそのまま下におろして、上着の裾から手を差し込み、真里のすべすべした背中を撫でた。

「うひゃぁっ・・・・な、何すんだよ〜。・・バ・・バカ裕子・・・・どこ触ってんだよっ」
真里は慌てて裕子の腕の中で、ジタバタと体を動かして抵抗する。
「チッ・・・・ケチやな。・・・・減るもんじゃないやろ・・・・」
裕子はあっさりと真里の体を解放した。
「減るんだよっ」
真里は顔を赤くして叫んだ。
「そんなの聞いたことないで?」
裕子はクスクス笑いながら、真里をおかしそうに見つめた。
「ウルサイ」
真里は悔しそうに裕子を睨むと、腕を振りまわした。
裕子は笑って、真里の腕をあっさり掴むと、体を引き寄せた。


「・・・・こんな人と思わなかった・・・・」
顔を真っ赤にして裕子の肩に顔を埋めると、真里はぼそっと呟いた。
「ん?・・嫌いになったんか?」
ちょっとやりすぎたかもしれん。
裕子は心配になり、すまなそうな顔を作って聞いてみる。
真里がブンブンと、激しく首を横に振った。

「よかった。ゆーちゃん、矢口に嫌われたら・・・・」
「・・・・嫌われたら?」
真里は裕子の肩から顔を上げると、裕子を見つめた。
裕子は質問に答えず、真里に優しく笑いかけた。
つられて笑顔になった真里の頬に、裕子の唇が触れた。

「好きやで」
真っ赤になって、頬を押さえる真里に、裕子は胸を張って言った。


――― 

裕子が阿麻和利島に到着すると、まず盛大な歓迎式(診療所開業式)が新しい診療所前で開かれた。
島に待望の医者がやって来たのだ。島はお祭り騒ぎだった。
誰もが裕子を喜んでむかい入れてくれた。
真里は熱烈な祝福を受ける裕子を見て、自分のことのように喜んでいる。
歓迎の言葉を浴びせられる裕子に、紗耶香は、モテル女はつらいね、と言った。
Bは、俺らはこんな歓迎されなかった、とブツブツ言いながら酒を飲んでいた。
横でKが、まあまあ、と言いながら、Bのグラスに酒をついでいる。

小さな診療所と裕子の自宅として用意された小さな家は、島人の協力のもと、突貫工事で建てられた。
紗耶香から、日用品は島で準備するので、その他に必要なものは前もって送るようにという指示を受けていたので、
医療器具や資料は診療所、裕子の私物は自宅の方へ運ばれていた。


歓迎式が終わり、裕子が自宅に到着したのは、午後七時すぎだった。
自宅は紗耶香と真里で綺麗に整えてくれたらしく、日用家具もそろっており、すぐに生活することが可能になっていた。
裕子の私物はダンボールに入ったまま、部屋の隅に積まれたままになっている。

「じゃ、そろそろ、帰るね」
裕子を自宅へ送り届けると、紗耶香はきびすを返し、引き返そうとした。
「あっ、あたしも帰る」
真里も慌てたように、紗耶香の後を追いかけようとする。
「何や、もう帰るんか?お茶ぐらい飲んでいけばええのに・・・・」
裕子は玄関で、残念そうな声をあげた。
これから、ここに住むとはいえ、まだ慣れていないのだ。
いきなり一人は寂しすぎる。

「・・・・・・」
真里は黙り込んでしまった。紗耶香は何も言わず、裕子と真里の様子を面白そうに見つめている。
「・・・・またにするよ」
矢口はそう言うと、背伸びして、裕子の頬に唇を触れた。


――― 

・・・・やっぱり、船室で、無理やりせまったのがいけなかったんやろか?
警戒されたんやろなぁ。
・・・・うちかて、毎日、矢口の事考えてたんやで?
『あたし、毎日、裕子のことばかり考えてたんだよ』
矢口の高い、甘い声。
あんな可愛い事言われて、普通、辛抱たまらんやろ?
はぁ〜、寂しいなぁ。
ビールでも飲んで、さっさと寝ようかぁ。

裕子は軽くシャワーを浴びると、ダンボールを開け、荷物の中から愛用のバスローブとシーツを取り出した。
バスローブを着こむと、寝室へ行き、ベットにシーツを取りつけた。

その後、冷蔵庫からビール缶を取り出し、プルトップを開けた。
静かな部屋にプシュという音が響いた。
裕子は缶のまま口をつけると、一気に半分ほど飲み干した。
ビールの冷たい咽喉ごしが、シャワーを浴びてほてった体を冷ましてくれるようだった。


ピンポーンというチャイムが聞えた。
時計を見ると、午後九時をまわったところだ。
こんな夜に、一体誰や?
ひょっとしたら、急患か?
「誰や?」
裕子はドアに向かって問いかけた。
「あたし・・・・矢口だよ」
かすかにくぐもった声が聞えてきた。
「矢口!?」
裕子は急いで、カギを外すと、玄関のドアを開けた。

「どないしたん?」
「あ〜、ゆーちゃん、格好いいっ」
真里は家に入ってくるなり、開口一番、叫んだ。
裕子に抱きつくと、バスローブの裾を握り締めた。
「一人か?危ないやろ?・・・・こんな夜から」
真里に注意しながら、それでも裕子は、顔がにやけるのを押さえる事ができなかった。
真里の体の柔らかさ、温かさ、高い声、甘い匂い、すべてこの一ヶ月の間、毎晩夢想していたものだ。


「夜じゃないと、意味ないじゃん」
真里は裕子のバスローブに顔を擦りつけながら、甘えたように囁いた。
「はぁ!?」
「あたし・・・・夜這いに来たんだよ」
真里の声はバスローブを通して聞えるため、くぐもって聞える。
「・・・・今、何て言った?」
「だから〜夜這いに来たって」
真里はバスローブから顔を上げると、きっぱりと言った。
裕子は無言で、固まってしまった。

「・・・・何だよ。嬉しくないのかよ。・・・・あたし、こんな事するの初めてなんだよ?・・・・すごくドキドキしながら来たのにさ・・・・」
真里は裕子に抱きつき、腕を背中に回したまま、両手で裕子の背中を叩き始めた。
「やめてーな。・・・・嬉しくないわけないやろ?」
裕子は真里の背中に回した手で、なだめるように真里の背中をさすった。
そのまま、しばらく二人は抱き合ったままでいた。


「まったく、あんたって子は、やる事、為す事が全然読めんわ」
裕子は体を離し、真里の顔を覗きこむと、苦笑した。
「・・・・ゆーちゃん」
「・・・・ベットに行くか?」
裕子の言葉に、真里は顔を真っ赤にして頷いた。

「ああ〜、ゆーちゃんとおそろいだ〜」
真里は寝室に入ると、ベットに飛び乗って、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
まるで子供みたいや。
可愛いなぁ。
真里のそんな姿を見ていると、裕子の緊張していた顔がほころんできた。
「凄いやろ?この柄探すの苦労したねんで」
裕子は得意そうに鼻をうごめかせた。

「ゆーちゃん、ちょっとココに横になってよ」
真里は飛び跳ねるのを止めると、ベットに座りこんで、自分の座っている側を叩いた。
裕子はおとなしく、真里の指示に従い、ベットに横たわった。
「ゆーちゃん、顔しか、ゆーちゃんじゃないよ!」
真里は興奮したように、ベットに横たわる裕子の顔を覗きこんだ。


裕子愛用のベットシーツ、バスローブは豹柄だった。
バスローブを着けたまま、ベットに横たわると、裕子の顔以外は豹柄に埋もれてしまう。
豹柄のシーツに裕子の金髪は、いっそう映えた。

「・・・・ゆーちゃんの髪綺麗だね」
真里は裕子の髪に手を伸ばすと、手を差し込み、髪を指で梳きはじめた。
「前も、そんな事言ってたな」
裕子は気持ちよさそうに、目を閉じたまま、真里にされるがままになっている。
真里はバスローブの合わせ目から見え隠れする、裕子の白い肌に釘付けになっていた。
あの白い肌に触れたい。
細い首筋に指を這わせて、そのままくちづけたい。

「ゆーちゃんが・・・・欲しいよ」
真里は瞳を潤ませ、かすれた声を出した。


「・・矢口・・」
裕子は目を開くと、自分の顔を潤んだ瞳で見つめる真里を見つめた。
真里はどうにも我慢できなくなって、横たわる裕子の上にまたがり、かがみこんだ。
裕子は戸惑ったような表情を浮かべている。

真里は顔を寄せると、裕子の唇を自らの唇で塞いだ。
裕子の口内に、荒々しく舌を挿し込んだ。
「・・ん・・」
裕子が苦しそうに眉をよせた。

裕子の細い首筋に指を這わせて、愛撫する。
呼吸するたびに上下する鎖骨がなまめかしい。
真里は裕子のバスローブをはだけさせると、ゆっくりと裕子の首筋に唇を這わせていった。
しだいに、裕子の呼吸が荒くなっていった。
裕子の指は真里の髪の毛をかきむしるかのように、うごめいている。


「ゆーちゃん」
真里は一旦、唇を離すと、裕子の名前を呼んだ。
裕子が薄目を開けて、真里の顔を見た。
真里は上体を起こすと、裕子の手が真里の上着のボタンにかかった。
裕子がゆっくりと手を動かすと、真里の肩から上着がすべりおちる。
裕子は腰を浮かした真里から、スカートと下着を脱がせた。
全裸になった真里は、再び裕子の上にかがみこむと、バスローブを開いて、裕子の胸を外気にふれさせた。

「・・・・あっ・・・・ん・・・・」
真里の唇が裕子の胸にそっと触れた。
裕子の体が小刻みに震え出した。与えられる快感を何の躊躇もなく受け入れる。
そんな裕子を見て、真里は今まで裕子の体を通りすぎていった名も知らぬ何者かに嫉妬し、裕子の胸を激しくまさぐった。
「・・っ・・痛・・ぁ・・」
胸に与える刺激が強かったのか、裕子が苦痛の声をあげた。


驚いた真里は上体を起こし、愛撫の手を止めてしまった。
夢の中で想像していた逢瀬と違う。
自分の未熟な愛撫に腹が立った。

「・・・・矢口?」
裕子がいぶかしげな瞳を向けた。

真里の瞳には涙が浮かんでいる。
「・・矢口・・どうしたんや?」
真里が俯いて、首を横に振る。
裕子は真里の頬に両手を添えると、視線を合わせた。
「矢口?」
真里の頬には涙が伝っている。
裕子は真里に顔を寄せると、優しく涙を唇でぬぐってやった。

「・・・・うまくできないよ・・」
真里が弱々しく告げた。


「矢口・・・・うちは・・・・あんたが好きなんやで・・・・あんたと肌を合わせてるだけで幸せなんや・・・・それだけで・・・・感じるんよ」
裕子は小さく笑うと、真里の右手を取った。
そのまま、自分の性器へと導いた。

「・・んっ・・・・濡れてるやろ?・・・・あんたが濡らしたんやで?」
裕子の性器はしっとりと濡れていた。
真里が驚いたように、顔を上げる。
「・・・・突っ走ったと思ったら、変なとこで止まるんやな・・・・そんなとこも・・・・好きやけどな」
裕子は笑うと真里の頬にくちづけた。

真里は裕子の笑顔に励まされるように、ゆっくりと人差指を裕子の体内に挿し込んだ。
裕子の呼吸が乱れ始める。
「・・・・ん・・・・ハァ・・矢口・・・・」
真里の指を裕子が締めつける。
裕子は真里の頭を抱きかかえながら、快楽の吐息を漏らした。


真里は裕子の体内に差し込んだ指を二本に増やした。
裕子の全身が弓なりにそり、真里の指の動きに合わせて、腰を振り始めた。
裕子の腰は激しく、のたうちまわるように動いている。
悲鳴のような喘ぎ声をあげ、裕子の指が真里の肩にキリキリと食い込んだ。
裕子は全身をかたく緊張させた。
真里自身も、愛する人の官能的な姿を目の当たりにして、快感が溢れ、ほとばしりそうだった。

「・・・・っ・・ああぁぁぁ・・・・」
裕子は顔をのけぞらせ、その後、体から力を抜いた。
体をベットに沈ませると、小刻みに痙攣している。

真里は裕子の体内から指を引きぬくと、愛液で濡れそぼった、裕子の性器をそっと撫でた。
裕子はビクッと体を震わせると、けだるげなため息をついて、真里の手を掴んだ。
「・・駄目や・・・・絶頂した直後は・・・・クリトリスが刺激を拒否するんや・・・・」
裕子は真里の手を自分の手に絡めた。
「・・・・そやから・・・・もうちょっと・・休ませてーな・・・・」
そう言うと、裕子は真里の汗ばんだ肩に額を埋めた。


――― ―――

翌朝、裕子は目覚めると、毛布の中、真里の腕に抱きかかえられていた。
「おはよう」
真里が裕子に笑いかけた。
「おはよーさん」
裕子が眠そうに目をこすった。

「そうだ、今のうちに返しとくね」
真里はいつの間に置いたのか、ベット脇の机の上から、裕子から預かっていた腕時計を取ると、裕子に手渡した。
「昨日渡そうと思ってたんだけど・・・・何か・・突っ走っちゃったから・・・・そんな暇なくって・・・・」
真里は昨夜の事を思い出したのか、顔を赤くした。
「そうやったな」
裕子は真里の赤い顔を見ると、ニヤニヤ笑った。


「・・・・ゆーちゃんって・・豹みたいだね」
「・・・・あ?」
「・・髪も金髪だし。豹柄好きだし・・・・」
真里はそう言うと、裕子の金髪を愛しそうに撫でた。

「・・・・そんなんで豹みたいか・・・・えらい安易やな・・・・」
「あたしだって、ゆーちゃんが勝手に、子ギツネって言ったんじゃないかぁ」
「・・・・だってなぁ・・・・うちの可愛い子ギツネなんやもん」
裕子は真里の体に抱きつくと、頬に頬ずりした。

「あ?・・・・何やこれ・・・・あぁっ・・」
裕子は背中に回した腕に違和感を覚えて、真里の背中を見て、絶句した。
痛々しいミミズ腫れが走っている。
昨夜、裕子が快感のあまり、爪をたててしまった痕だ。

「どうしたの?」
真里が不思議そうな顔をした。
裕子がコンパクトの鏡を二枚組み合わせて、真里に自分の背中を見せると、真里は目を見張った。
「嘘みたい・・・・本当にこんな痕ってつくんだね」
「ごめんなぁ」
裕子は平謝りに謝っている。
「いいよ。ゆーちゃんがつけた痕だもん。でも・・・・やっぱり、豹じゃん。・・・・豹なら子ギツネに爪をたてても、誰も不思議に思わないよ」
真里は笑うと、得意げに言った。


――― ―――

裕子が阿麻和利島に移住してから、約半年が過ぎた頃、京都に住むおかんから、
遊びがてら三泊四日の予定で、裕子の診療所を見たいという連絡が入った。
八月の下旬、南国、阿麻和利島は海が青く、緑は青々と、生物達が最も生き生きと輝く季節だ。

裕子はこの機会に、おかんに矢口真里の事を紹介しようと考えていた。
そのためには、まずおかんと真里を逢わせる前に、前もって裕子と真里、二人の関係を説明しておかなければ。
そう考えた裕子は、一緒に出迎えに行きたいと言う真里を断り、一人で港におかんを迎えに行った。
明日は、裕子、真里、紗耶香、真希、おかんの五人で海に行き、ビーチパーティを開く予定になっている。
今日のうちに、話しておきたい。


「何や、あんた、真っ黒にやけたんやね」
夕刻の迫る港で、おかんは半年ぶりに会う娘を見て、開口一番そう言うと、口を大きく開けて笑った。
あいかわらずやな。
裕子は苦笑いを浮かべた。
裕子はおかんのかばんを持つと、自宅に向かって歩き出した。

裕子の自宅を見たおかんは、一言いい家やね、と言った。
夕食を終えた裕子とおかんは居間のソファーに向かい合って座り、ビールを飲んでいた。
「・・・・おかん・・・・うち・・・・話しておきたいことあんねん」
裕子はおずおずと話しかけた。
「何ね?」
「・・・・・・」
「どうしたん?」
黙ったままの裕子を、おかんはいぶかしげに見つめた。
「・・・・・・」
自分から話しかけたものの、言葉がうまく出てこない。
おかんがこの島に来ると聞いてから、毎日この状景をシュミレーションしていたというのに。
裕子は焦ったように、意味もなく部屋を見渡した。


「・・金の無心か?」
「ちゃうわっ」
「・・やっと、うちの顔見たな。・・・・そんな話しづらい事なん?」
おかんは小さく笑うと、ビールを一口飲んだ。
「・・・・・・」
裕子は黙って頷いた。

「・・・・うち・・好きな人おんねん」
「・・・・・・」
おかんはそれでというように、視線で裕子を促した。
「・・・・相手はな・・この島の・・・・年下の女の子なんや」
裕子は喉の奥から言葉を絞り出した。

裕子の言葉を聞くと、おかんは凍りついたように固まってしまった。
裕子とおかんとの間に、何とも気まずい沈黙が訪れた。

「・・うち・・・・寝るわ」
どのくらい沈黙していただろうか、おかんは一言呟くように言うと、立ちあがり、寝室に消えた。

裕子はおかんの姿が見えなくなると、脱力してソファーに身を沈めた。
言わん方が良かったんか?
知らん方が、おかんも幸せだったんやろか?
・・・・明日のビーチパーティはどうなるんやろか?
裕子は深いため息をついた。


――― ―――

翌日、裕子の心配をよそに、おかんは、まるで昨夜の出来事はなかったかのように振舞った。
ビーチパーティに来た、真里、紗耶香、真希にも普通に接している。

おかんはうちの告白を、聞かなかった事にしようとしているのかもしれん。
普通の親は、実の子供から、恋人は同性だと聞かされると、どういう反応を示すんやろか。
親としては、辛いものがあるかもしれん。
裕子はおかんにすまないと思う一方、何故自分のことを受け入れてくれないのかという不満を募らせていた。

裕子の気持ちをよそに、おかんは阿麻和利島滞在期間中、豊かな自然、新鮮な食べ物をこの上なく気に入った様子で、楽しんでいた。


――― ―――

おかんの阿麻和利島最終日、裕子とおかんは自宅のソファーで向かい合って座り、ビールを飲みながら、ゆっくりとくつろいでいた。
「・・・・裕子」
おかんの頬は、ビールを飲んでほんのりと赤い。
「ん?」
「あんたの恋人って、真里ちゃん?」
「ブッ・・・・な、何で・・」
裕子は思わず飲んでいたビールを吹き出してしまった。
「・・・・何となく」
おかんは赤くなりあたふたしている裕子を面白そうに見つめている。

「・・・・うち・・・・ずっと考えてたんよ。・・・・あんたに・・・・恋人の事聞かされた時は、正直、驚いたわ。
・・・・できたら、聞きたくなかったとも思ったしな・・・・」
裕子はおかんの言葉に言葉を失うと、唇をかんで、俯いてしまった。


「・・・・正直、今も、あんたが・・・・男の恋人作ってくれたら・・なんて・・思わんでもない・・・・」
おかんは小さく笑うと、ソファーから立ちあがり、裕子の手前まで移動すると、かがみこんで裕子と視線を合わせた。
「・・・・でもな・・・・あんたは・・うちの自慢の娘やで。・・・・あんたが・・どこにいて、何をしていても、誰を愛していても・・・・忘れんでや・・」
おかんは裕子の手を取ると、真っ直ぐ裕子の瞳を見つめた。

裕子はおかんの言葉を聞くと、胸の中に温かい感情が溢れ出して、
それまでたまっていたおかんに対する不満や不安があっけなく消えていくのがわかった。
裕子の瞳から涙があふれてきた。
「・・・・いくつになっても泣き虫なんやな・・・・」
おかんは裕子をきつく抱きしめた。

「・・おかん・・」
何年ぶりだろう。おかんに抱かれるのは。
懐かしい匂い。温かい感触。
自分が愛されている存在だと実感できる。

「他の人には、もう言ったんか?」
裕子を抱きしめたまま、おかんが聞いてきた。
「おかんが初めてや」
「・・そうか」
おかんはそう言うと、裕子の髪を優しく撫でた。


――― ―――

おかんは見送りに来た真里に何事か話している。
裕子は、沖縄本島におかんを送ってくれるつんじいと二人、離れた位置で真里とおかんの様子をぼんやりと見ていた。

「・・・・おかん・・・・何て言ってたん?」
つんじいの船に乗って、次第に小さくなるおかんの姿を見つめながら、裕子が真里に尋ねた。
「・・アホな子だけど、よろしくお願いしますって・・」
「・・・・・・」
「ゆーちゃん、お母さんにあたしの事話したんだね・・・・」
真里は裕子に寄り添うと、裕子の肩に頭を預けた。
「ん・・」
「ゆーちゃん・・・・お母さんいなくなって寂しい?」
「・・そんな訳ないやろ」
とは言うものの、裕子の瞳は寂しそうに、目の前の豆粒のような船に向けられている。

「・・・・」
真里は黙って裕子の横顔を見つめた。
「・・今は、矢口がいるからな」
裕子はそう言うと、真里の肩に腕をまわして抱きしめた。

      〜Fin〜





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