月の美しや


月の美しや十日、三日
女童美しや十七つ
ホーイ チョーガー

意味
(月が美しいのは十三夜
 少女が美しいのは十七歳)

『琉球民謡』より




月明かりの中
『あ・・・・あぁ・・・・んっ・・』
喘ぐ声が聞こえる。

ほそい首筋をのけぞらせ、端正な美しい顔が快感にゆがむ。

ああ・・・・あの人だ。私の大切なあの人だ。

汗にまみれた白い肢体にからみつく、もう一つの肢体。

あれは誰だろう?

二つの肢体は絡み合い、決して離れようとしない。

私はその状況を、ただ見ている。
見ていることしかできない。


これは夢だ。
またいつもの夢だ。
はやく覚めてよ。
いやだ。いやだ。いやだよ。


「わぁあ〜〜〜っ」
大声をあげて目を覚ました。
周りは真っ暗だ。この感じだと、まだまだ夜が明けるのは先だろう。
もう肌寒い季節に入ったというのに、全身汗まみれで気持ちが悪い。

「はぁ・・・・」
このところ毎日のようについているため息をもらす。
ため息をつくたびに幸せは逃げていくんだと母さんに言われたけど、そんなこと知ったことか。
何とかしないと、あの人が誰かに抱かれてしまう。
そんなの絶対いやだ。
何とかしないと・・・・
何とか・・・・


「ふぇ・・っ・・」
感情がたかぶってきて、涙がこぼれそうになあいjり、ぐっとくちびるをかみしめた。
今は泣いている場合じゃない。
大丈夫。まだ時間はある。
鼻をすすって、自分に言い聞かせる。

ベットから起きあがり、汗でしめった衣服を着替えた。
「少しでも寝ておかなくっちゃ・・」
誰にいうともなく、つぶやく。
あの人のためにも。
今は。


『阿麻和利島』

周りを海に囲まれた面積役1000ku、人口約2000人からなる。
一応日本国に所属してはいるものの、その特異な文化と日本の最南端に位置するという地理的な条件により、日本国とは異なる社会システムを形成してきた。

特に目を引くものの一つは『通い婚』と呼ばれる結婚制度だ。
『通い婚』とは通称『夜這い』とも呼ばれており、成人に達した男女が、想いをよせる成人の家に通い、一夜を共に過ごすというものだ。
この場合、その相手を受け入れるか、あるいは拒否するかの選択権は通われる側にある。
合意の上で行われたわけではない性交渉(強姦)は最も重い罪として罰せられる。また、子供が生まれた場合には母親方の家で育てられることが多い。
一度きりの関係は数少なく、生涯同じ人に通い、通われることが多いという。
阿麻和利島では満十七歳をむかえた男女は、成人として『通い婚』に参加する資格と責任を得ることとなる。


そしてもう一つ『ノロ』と呼ばれる女性の存在がある。
ノロは大自然の声を聞くことができる女性して、島人からあつい信頼をうける。
その才能は母から子供に引き継がれ現在に至っている。 
ただしノロは満十七歳をむかえると、大自然と信頼関係を確立するために、大自然が定めた相手と一夜を過ごさなければならないという掟がある。
ノロの相手となる候補者は、ノロの満十七歳の誕生日に阿麻和利島に居る十七歳以上の男女全てということになる。
この中から大自然のお告げにより、一人の相手が選ばれることとなる。

阿麻和利島の現在のノロは、母亡きあと若干十四歳でその責務を継いだ。
市井紗耶香、現在十六歳である。




チユン・・チュン・・・・
鳥の鳴き声が聞こえてきた。
カーテンを開け窓の外を見ると、まだ薄暗い。
起きるにはまだ早いかなあ。
体を起こして隣を見ると、彼女はまだ深い眠りの中にいた。
寝顔はいつもの厳しさは微塵もなく、あどけない子供のようだ。
かっ・・可愛い・・・・
こんな顔を見ることができるなら、早起きも悪くないかも。
しばらく寝顔を見ていたが、やがて起こさないように静かにベットから脱け出した。

台所に入って、朝食の準備をする。
あたしが通ってきたんだから、少しはつくしてあげないとね。
味噌汁を作りながら昨夜のことを思い出してみる。
何度も何度も体を絡ませ合い、求め合った。
考えてみると、初めて体を合わせてから約10ヶ月が経ったことになる。
もうお互い、どこをどうすれば感じるか知っている。
でも・・・・毎日やっても飽きないんだよなあ〜。
あたしって・・・・こんなにエッチが好きだったんだ。


そうこうしているうちに、
「おはよーさん」
まだ眠たげな声が聞こえた。
「おはよう、ゆーちゃん」
笑顔で返す。
「矢口は元気やなぁ。ゆーちゃんはまだ疲れがとれんわ。昨夜はほんまにしんどかったで」
ゆーちゃんが布団を体に巻きつけながら、つぶやいた。
ゆーちゃんの心からの声に、思わずふきだしてしまう。
「ゆーちゃんだって、はりきってたじゃん」
ゆーちゃんはみるみるうちに赤くなり、そっぽを向きながら言った。
「はぁ・・・・はじめて会った頃は・・・・こんな子とは思ってもみなかったわ」
「だってゆーちゃんが大好きなんだもんっっ」
あたしはベットに座っているゆーちゃんに向かって、叫びながらタックルしていった。
「わかった、わかった。ちょっと重いから・・・・朝食作ってくれたんやろ・・食べようや」
ゆーちゃんは照れたように笑いながら、あたしの頭を撫でた。
そしてベットから起きあがり、床に落ちていたトレーナーを着けはじめた。

朝食を一緒に食べた後、ゆーちゃんは診療所に、あたしは海に。
お互いの仕事場に向かった。

海へと続く道を歩いていると、ガサガサと物音がすると同時に小高い丘から、物体があたしの目の前に落ちてきた。




「ごっちん!?」
後藤真希だ。
目の前で、落ちた衝撃からくる痛みに顔をゆがめているのは。
あたしはしばらく呆然と立ちつくしていたが、はっとして急いでごっちんに駆け寄った。
ごっちんは痛さのあまり、声もでないらしい。
腰のあたりを打ったらしく、体をまるめてうなっている。
その他にも手足はかすり傷だらけだ。
薬草でも採っていたのだろうか、ごっちんの傍には草が半分ほど入った籠が転がっており、籠から落ちたのだろうか草が散乱している。
「ごっちん、ゆーちゃんの診療所に連れて行くよ」
あたしはごっちんと籠を強引にかかえて、もときた道を引き返して島でただ一つの診療所に向かった。


幸いなことにごっちんは、打ち身だけですんだようだ。
ゆーちゃんと向かい合って座らされ、しっぷを貼ってもらい、大げさなくらい包帯を巻かれて、ごっちんは不満げだった。
「ゆーちゃん、大げさだよ〜」
「あんたにはちょうどええぐらいや。これでちょこっとは大人しくなるやろ。」
ゆーちゃんが包帯を棚にしまいながら答える。

あたしはそのあいだ二人から離れて治療の様子をじっと見ていたが、怪我がたいしたことなかったのに安心して、持っていた籠をごっちんに返した。

「・・・・でもなぁ・・・・なんであんな所から落ちたんや」
ゆーちゃんの静かな声。
ごっちんは黙り込んでしまった。

「その・・・・籠の中の草・・・・どうするつもりや」
「・・・・・・」
「それが・・・・何かわかってるんか」
「・・・・・・」
「ごっちんっ」
ゆーちゃんが声を荒げる。
ごっちんは俯いて、両手をきつくにぎりしめている。

あたしはゆーちゃんの剣幕とごっちんの様子に驚いて、何を言っていいのかわからない。

「「「・・・・・・」」」
しばらく沈黙が続いた。


ゆーちゃんが優しい声で言った。
「ごっちん・・・・何かあったんか・・・・うちら力になるで」
「・・・・・・」

やがて、ごっちんはゆっくり顔をあげると力なくつぶやいた。
「い・・ちぃちゃん・・・・」


真希の瞳から涙が零れ落ちた。
感情の塊が出口を求めて、身体の中を駆け巡る。
涙は感情のカケラだ。
こころの叫びを言葉に置き換えるのは苦手だ。
だから
涙をながす。

中澤裕子と矢口真里の姿は、涙でゆがんで見えない。
突然泣き出した自分にきっと呆れた顔を向けているに違いない。


「ん・・え・・ぐ・・っ・・」
真希は呼吸を落ち着けて、嗚咽を押さえようと努力した。
その様子を見ていた裕子が口をひらいた。
「やぐち〜。・・・・悪いけどなぁ。ごっちんが落ちてきたとこ行って、ばら撒いてしまった草拾ってきてくれるか〜」
そう言って、真希の籠を目で指した。

真希は相変わらず涙をながし、嗚咽していた。
真里は裕子の言葉に戸惑ったが、やがてすぐに笑顔で答えた。
「・・いいよ〜。ちょっと行ってくる」
ゆっくりとした動作で真里は真希の傍らの籠を持ちあげ、外へ続くドアを開けた。
それから真希の涙をタオルで拭いてやっている裕子を見つめた。
視線に気づき顔をあげた裕子と目が合った。
真里はひょいっと肩をすくめると、裕子に向かってウインクしてドアの外に出た。


多分、ここは席を外した方がいいだろう。
なんだか深刻そうだし。
いつもお気楽が身上のごっちんらしくない。
それに・・・・紗耶香がからんでくるとしたら・・・・多分・・・・。
ごっちんのことは裕子にまかせておいたほうがいいだろう。
・・・・だけど、この草は一体何なんだろう。最初見たとき裕子がえらく慌ててたけど。
後で聞いてみよう。


真里が診療所から出ていったのを確認してから、裕子は真希の体を引き寄せ抱きしめた。
「ごっちん」
暖かい声。
「あの草・・・・何に使われているか知っとるんやろ」
全て知っているかのような口ぶりだ。
「うん・・・・」
真希は小さな声で答えた。


裕子はゆっくりと真希を抱きしめている腕を解いた。
真っ直ぐ真希の目をみながら、再び先ほどと同じ質問をした。
「どうするつもりだったんや」
真希は観念したように、頭をたれ、うな垂れた。
「別に・・・・それほど・・怒ってへんよ。ただ・・・・子供が・・・・持っていいもんとちゃうやろ。そやから、ゆーちゃんビックリしてなぁ」
裕子はおどけたように言った。

「あと二週間で・・市井ちゃんの誕生日だもんっ」
黙っていた真希が俯いていた顔をあげ、叫んだ。
「ぐずぐずしてたら、市井ちゃんが誰かに抱かれちゃうもんっ。そんなのやだ。」
裕子の顔をにらみつけた。
親の敵だとでもいうように。

「紗耶香に飲ませるつもりやったんか」
裕子の問いに、真希は無言で頷いた。

「・・・・・・」
やっぱりな。しかし・・・・なんちゅうこと考えるんや。
裕子は考えこんでしまった。


――― ―――


真里は診療所を出て、真希が落ちてきた場所に向かって歩いていた。
肩に掛けた籠が、背中でガサガサと音をたてている。
あたしには、ちょっとおおきいなぁ。ごっちんにはちょうどかもしれないけど。
そんなことを考えて歩いていると、真希の落下地点が見えてきた。


人がいる。
よく見る顔だ。
その人はしゃがみこんで、真希が落とした草を拾い集めている。

市井紗耶香。
いま、一番会いたくなかった人だ。


紗耶香は白いノロの服を身に着けていた。
「矢口」
歩いてくる真里に気づいて、紗耶香が立ちあがり声をかけた。
「これ・・・・矢口のだったの」
紗耶香が真里の背中の籠を見て、草を指差しながら言った。
「う・・うん」
「・・・・ふーん・・」
紗耶香は集めた草を器用に一つにまとめると、真里に手渡した。

「・・・・風が・・呼んでたんだ。・・泣いてる人がいるって・・・・だから、ここに来たんだけど・・」
紗耶香はそう言って微笑んだ。

「・・・・・・」
ひょっとしたら紗耶香は知っているのかもしれない。
ごっちんが泣いたこと・・。

真里は何も言えずに黙り込んだ。
それをどう受け取ったのか、紗耶香が真面目な顔で言った。
「矢口。ラブラブだからって、使いすぎちゃだめだよ。『過ぎたるは及ばざるがごとし』ってね。体によくないからね」
「はぁ・・」
言われた意味がわからなくて真里はあいまいに答えた。


――― ―――


「・・・・もし、ゆーちゃんならどうするの。ノロが市井ちゃんじゃなくて、やぐっちゃんだったらどうするの」
言い逃れは許さない、というような強い視線と硬い声。
その瞳はまだ潤んでいるものの、先ほどは感じられなかった力がみなぎっている。
裕子は真希の視線が痛くて、ふいっと視線をそらせた。
まるで、うちが問い詰められているみたいやんか。

「紗耶香の気持ちはどうなるんや」
裕子はとりあえず、という感じで質問した。
「そんなの・・・・誕生日の儀式自体が、市井ちゃんの気持ちを無視してるじゃんか」
「・・・・そうやなぁ」
二人とも黙り込んでしまった。


真希が重たい沈黙を払うように、わざと明るい声で言った。
「そういえば、ゆーちゃんのときはどうしたの」
「はぁっ」
裕子はいきなりの真希の発言に、言葉を返すことができなかった。

「やぐっちゃんの17歳の誕生日だよ。ゆーちゃん、会って一週間もしないうちにやぐっちゃんモノにしてたじゃんか」
「・・・・モノにしたっちゅうか、・・・・されたっちゅうか・・」
裕子は赤くなり、口の中でもごもごと言葉をにごす。
視線は宙に浮いている。

「何て言ったの〜。聞こえないよ〜」
「・・・・何でもないわ」
照れたようにそっけない言葉。


「ねぇっ、教えてよ。参考にするからさ」
「何言ってんねん。あんたはまだ十五歳やろ。・・・・通い婚に参加するにはまだ早いで」

裕子の言葉に真希の顔色が変わった。
蒼白だ。
全身小刻みに震えている。

震える唇で、しぼりだすように言った。
「・・・・あたしが十七歳だったら、こんな・・・・こんなことで悩んだりしないっ。・・・・儀式に参加して・・・・認めてもらえるように努力するよ」

努力して、どうにかなるものじゃないかもしれないけど。
それでも。
それでも。
きっと市井ちゃんは優しく笑ってくれる。
『頑張ったね、後藤』って抱きしめてくれる。
市井ちゃんを想う気持ちは誰にも負けないもんっ。
大自然もあたしの気持ちを認めてくれる。
大自然もあたしを市井ちゃんの相手に選んでくれる。
きっと。




「十七歳以上じゃないと、儀式に参加できないなんて、ひどいよっ。ひどすぎるよ」
「・・・・・・」

裕子は不用意な一言をもらした自分に対して、言いようのない怒りを感じていた。
うちはなんちゅうアホなんやろ。
ほんまに。
人間おもいやりを忘れたら終わりやでぇ。
このドアホが。


真希はいすから立ちあがり、じっと自分の足元を見ていた。
「ごっちん」
声をかけても、顔をあげようとしない。


裕子は心を決めて、言った。
「ごっちん、協力するで」


――― ―――


「紗耶香・・・・ごっちんのことなんだけど・・・・」
真里が言いかけたとたん、
ピキッ
空気が凍りつく音が聞こえた。
先ほどまでのやさしい空気が嘘のようだ。

紗耶香が真里に微笑みかけた。
目は笑っていない。
何より、身にまとっている空気がいつもと違う。

ゆっくりと真里に近づき言った。
「矢口、女難の相が出ているよ」
感情のこもっていない、冷たい声。


真里は無意識のうちにあとずさる。
肩に掛けてあった籠がずり落ちて、中に入れた草が再び散乱する。
ずるずると後退するうちに、道脇に生えている大きな松の幹に追いつめられた。

「矢口、・・・・どうしたの」
「・・・・・・」
答えられない。
目の前にいるのは、本当に紗耶香なのか。

「・・・・あたしが、こわいの」
冷たい瞳で、耳元にささやく。

真里は怯えた表情で紗耶香を見つめている。

紗耶香は真里の両肩をつかむと木の幹に押さえつけ、強引に唇を奪った。
真里は抵抗しようともがいたが、力任せに押さえこまれ動けない。

動かせる足を使って、相手のものを踏んでやると、さらに強く木の幹に押しつけられた。
硬いゴツゴツとした木の表皮が、衣服ごしの背中に当たって痛い。

「ぃ・・痛ッ」
おもわず叫んだところに、強引に舌が進入してきた。


柔らかな舌が真里の口内を動きまわる。
怯えてすくんでいる舌を見つけられ、からみつけられた。

「・・ん・・・・んっ・・」
吐息がもれる。
思考は完全に停止していた。

時間の感覚もなくなっていく。


体を押さえつけていた腕の力が緩められると、真里はずるずると崩れ落ちた。
呼吸は乱れ、頭は混乱している。
何でこんなことになったんだっけ?
真里は頭をあげることさえできずに、木の根元でぐったりしていた。


「矢口・・・・大丈夫?」
紗耶香が心配そうに声をかけ、座り込んでいる真里に手を差し出した。

紗耶香の声。
いつもと変わらない声。
優しい瞳。
いつもと変わらない瞳。

夢だったのだろうか?
そう思わせるような、自然な紗耶香の態度。
「・・・・うん」
紗耶香の差し出した手を無視して、真里は一人で立ちあがった。

夢ではない証拠に、木に押しつけられた背中がひりひりと痛い。
血がでているかもしれない。

紗耶香が籠を真里の肩に掛けた。
籠の中には、先ほど真里がばら撒いた草が入っていた。

何時の間に集めたのだろう?
先ほどの紗耶香の豹変ぶりといい、おかしな事ばっかりだ。
真里は、はじめてこの友人が怖いと思った。


――― ―――


真里が診療所に戻った時には、すでに日は落ちかけていた。

真希はすでに帰宅していた。

「矢口、一体どこまで行ってんねん!ゆーちゃん、心配し・・・・」
裕子の言葉は最後まで続かなかった。


真里の格好は、朝とまるで違っていた。
一言で言えば、プチ遭難者というところか。
髪は乱れ、服もあちらこちらに泥が付着している。
手足には擦り傷ができている。

「な・・何やねん。一体何があったんやっ」
血相を変えて、裕子が真里に駆け寄った。
真里は肩に掛けている籠をおろしながら答えた。


「・・何でもないよ」
「何でもないことあるかいっ。何じゃい、その泥は・・・・まさか・・・・」
「何でもないっ」
強い口調で否定した。

「・・・・草拾ってたら〜、丘の上においしそうなビワが・・・・」
「ビワの季節は、まだまだ先やろ」
裕子のつっこみがはいった。

「・・・・実ってるかなぁ〜と思って、・・・・登ったの。それで・・ちょっと擦りむいちゃった」
「・・・・・・」

裕子は何も言わなかった。
だが、傷ついた瞳をして、唇を噛み締めている。
真里をいすに座らせると、黙って傷の手当てをした。

「矢口、悪いけどやることあんねん。・・・・家に帰って・・家族とご飯を食べてな・・・・」
裕子が真里の目を見ずに、言った。
「わかった」
真里も短く答えた。


「ゆーちゃん、矢口今日仕事にならなかったから〜。明日からしばらく忙しいと思うんだよね〜。
・・・・しばらくゆーちゃんの所に通えない・・・・と思う」


帰りがけ、真里はそう言ってドアの外に消えた。

裕子はしばらく呆然と立ちつくしていたが、はっと我に返ると、
「・・何やねん。・・・・どないせいっちゅーんや」
力なく呟いた。


12月17日 (十四夜月)
儀式まで あと14日


――― ―――


裕子は診療所で悩んでいた。

一体全体どういうわけや!?
いつもはほとんど来客のない診療所に、入れかわり立ちかわり人がやってくる。
それも、のどに魚の骨がささったとか、猫にひっかれたとか。
いつもなら絶対に診療所に来ずに、家で治療するはずや!
この人たちは!!

それもほぼ全員と言ってもいいぐらいの確率で、矢口のことを聞いてくる。
「先生、矢口は元気ですか?」
「裕子先生、あんまり真里ちゃんを疲れさせちゃ〜いかんよ!?」
「中澤先生と真里、アツアツですね」
その他モロモロ。
そう言って、意味ありげに裕子を見つめる。

うちが何したっちゅーねん。
昨日の矢口といい、今朝からの来客といい。

真希と相談した結果、とりあえずはお互いに『儀式』に関する情報を集めようということになったというのに、これでは情報収集どころではない。


「「こんにちは〜」」
診療所のドアが開き、二人の少女が入ってきた。
一人の少女は、もう片方の少女におぶわれている。

「どないしたねん?」
「梨華ちゃんが転んじゃって・・・・」
おぶっていた少女が口をひらいた。
「よっすぃ〜、ごめんね。重たかったでしょう?」
おぶわれていた少女は、ばつが悪そうな顔をしている。


怪我は足首の軽い捻挫だっった。
「二、三日腫れが引かんやろうけど、大丈夫やろ」
いすに座らせ、包帯を巻いてやりながら言った。
裕子の言葉に、二人の少女はほっとしたような表情を見せた。

怪我をしたのは、石川梨華。
梨華をおぶってきたのは、吉澤ひとみ。
共に、後藤真希と同じ現在十五歳である。


そうや!この二人なら今朝からの、変な島の人々のことを知ってるかもしれん!!

裕子は梨華とひとみに聞いてみた。
「今日なぁ〜、朝から人がぎょうさん来とんねん。・・・・いつもなら・・こんなことはないんや。
・・・・何か変やろ?・・・・わけ知っとるか?」
「「・・あー・・」」

二人とも思い当たるふしがあるみたいや。

梨華が言いにくそうに口をひらいた。
「昨日、矢口さん、山に登ったでしょう?・・・・それで・・・・」
それから先を言おうとしない。
頬を赤く染めている。

「・・・・うー・・・・」
じれた裕子は、視線を梨華の傍らに立っているひとみに向けた。

『お前が話せ』
裕子の強い視線に、おどおどしながら、ひとみが言った。

「皆がウワサしてたんですけど・・・・矢口さんが・・・・その・・・・先生のいいつけで
・・・・山で、媚薬の草を・・・・採ってたって・・・・」
ひとみの声はだんだん小さくなっていき、最後は聞き取るのがやっとだった。
顔は真っ赤だ。

予想はしていたが、やっぱりそうか。
「・・・・そうか。・・話してくれてありがとな」
裕子の言葉に、梨華とひとみはぶんぶんと首を振った。


二人が帰った後、裕子はいすに座りこんでため息をついた。

多分、・・・・昨日の遭難者のような真里の格好と、背中に掛けた籠の中身を、誰か島人が見たんやろ。
まぁ、・・・・南国気質なんやろか。
昨日の真里の姿を見て、脳裏に一瞬よぎった悪い考えが浮かんだ人はいなかったようだ。
・・・・そんなことをする人は・・・・いないってことか。

昨日の自分の態度を思い出し、苦笑いをする。
自分が嫉妬と不安で胸を焦がしている間、島中、自分と矢口の『めくるめく、あつい夜』のウワサで盛りあがっていた、というわけだ。
何があったかは、・・・・矢口はいずれ話してくれるだろう。

裕子はポケットからライターを取り出し、タバコに火をつけた。


――― ―――


よく晴れた日の朝。

真希は、紗耶香の所へ急いでいた。

早く、会いたいな。
昨日は、結局会えなかった。
市井ちゃん、どこかに行ってたみたいだし。

紗耶香は島の中心に位置する山のふもとに生えている、樹齢300年とも言われている大きなガジュマルの樹の下にいることが多い。

真希はガジュマルの樹のもとにむかった。
案の定、紗耶香はガジュマルの樹の根元に座り、本を読んでいる。
今日もノロの白い衣服を身に着けている。


真希が近づくと、紗耶香は気配に気づいて顔をあげた。
「市井ちゃん、おはよう」
紗耶香より早く、真希が準備していた言葉を言う。


「おはよう」
紗耶香は読んでいた本を閉じ、真希に向かって微笑んだ。
真希の顔が赤くなる。


「・・・・それ、どうしたの?」
いぶかしげな声。
視線は真希の手足に巻かれている包帯にそそがれている。

「へへっ、ちょっと転んじゃった」
そう言って、真希はぺろっと舌を出した。

「心配した?」
紗耶香の傍らに座りながら、真希はいたずらっぽく問いかけた。
瞳は真っ直ぐ紗耶香を見つめている。
「・・・・・・」
紗耶香は黙ったままだ。

やがて、真希の視線に耐えられなくなったのか、ふいっと目をそらした。
「・・・・市井ちゃん、最近いつもそうだよね〜。・・・・後藤のこと見てくれなくなった」
「・・・・そんなことないよ」
沈黙が二人を支配した。


やがて真希が言った。
「・・・・市井ちゃん、覚えてる?小さい頃、あたしが怪我して泣いてたら、市井ちゃんが治してくれたんだよ?」
「・・・・あれは・・・・おまじないみたいなもので、・・実際に効果はない・・・・」
「そんなことないもんっ」
紗耶香の言葉は、真希の強い言葉に打ち消された。

「本当に痛くなくなったもんっ。本当だもんっ」
感情が高ぶり、真希の目が涙で潤んできた。
「・・・・・・」
紗耶香は無言だ。

真希は何かを決心したように勢いよく立ちあがると、おもむろに手足の包帯を解きはじめた。


「ご・・後藤!?」
紗耶香が焦ったような声を出す。
「・・・・証拠を見せたげる」

包帯を完全に解くと、打撲の痕が黒くなり痛々しい。
所々に擦り傷があり、かさぶたができている。

真希は紗耶香を見つめていった。
「治してよ、市井ちゃん・・・・」

「・・・・・・」
紗耶香は固まってしまった。
真希は紗耶香の手を取り、力任せに立ちあがらせた。
強引に自分の手を、紗耶香に握らせる。


やがて、のろのろと紗耶香が動きはじめた。


「・・・・ん・・・・んっ・・・・」
紗耶香のやわらかな唇が、真希の傷に触れた。
吐息がもれる。


紗耶香の唇はしだいに大胆になっていった。
真希の手、打撲の痕に唾液をすりつけ、舌で塗り広げる。

真希の前にひざまずいて、足首の傷にも同じことをする。
スカートを捲り上げ、唇がゆっくりと、足のつけねに向かって登っていく。
真希は唇をかみしめて、声が出そうになるのをじっと耐えた。

「・・あっ・・・・」
紗耶香の唇が太腿にさしかかると、思わず真希が声をあげた。

その声で、はっとしたように紗耶香の動きが止まった。
真希にからませていた腕をほどき、真希から離れた。

紗耶香の顔は蒼白だ。
自分の体を抱きしめるようにして、震えている。


「・・・・市井ちゃん・・・・」
真希の声にも答えようとしない。

「・・・・もう、・・子供じゃない・・・・」
誰に言うともなく呟いた。

「・・・・後藤・・帰って。・・・・あたしは・・・・一人にしてくれる?・・・・」
そう言うと、紗耶香は真希に背を向けた。


12月18日 (十五夜)
儀式まで あと13日


――― ―――


今日は昨日の晴天が嘘のように、朝から大粒の雨が降っている。

真希はかさをさして、ガジュマルの樹にむかった。
水溜りの水が、足を踏み出すたびに真希の両足首をぬらすが、気にせず歩く。

昨日の市井ちゃんは様子が変だった。
いや、違う。
昨日だけじゃない。・・・・最近ずっと変だ。
ニコニコ笑っているかと思ったら、急にふさぎ込む。
そうかと思うと、睨みつけたり、
逆に、愛しそうな瞳で見つめていることもある。
目が合うと、決まって目をそらされるが。
どうしたのかなぁ。
誕生日の儀式が近いせいだろうか?
でも、気にしてないみたいなこと言ってたよなぁ。
気にしているのは、あたしだけかぁ?
それって悲しい・・・・。

これからの『儀式ぶちこわし作戦』のことを考えると、頭が痛くなってきた。
裕子と相談した結果、とりあえずはお互いに『儀式』に関する情報を集めようということになったのに、これでは情報収集どころではない。


ガジュマルの樹の根元には、誰もいなかった。
あたりは静まりかえり、雨が樹葉に当たる音だけが、かすかに聞こえる。
真希は周りを見まわした。
主がいないだけで、こんなに不気味に恐ろしく感じるものなんだろうか?

ふと、真希の脳裏に死んだ祖母の言葉がよみがえった。
確か、幼い真希と紗耶香、二人一緒に聞いたはずだ。

『ガジュマルには精霊が宿るんだよ。ノロはその精霊の言葉を聞くことができるのさ。
 そして、人々に大自然が何と言っているか教えてくれるんだよ』
『へー、すごいね。いちいちゃんもそうなるの?』
『へへっ。たぶんねっ』

『・・・・そうさ』
そう言って、祖母は口をつぐんだ。
幼い自分は気づかなかった。
おそらく、祖母は紗耶香が将来、背負うことになる責務の重さを知っていたのだろう。


真希の瞳に涙が浮かんできた。
最近泣いてばっかりだ。

「・・・・市井ちゃん・・・・」
名前を囁いてみる。



答えはなかった。
雨音だけが聞こえる。
真希はガジュマルの樹の前に、立ちつくした。



雨は、当分やみそうもない。


――― ―――


裕子は診療所でふてくされていた。

何やねんっ。
こんな大雨やで。
矢口は仕事にならんはずや。
ここに来いっちゅーねん。
何で、来ないんや。
ゆーちゃん、寂しいで。

「はぁ・・・・」
裕子は軽くため息をつくと、髪をかきむしった。
「たまには、デスクワークでもすっか・・・・」
そう呟き、裕子は机に向かい何やら書きものをはじめた。

「「「こんにちは〜!」」」
診療所のドアが開き、三人の娘が入ってきた。

「・・・・何や、あんたらか」
口調が不機嫌になる。

「何よ〜。その態度は」
「そうだよ。矢口じゃないからって」
「ゆーちゃんなんか、もう知らないべ」
次々に口をひらく。


裕子は深深とため息をついた。
三人の茶々が入る。
「「「あ〜、ため息つくと幸せが逃げるんだよ!」」」
みごとにハモった。
「・・・・あんたらが、疲れさせてるんや」

「ゆーちゃん、考えることがあるからな。用がないなら帰ってな」
きっぱり言っても、この三人には通用しない。
「えー。用があるから来たんだよ」
背が高く髪の長い娘、飯田圭織だ。
「そうだべ」
年齢のわりに童顔の、安部なつみが同意した。
「そんなに冷たくしないでよ」
猫目の娘、保田圭がすねたように言った。

観念したように、裕子が口をひらく。
「用って何や」

「ゆーちゃん、媚薬持っているんでしょう?」
「欲しいんだよね」
「少しでいいから、分けてくんない?」
圭が口火をきると、圭織となつみも勢いよくしゃべりだした。


何じゃ、こいつらは。
・・・・きのうの吉澤と石川は初々しかった。
あんなに二人とも真っ赤になって。
こいつらと4〜5歳しか変わらんで。
・・・・女って変わるんやなぁ〜。恐っ。

完全に自分のことは棚にあげている。

裕子はしばらく何か考えていたが、にやりと笑うと言った。
「交換条件といこうや」

「な・・何!?」
「だめだよっ」
「ゆーちゃんには、矢口がいるじゃんっ」
何を勘違いしたのか、三人とも見当違いのことを口走る。


「アホかっ。誰が、あんたらに・・・・。違うで!!」
裕子は顔を真っ赤にして否定した。

「なーんだ」
「ビックリしたべ」
「本当だよ」
ほっとしたの半分、がっかりしたの半分という表情だ。

裕子は真面目な顔で言った。
「儀式な、紗耶香の・・・・儀式について知ってること、全部話してくれたら。そうやなぁ、
 媚薬草ちょこっとやってもいいで」


12月19日 (一夜月)
儀式まで あと12日


――― ―――


裕子は診療所で困っていた。

うちは何をやってんのやろ?

先ほどから、少女が二人、所狭しとばかりに診療所の中を走り回っていた。
何が楽しいのか、二人で鬼ごっこをしている。
鬼も、逃げも、変わらへん。
どっちも、休めないやんか。


この子らもな〜。
『あまやどりさせてください』
そう言って入ってきて、鬼ごっこかいっ。
矢口なら、きっとうまく対応できるんやろうなぁ。
うちは・・・・どうしていいかわからん。

「・・・・せまいやろ。もっと広いとこでやったらどうや〜」
「雨ふってるやん」
裕子が話しかけると、するどい切り返しがきた。
「・・そうやなぁ〜」
同意してしまった。


っくっ。
はぁ。矢口〜。助けにきて〜なぁ。
どうせ雨ふっとるし、仕事にならんやろ?

ため息をつくと、昨日の三人娘のことを思い出した。
結局、情報らしい情報は得ることができずに、媚薬草を持っていかれた。
まぁ、少量しか渡さなかったが。

はなっから、あいつらには期待してなかったが。
悔しいのは、あいつらが最後に言ったセリフだ。
「でも、知らなかった〜。ゆーちゃんも紗夜香狙ってたんだ〜」
「矢口には、内緒にしとくべ」
「紗耶香は競争率たかいよ〜」
手にはしっかりと媚薬草を握り、勝手な捨てぜりふを残して、三人娘は帰っていった。


「せんせい?」
気がつくと少女の一人が、にっこり笑いかけてきた。
八重歯が見える。
辻希美、十三歳だ。
つられて裕子もにっこり笑う。

「食べへんか?」
先ほどの少女が、持っていた飴を裕子にさしだした。
加護亜衣、十二歳だ。
「ありがとう」
そう言って、裕子が笑いかけながら飴を受け取ると、亜衣は照れたようにはにかんだ。

何や。かわいいやんか。
きっつい子かなぁと思ってたわ。

二人はさんざん走り回って疲れたのか、裕子の机の側に来て、床に座った。

そうや!
この子ら、何か知っとるかもしれんで。

「なぁ、儀式のこと、何か知っとるか?」
聞いてみる。

「しらないです」
「大人じゃないと、参加できんて聞いたで」
二人が即答した。

やっぱりなぁ。
裕子はうんうんと頷いた。


――― ―――


雨が降る中、真希はかさをさして、ガジュマルの樹にむかった。

昨日は市井ちゃんに会えなかった。
ずっと待っていたのに。
今日は会えるかなぁ。


紗耶香はガジュマルの樹の根元にいた。
今日も白いノロの衣服を身に着けている。
根元はガジュマルの豊かな枝のおかげで、雨粒は落ちてこない。
紗耶香は樹の幹に、その体をもたれかけている。
どうやら眠っているようだ。

「市井ちゃん」
近づいて、そっと呼びかけてみる。
返事はない。
身動きさえしない。


真希はじっと紗耶香の寝顔を見つめた。
幼い頃、一緒に寝たとき見て以来だ。

市井ちゃんの寝顔ってかわいい。
寝顔に見ほれた。

人は寝ている時に、その本当の姿を見せるというけれど、紗耶香の寝顔はどこか悲しげだった。
叱られたあと、泣きつかれて眠ってしまった子供みたいだ。

真希は紗耶香の上にかがみこんで、目線を合わせた。

手を伸ばして、閉じている唇に触れてみる。

この前、あたしの傷口に触れたものだ。
優しく傷口を清めてくれた。
ねぇ、市井ちゃん、信じてよ。
本当に痛みが消えたんだよ。


真希はゆっくりと顔を近づけると、紗耶香の唇に自分のそれを重ねた。
冷たい唇。

真希は唇を離すと、悲しげに紗耶香の頬にそっと触れた。
冷たい頬。


「・・・・市井ちゃん・・・・」
真希は再び、紗耶香の名を呼んだ。

紗耶香は眠ったままだ。

真希の瞳に涙が浮かんでくる。
ぐっと唇をかみしめると、立ちあがった。

そして、くるっと後ろを向き、もと来た道を戻っていった。



真希の姿が見えなくなると、紗耶香の目が開いた。
真希の去った方向をじっと見る。

先ほど真希が触れた唇に、手を当てる。
「・・・・後藤・・・・」
紗耶香はそっと呟いた。



12月20日 (二夜月)
儀式まで あと10日


――― ―――


朝から空はどんよりとした曇り空だ。

裕子は診療所ではげしく後悔していた。

何でこんなことになるんやっ。
そんな目で睨まんといてぇなぁ。
ゆーちゃん、泣きそうや。

後悔というのは、圭、圭織、なつみの三人に儀式に関する情報を聞いたことだ。
三人は、こともあろうに、真里にそのことを話したらしい。
あの三人のことだ、おもしろおかしく尾ひれを付けて真里に話したんだろう。

久しぶりに診療所に真里が現れたかとおもうと、裕子の頬をおもいっきりひっぱたいた。
「ゆーちゃんの浮気モノっ」
そう言うと、涙を浮かべた瞳で裕子を睨みつけた。


ひりひりと痛む頬を押さえて、裕子が言った。
「な・・何すんねんっ」
「うるさいっ」

「浮気モノって・・・・。ゆーちゃんそんなこと・・・・」
「圭ちゃん、圭織、なっちの三人が言ってたんだよ。ゆーちゃんは好きモノだから気をつけなって。
・・・・三人ともゆーちゃんに口説かれたって」

何やて!?
あのアマ。
ろくでもない情報に、媚薬草をくれてやった恩を忘れおって!!
よくも矢口にいいかげんなことを。
今度会ったら、ただじゃおかん。
どうしてくれようか。


考えこんでいると、真里がとんでもないことを言った。
「・・・・今度は、紗耶香を狙ってるって・・・・言ってた」


何〜!?
紗耶香〜!?
そんな馬鹿なっ。
うちは矢口一筋やで。

想像もつかない言葉が、真里の口から飛び出してくる。
裕子は何を言っていいのかわからず、口をぱくぱくさせた。

そんな裕子を見て、真里が叫んだ。
「どうして、何も言わないの!? 馬鹿っ。・・・・もう顔なんか見たくない。
裕子なんか嫌いだ。・・・・道で会っても、あたしに話しかけないで」

真里の顔は、涙でぐしょぐしょだ。
濡れた目でもう一度裕子を睨むと、診療所のドアを蹴飛ばして外へ飛び出していった。


――― ―――


あれからすぐ、裕子は真里の家に行ったが、当然返答はなかった。

しょんぼりと肩を落として、診療所に戻っていく。
重くたれこめた曇り空を見上げた。

この空は、うちの気持ちみたいや。

「しばらくしたら、聞く耳持ってくれるかもしれん・・・・」
自分に言い聞かせるように、呟いた。



診療所に帰る道で梨華とひとみに会い、声をかけられた。
「「こんにちは〜」」
「・・ぁ・・こんにちは・・」
気のぬけた挨拶をした。
「大変そうですね」
頬の赤みを見て、ひとみが心配そうに言った。

「・・・・何のことや」
そっけなく返す。
「島中でウワサになってますよ。先生が紗耶香さんのことを狙っているって・・・・」
「ごっちんも、それ聞いて真っ青になって診療所に行くって言ってました」
梨華とひとみが交互に答えた。


何じゃ〜!?
もう、どないせいっちゅーねん。
うちが何かしたか?
迂闊やった。
あの三人が矢口だけに話すはずがない。
おそらく、会った人全員に話してるとみて、まずは間違いない。
おもしろおかしく尾ひれを付けまくってるはずや。
もう許さんっ。

・・・・でも、とりあえずはごっちんやな。
ウワサを聞いて、どう出るか。
あいつは紗耶香がからむと、何しでかすかわからん。

裕子は梨華とひとみに、あたふたと礼を言うと、診療所に向かって走り出した。


――― ―――


診療所の建物の側に真希は座りこんでいた。
「・・・・ゆーちゃん」
真希は裕子の姿をみると、立ち上がり、近づいてきた。
泣いたあとらしく目は潤んでいるものの、落ちついている。

裕子は想像していたのと異なる真希の様子に、拍子抜けしてしまった。
走ったせいで息がきれている。

「・・な・・何や。・・げ・・元気・・そ・・うやないか」
息も絶え絶えに話しかけた。
「・・・・うん」

真希は小さく笑うと、続けて言った。
「最初、ウワサを聞いた時は頭の中真っ白になったけど。
考えてみたら・・・・ゆーちゃんがそんなことするわけないもんね・・・・」

よかった。
矢口だけじゃなくて、ごっちんも誤解してしまったら、
もう、ゆーちゃん立ち直れんわ。


真希が、裕子の頬の赤みに触れながら聞いた。
「ゆーちゃん、やぐっちゃんは?」
真希の質問に裕子の顔が歪んだ。

「・・・・怒ってる。・・・・道で会っても・・話しかけるなって言われた」

あれっ?変やな。
ごっちんの顔が歪んできたで。
もう何も見えへん。
頬を液体が落ちていく感覚がする。
『むぎゅうっっ』
暖かいものに抱きしめられた。

「大丈夫だよ〜。やぐっちゃんも、きっとわかってくれるって。・・・・誤解はとけるよ〜。
・・・・多分」
真希の根拠のない言葉が心にしみいる。

裕子は真希に抱きしめられながら、
「そうやな」と言った。



12月21日 (三夜月)
儀式まで あと9日


――― ―――


久しぶりに太陽が輝いている。晴天だ。

裕子は診療所で緊張していた。

昨夜は真里のことを考えながら、ついつい深酒してしまった。
おかげで朝から二日酔いだったのに、緊張のあまり、頭痛も胸焼けもどこかに消えてしまった。


うわぁ〜。
めっちゃ、緊張するで〜。
何話したらいいんやろ・・・・。

「あ・・あの、いい口紅の色ですね」

思わず標準語で話しかけてしまった。
しかも何や、口紅って・・。
このアホ。
自分で自分を叱咤する。


診療所には重々しい空気が流れている。
阿麻和利島一番の年長者。
島人には『おばば』と呼ばれている。
年齢はおそらく130歳を越えているだろう。
本人も正確な年齢は、忘れてしまったという。
その人が裕子の目の前にいる。

何でもおばば本人が、裕子と話しがしたいと言って聞かなかったらしい。


裕子の言葉に、おばばは目を細め笑いながら言った。
「せんせい、ウワサどおりたらしのようだね。・・・・わしのくちべにが、きになるかい?」
「・・・・・・」

・・ウワサはおばばの耳にまで届いているらしい。
最悪や。


「・・・・ぎしきのこと、しりたいそうだねぇ」
おばばが口をもごもごさせながら言った。
発音が不明瞭になるのは仕方がない。
なんせ歯の寿命は短い。
130年ももつはずがない。

おばばの言葉に裕子が目を見張ると、おばばは愉快そうに笑った。
「知りたいです」
即答する。
おそらく、おばばは数例の儀式に参加しているはずだ。


「いいとも、おしえてやるよ」
おばばが顔をしわだらけにして笑った。


――― 


しばらくすると、おばばを島人が迎えにきた。
おばばの昼寝の時間らしい。

「おばば、どうして、私に教えてくださったのですか?」
どうしても聞いておきたくて、裕子はおばばに質問した。

「・・・・・・うちのこどもたちと、あそんだでしょう。よろこんではなしてたよ、あんたのこと。
・・・・しんりょうじょで、おにごっこをしても、わらってみてたって。せんせいが、ぎしきの
ことを、しりたがっているって、わしにおしえたのも、あのこたちだよ。・・・・あんたのこと
がすきみたいだよ・・・・」

おばばは意味ありげにひひひと笑うと、
「がんばりなさい、どうなるかわからないけどね」
そう言って、迎えの人と共に、自分の足で歩いて帰っていった。



あの鬼ごっこコンビか。
笑ってみてたのは、どうしていいかわからなかったからなんやけどな。
しかしあの二人は、あのおばばの血をひいているのか。
末おそろしい子供たちやで〜。


儀式の概要はわかった。
あとは作戦やな。
ごっちんと相談せな。
好きあったもの同士が、一緒にいるほうがいいんや。

裕子の脳裏に真里が浮かんだ。

矢口、どうしているやろ。
夜はちゃんと眠れているんやろか。
ゆーちゃん、寂しいで。
矢口・・・・。


――― ―――


真希はガジュマルの樹にむかった。


しかし、ガジュマルの樹の根元に、紗耶香の姿はない。

避けられているのかな?
キスしたこと怒っているのかな?
市井ちゃんも、あたしのこと好きだと思っていたのに。
勘違いだったのかな。

もう微笑んでくれないのかな。
抱きしめてくれないのかな。



空は晴れているのに。
日差しは暖かいのに。
どうしてこんなに寒いんだろう。

寒いよ。
寒いよ。
寒いよ。
市井ちゃん・・・・。
真希は自分の体を抱きしめた。


真希の脳裏に先日見た夢がよみがえる。


月明かりの中。
細い首をのけぞらせ、端正な美しい顔が快感にゆがむ。
汗にまみれた白い肢体にからみつく、もう一つの肢体。
あれは誰だろう?



あれは・・・・夢だ。
真希は自分に言い聞かせた。



「市井ちゃんっ」
叫ぶ。


真希の声が山に反射して、やまびこになって戻ってくる。
『・・いちいちゃん・・』
『・・いちいちゃん・・』
『・・いちいちゃん・・』
・・・・・・・・


やがて、やまびこは小さくなって消えた。


12月22日 (四夜月)
儀式まで あと9日


――― ―――


裕子は診療所で焦っていた。

目の前には、普段着姿の紗耶香がいる。
裕子と向かい合って座り、ニコニコ笑っている。

何でこいつがここに来るんや?
何か感づいたんやろか?
困ったなぁ。
うちはこいつが苦手やねん。
一枚も、二枚も上手やからなぁ。

「どうしたの? ゆーちゃん、嫌な汗かいているよ」
裕子の心を見透かしたかのように、紗耶香が言った。

「・・な・・何でもない。き・・気のせいやろ」
「そう?」
くすっと笑いながら、紗耶香はお茶を飲んだ。

いじわるそうな瞳だ。
こいつがこんな顔を見せるのは、多分うちの前でだけや。
思い返してみれば、初めて会った時からこんな顔をしてたっけ。


「ゆーちゃんって、単純だよね〜」
勝ち誇ったかのように言った。

くっそ〜。
今にみてろ〜。
目にモノみせてやる。
あんたの弱点がごっちんだってことは、百も承知してるんや。
覚えとけよ。
うちはあんたより、10も年上なんやで。
年上は大事にせんといかんことを教えたる!


「・・・・あたし、大抵の人のことは・・・・わかるんだ」
突然、紗耶香が低い声で言った。

「ゆーちゃんも、矢口も、・・・・ゆーちゃんを始めてみた時も、
あぁ、この人は矢口にコマされるなって思ったもん」
裕子はぎょっとしたように、紗耶香を見つめる。

「・・・・でも、・・・・後藤は・・・・わからない。あいつだけはわからないよ」
紗耶香は俯いて、深いため息をついた。

裕子は紗耶香の両肩に手をかけて、言った。
「わからないから、・・・・気になるんやろ?」
「・・・・・・」
「それでいいんちゃうかな。ゆーちゃんはそう思うで」

裕子の言葉に、紗耶香は顔をあげた。
そして、ふっと笑うと言った。
「ゆーちゃんて、やっぱり単純だね」

「うるさいわ。・・・・あんたは考えすぎや。・・物事は単純に考えた方がいいんや。
でないと、何が一番大事かわからなくなるで」
紗耶香は裕子の言葉を反芻しているように、数回頷いた。
「・・・・ありがとう、ゆーちゃん」
「・・・・・・」



その後、二人で黙ってお茶を飲んだ。
お茶は苦かったが、そのぐらいが丁度よかった。


―――


帰り際、紗耶香がすまなそうに言った。
「ゆーちゃん、矢口と喧嘩してるんでしょう?・・・・あれって、あたしにも一因あるんだよね〜」
「ん〜?」

・・・・違うやろ?
あれは矢口が、うちが浮気したと思いこんで・・・・。

「実はこの前、矢口に無理やりキスしちゃったんだ」
「はぁっ!?」

何やて!?

「この前って、いつや?」
「う〜ん。・・・・矢口が媚薬草を拾ってた日・・・・」

「・・・・・・」
静かに、体の中が怒りで充満していくのがわかる。
思えば、あの日からおかしくなったんや。

思いっきり、目の前の相手を怒鳴りつけてやろうと、裕子は深く息を吸った。
と、目の前が突然暗くなった。
紗耶香の唇が裕子の唇をふさぐ。
「・・んぅっ・・・・」
裕子は抵抗するが、がっちり押さえつけられ、動けない。


―――


「ゆーちゃん。矢口のキス、返したからね〜」
紗耶香は唇を離すと、言った。

なおも続けて言う。
「いいこと教えてあげようか。大サービスだよっ
明日の夜・・・・矢口のところに夜這いしたら・・仲直りできるよ。
ただし、ゆーちゃんが積極的にならないとだめだけどね。まぁ、頑張ってね〜」
そう言い残し、紗耶香は診療所を後にした。

床にへたりこんでいた裕子が、心の中で毒づく。

くっそー。
何が『矢口のキス、返したからね〜』や。
最初から、やるなっちゅーんや。
一瞬でも、しおらしいと思った自分が許せん。
・・もっと許せんのは、あんなクソガキのキスで・・・・腰が抜けてしまった自分や。


――― ―――


真希は診療所にむかって歩いていた。

真希の進行方向とは反対から、人が歩いてくる。

久しぶりに見る、普段着。
青いトレーナーにジーンズ姿だ。
紗耶香は真希が現れたのをみて、驚いたようだった。

「・・・・後藤」
紗耶香はそのあとの言葉を続けることができない。

「「・・・・・・」」
二人とも何も言わず、道の真ん中で立ち止まっている。


やがて真希が口をひらいた。
「市井ちゃん・・・・どうして、あたしを避けるの?」
「別に・・避けてなんか・・・・いないよ。後藤の思いこみ・・・・」
「うそっ!!」
真希は紗耶香に最後まで言わせなかった。


「あたしが嫌いになった? もう顔も見たくない?」
矢継ぎ早に質問する。
「・・・・・・」
紗耶香は答えない。
何かに耐えるように、瞳をぎゅうっと閉じている。
両方のこぶしは固く握り締められ、白く変色していた。

「何か言ってよっ」
真希が叫ぶ。

「・・・・後藤は・・・・」
紗耶香の言葉はそこで途切れた。

真希が紗耶香に抱きついたからだ。

紗耶香も真希の体を強く抱きしめ返した。
二人とも無言だった。


ただ、お互いの体温の暖かさを感じていた。


12月23日 (五夜月)
儀式まで あと8日


――― ―――


よく晴れた日の朝。

真里は海へ向かって歩いていた。
潜水用のボディスーツを身に着けている。

視界に、誰かが道脇に立っているのが入ってきた。
誰かを待っているように、視線をうろうろさせている。


この道は船着場へ続く道で、普段誰かに会うことはめったにない。
誰だ?
真里の頭に素朴な疑問が浮かんだ。


久しぶりに見たので、かなり近よるまで気づかなかった。
普段着の市井紗耶香だ。
白いカッターシャツにジーパンという服装だ。

先日の紗耶香の様子が蘇ってきて、真里はぞっと背筋が冷たくなるのを感じた。

『・・矢口、女難の相が出ているよ・・』
感情のこもっていない、冷たい声。

『・・あたしが、こわいの?』
冷たい瞳で見据えられた。

硬い木の表皮に押しつけられ、強引に唇を奪われた。


「やぐち」


「矢口、おはよう」
紗耶香の方から声をかけた。
緊張しているのか、顔がこわばっている。
「・・・・おはよー」
真里は相手の顔を見ずに、いいかげんな挨拶をした。
「・・・・あのさ、・・・・」
おずおずと、紗耶香が話しかける。
それを遮るように真里が言った。
「・・・・あたしは・・・・紗耶香がわからなくなった・・・・」

真里の言葉に、紗耶香が目を見開いた。
真里には紗耶香が急に小さくなったように感じた。
顔色は真っ青だ。
唇は小刻みに震えている。
やがて途切れ途切れにごめんとつぶやくと、紗耶香は黙り込んでしまった。


何だよ。ダンマリかよ。
こいつも裕子と一緒じゃんか。
ちゃんと言い訳しろよ〜。
そういうとこがむかつくんだ。
・・・・・・。
・・・・・・しょうがない、助けてやるか。


「・・・・後藤と何かあった?」

真里の質問に紗耶香はふっと笑った。
自嘲的な笑い。
「・・・・そんなに、あたしってわかりやすい?」

「質問に、質問でかえすなよ〜」
「・・ごめん」

「・・さっきから紗耶香、謝ってばっかりだね」
「・・ごめん」


謝る紗耶香の顔に生気が戻ってきた。

真里はもう一度尋ねた。
「後藤と何かあった?」

「・・・・わからない・・・・」
「わからないって何が?」
「・・・・・・」
紗耶香は答えなかった。
考え込むように、真里から視線をそらせた。
遠い目。どこを見ているのかわからない目だ。


しばらくすると、紗耶香がふっと笑って、言った。
「・・矢口、背中の傷治った?」
「はぁ!?」
「ごめん・・・・強く押しつけちゃったもんね。・・・・そのせいでしょ?
ゆーちゃんに会わなかったのは」
「・・・・・・」
真里の顔がたちまち赤くなっていく。

何だよ。その言い方は。
裕子に会うと、いつも背中を見せているみたいな言い方じゃんか。

「本当にごめんね。・・・・ゆーちゃんにはちゃんと謝っといたから」
「へっ!?」


何〜!?
裕子が知っている?
それじゃ何の為に、矢口は裕子の所に行かなかったんだ!!
背中の傷が治るまでは・・・・って我慢してたのに。
それなのに・・・・。
それなのに、裕子が他の子をくどいたりするから・・・・。
・・何で、言い訳のひとつもしなかったんだよ〜。
言い訳してくれたら・・・・。
・・ちょっとふくれて、それでお終いだったのに。


紗耶香は真里の顔色が赤くなったり、青くなったりするのを見ていたが、やがておもむろに言った。
「矢口にいいこと教えたげる。今夜は家でおとなしくしといた方がいいよ」
「はぁ?」
「・・罪滅ぼしだよ」
紗耶香は心なしか楽しそうに言った。



「矢口、今日は西の海が大漁だよ」
紗耶香が帰り際、そっと教えてくれた。



・・・・・・。
普段はめったなことじゃ、どこに魚がいるか教えてくれないのに。
やっぱり、変だよなぁ・・・・。
裕子といい、後藤といい、紗耶香といい・・。
何もなけりゃいいんだけど・・・・。

はぁ〜。
真里はため息をつくと、船着場へむかった。


――― ―――


裕子は診療所で一人悩んでいた。

今日は患者が一人も来ていない。
考え事をするには、好都合だ。

―――

裕子の脳裏に今まで起こった様々な出来事が、浮かんでは消えていった。

『・・・・裕子なんか嫌いだ。道で会っても、あたしに話しかけないでっ』
真里の言葉がよみがえる。

『大丈夫だよ〜。やぐっちゃんも、きっとわかったくれるって』
真希の言葉がよみがえる。

『・・・・矢口のところに夜這いしたら・・仲直りできるよ。ただし、ゆーちゃんが積極的に
ならないと駄目だけどね。』
紗耶香の言葉がよみがえる。


そうやなぁ。
今夜が仲直りのチャンスやな。
海の向こうの日本は、クリスマスイブやで。
恋人たちの夜や・・・・。
そやのに、うちは・・・・。
はぁ〜。
うち、夜這いするんは初めてやけど、大丈夫やろか?
やり方とか、聞いた方がいいんかなぁ?


裕子は髪の毛をグシャグシャっとかきむしった。

うち・・・・ほんまに、こういうの苦手やねん。

裕子の悩みは夜まで続きそうだ。


――― ―――


真希は昨日の喜びをかみしめていた。

へへへへっ。
顔がゆるむのを、止められないよ。
市井ちゃんが抱きしめてくれた。
力いっぱい、抱きしめてくれた。
もう、空もとべちゃいそうな気分。

真希、梨華、ひとみの三人はそろって、梨華の家で冬休みの宿題をやっていた。

机の上に本をひろげたものの、真希はうわのそらで、何やら思い出し笑いをしている。
側にいる、梨華とひとみが心配そうに声をかけた。
「ごっちん、大丈夫?」
「何か悪いものでも食べた?」
「へへへへっ」
何を聞かれても、真希はニコニコ笑っているだけだ。


「こりゃ、駄目だよ。・・・・使いものにならないよ」
「そうだね」
梨華とひとみは顔を見合わせて、ため息をついた。


12月24日 (六夜月)
儀式の日まで あと7日


――― ―――


裕子は自宅に帰宅してから、ずっと悶々としていた。
冷蔵庫からビールを取り出し、プルトップを開け、一気に喉に流し込む。


もう夜の十時やで。
これ以上引き伸ばすのは、無理や。
覚悟を決めるで。
しっかりせい!裕子!!

自分で自分に喝を入れ、裕子は自宅を出た。
夜空には六夜月が出ていた。
冷たい夜風が裕子の頬を撫でた。
月の薄明かりの中、周りの人に気づかれないように、キョロキョロと辺りを
うかがいながら歩く。


夜這いって、恐いわ〜。
うち、ほんまに、へこみそうや・・。

そうこうしているうちに、真里の家に着いた。
昼間は入ったことのある真里の家が、今夜はやけに大きく、不気味に見える。


こんな時は、玄関から入るもんなんやろか?
それとも、窓から侵入するもんなんやろか?


裕子はしばらく考えていたが、やがて意を決したように、家の壁と壁の隙間に足を
かけ、登りはじめた。
しかし、慣れない動作と暗い視界のため、裕子は足をすべらせ、落ちてしまった。

『ガサガサガサ・・・・ドサッ・・』
派手な音がした。

「・・・・っ痛っ・・」
落下した時、腰を打ってしまったようだ。
痛さのあまり、すぐには声が出ない。

裕子が腰を押さえ、うめいていると、玄関の明かりがついた。
真里の部屋の明かりもついた。
目の前のドアが開き、中から真里の両親と真里が姿を現わした。
真里はパジャマ姿だ。


「ゆーちゃんっ」
真里が倒れている裕子に駆け寄った。

真里の両親は訳がわからないという表情をしている。
「・・裕子さん・・・・大丈夫ですか?」
真里の母親がためらいがちに、尋ねた。
「はぁ・・・・」
裕子もあいまいに頷くしかない。


沈黙がたちこめた。
裕子がそれを打ち破るように、口をひらいた。
「・・・・ははは・・ちよっと転んで・・」
「ゆーちゃん、診療所に行くよっ」
真里が裕子の言葉をさえぎるように言った。

「いや・・多分・・・・どこも折れてないようだし・・・・擦り傷だけ・・・・」
腰の痛みもだいぶ引いてきた。
「駄目。あたしと診療所に行くの!」
真里が言った。
有無を言わせない勢いだ。

「寝てていいから」
何か言いたそうな両親にそう告げると、裕子の肩に腕をまわして体重を支える。
二人の体が密着した。
真里の甘いにおいが、裕子の鼻をくすぐる。

「・・しっかりつかまってよっ」
「・・わかったがな」
二人はゆっくり歩きはじめた。


――― ―――


裕子の怪我は擦り傷だけだった。
腰も大丈夫そうだ。

診療所のいすに座らされ、真里に傷の手当てをしてもらう。

「本当に馬鹿なんだから」
真里が言った。
顔は怒っているように見える。


はい、返す言葉もございません。
うちは、ほんまに大馬鹿野朗です。
紗耶香の口車に乗って、大失態を演じてしまいました。

裕子はうなだれて、頭をたれた。
「本当に馬鹿なんだから」
真里が再び言った。
声が震えている。

裕子は頭をあげ、真里の顔を見た。

真里の瞳からは涙が溢れている。
濡れた瞳で、裕子をキッと睨みつける。


うちが泣かせてしまったんやろな。
うちのせいやな。


裕子は真里の頬を流れる液体をじっと見た。


きれいな涙やなぁ。
うわ〜。
なんて色っぽいんやろ。
どないしょ?
ドキドキしてきたで。

裕子は手をのばし、真里の頭を撫で、言った。
「ごめんなぁ・・・・」
真里は黙って、されるままになっている。

裕子はそのまま真里を自分の胸に引き寄せ、抱きしめた。
「ごめんなぁ・・・・」
再び言う。

「・・・・ば・・か・・」
くぐもった声が聞こえた。

裕子は真里を抱いている力をゆるめると、真里の顔を見つめた。
涙と鼻水でグシャグシャだ。


「・・・・見ないで」
真里が顔をそらして、小さな声で言う。
「何でや? めっちゃかわいいで?」
裕子はシャツで、真里の涙と鼻水を拭いてやる。
「・・嘘ばっかり」
照れたような声。

裕子がおずおずと真里に話しかけた。
「なぁ、・・・・今夜は・・・・その・・・・帰るんか?」
「・・・・・・」
「もし、よかったら・・・・その・・・・うちと・・・・」
「・・・・・・」
裕子は最後まで言うことができない。

真里は深深とため息をつくと、あきれたように言った。
「・・・・ゆーちゃん。・・・・こういう場合は、黙ってキスして、ベットに押し倒すんだよ・・・・」
「・・・・・・」

真里の言葉を受け、裕子はギクシャクと動きはじめた。
顔は真っ赤だ。
真里の手を引き、診療所のベットまでつれていった。


「・・・・ここでするの、初めてだね・・・・」
真里が裕子の耳元で囁く。

反応して、ビクッと裕子の体が震えた。
真里は自分から動く気はないようだ。
おもしろそうに裕子の様子を見ている。
裕子は覚悟を決めた。

「・・・・矢口・・」
興奮のため、かすれた声。
裕子は真里をベットのふちに座らせ、自分も腰をおろした。
『ギシッ・・・・』
ベットがきしむ音が聞こえた。


自分の唇を、真里のそれに重ねた。
「・・・・ん・・っ・・」
真里の吐息が聞こえる。


ゆっくりベットに真里の体を押し倒す。
唇は重なったままだ。
そのまま、お互いの唇と舌の動きを楽しむ。

真里のパジャマの上着を捲り上げ、手が進入してきた。
お腹のすべすべした感触を楽しむと、ゆっくりと上にあがってくる。
真里の呼吸が早くなっていく。

裕子はかんじんな所に触れようとしない。
真里は唇をもぎ離して喘ぐ。
「・・あぁ・・・・ゆ・・ちゃん・・」
目には涙が浮かんでいる。


・・・・うちも、こんな顔しとるんやろか?


裕子は真里の体をきつく抱きしめた。
・・・・このままひとつに溶けてしまえたらいいのに。

唇からこぼれる言葉は彼女の名前だけ。

やがて抱擁を解くと、裕子は真里のパジャマのボタンに手をかけ、ゆっくりとはずしていく。
真里の細いうなじ、白い胸が姿を現わした。
真里の体が震える。

「矢口、体が冷えてるで・・・・」
耳元で囁くと、裕子は真里のうなじに唇を押し当て、軽く吸う。
「・・あっ・・・・」
真里の体がびくっと反応した。

くすっと笑うと、裕子は真里のパジャマのズボンに手をかけると一気に引き下ろした。
「ゆーちゃんっ」
真里が慌てたような声を出す。
「何や?・・今日は・・うちに仕切らせてもらうで・・」
裕子は真里の冷えた体を一瞬抱きしめると、掛け布団をめくり、真里の体を押し込んだ。
自らも手早く服を脱ぎ捨て、真里の上にかぶさっていく。
再び、きつく抱き合う二人。
ただし今回は素肌だ。
お互いのしっとりとした肌の感触を楽しむ。


自然と、唇と唇が引き寄せられ、触れ合う。
裕子の左手が真里の胸にのびる。
右手は真里の頬に添えられたままだ。
「・・あぁっ・・」
裕子の唇が真里の首筋を滑り降りる。
目指すは胸のふくらみだ。
ゆっくりとした舌の動きが真里の感情を掻き立てる。
真里は裕子の唇と手の動きに、どうにも我慢できなくなってきた。
足を悶えさせる。

「・・ゆ・・ちゃ・・ん」
真里の切なそうな声。
涙のにじんだ瞳。
上気した頬。


・・・・あんたの心が欲しいから、あんたの体が欲しいんや。


裕子の右手がそろそろと真里の体を下っていく。
胸、腹を通過し、太腿、脹脛、踝まで下りていく。
唇は相変わらず真里の胸で踊っている。
焦らされている。
いつもとは逆の立場に、真里の体はぶるっと震えた。


裕子は真里の体をきつく抱きしめた。
・・・・このままひとつに溶けてしまえたらいいのに。

唇からこぼれる言葉は彼女の名前だけ。

やがて抱擁を解くと、裕子は真里のパジャマのボタンに手をかけ、ゆっくりとはずしていく。
真里の細いうなじ、白い胸が姿を現わした。
真里の体が震える。

「矢口、体が冷えてるで・・・・」
耳元で囁くと、裕子は真里のうなじに唇を押し当て、軽く吸う。
「・・あっ・・・・」
真里の体がびくっと反応した。

くすっと笑うと、裕子は真里のパジャマのズボンに手をかけると一気に引き下ろした。
「ゆーちゃんっ」
真里が慌てたような声を出す。
「何や?・・今日は・・うちに仕切らせてもらうで・・」
裕子は真里の冷えた体を一瞬抱きしめると、掛け布団をめくり、真里の体を押し込んだ。
自らも手早く服を脱ぎ捨て、真里の上にかぶさっていく。
再び、きつく抱き合う二人。
ただし今回は素肌だ。
お互いのしっとりとした肌の感触を楽しむ。


裕子は顔を上げ、真剣なまなざしで真里を見つめた。
真里は裕子から視線をはずすことができない。


・・・・くっっ・・・・この・・・・。
裕子って・・・・こんな・・意地・・悪かったっけ?
あぁ・・なんて目してるんだよ。
視線が熱くて・・・・溶けちゃいそうだよ。
・・あたしも・・こんな目してる・・のかな?


やがて裕子は真里の瞳を見つめながら、踝まで下ろした手を、少しずつ上げていく。
真里が待ち構えている場所に到着した。
「っ・・ああぁあっ・・・・ん」
真里が体を大きく震わせて声をあげる。
熱く、濡れた性器が裕子の指を迎えた。

真里の体内に二本の指を差し込んでいく。
裕子は優しく指を動かし始めた。
真里の悲鳴のような喘ぎ声が聞こえる。
指を暖かく包み込む感触。


裕子は真里の唇に唇を重ねた。
舌を激しくからめ合う。
真里の唇の端から、二人の唾液がこぼれる。
真里が裕子の体にしがみついてくる。
二人の呼吸がひとつに重なった。

裕子の指の動きも次第に速くなっていく。
「あぁっ・・んっ・・あああぁっっ」
真里の体が大きくしなり、そして静かにくずれおちた。

裕子は真里の隣で仰向けに寝転がった。
二人とも汗だくで、呼吸が荒い。
裕子の指は、まだ真里の中にある。


・・・・好きやで、矢口。
好きで好きでたまらんわ・・。


真里の呼吸が収まるのを待ってから、裕子はゆっくり指を抜いた。
掛け布団はベット下にずり落ちてしまっている。


真里はじっと裕子の顔を見つめていた。
「・・どうしたんや?・・そんなに見つめられたら、ゆーちゃん照れるがな」
「・・・・・・」

真里は何も言わず、裕子の手を取り、言った。
「・・・・あたし・・だけ・・だよね?」
「・・は?」
「・・ゆーちゃんが、こういう・・ことするの・・あたしだけだよね?」
「・・・・・・」

裕子は質問に答えることなく、じっと真里の顔を見つめ返した。
裕子の熱い視線に、真里はじりじりしてきた。


・・何か言えよ・・このやろ・・・・


真里が文句のひとつも言ってやろうと、口を開きかけたとたん、裕子の腕が伸びてきて、
真里の体を強く抱きしめた。
「・・当たりまえやろ。・・・・うちはあんたと一緒にいたくて、この島にきたんや。
・・・・うちはあんたのものや」
「ゆ・・ちゃん・・」

優しい声。
暖かい腕。
欲しかった言葉。

きつく抱きしめられ、耳元で囁かれて、真里の瞳には自然と涙が浮かんできた。
裕子の胸に耳を押し当て、彼女の鼓動を聞く。

「・・・・バクバクしてる・・」
「・・裸で抱き合ってるんや・・バクバクもするわ・・・・」
「アハハハハ」
真里は泣き笑いの状態だ。頬に触れる裕子の柔らかい胸の感触にうっとりしてしまう。


抱きしめている腕を緩めると、裕子は真里の顔をのぞきこんだ。
真里の涙を唇で拭いながら囁く。
「・・・・泣き顔・・色っぽい・・んやね」
「な・・何言ってんだよぉ」
「・・・・・・」
「裕子、聞こえないよ〜」
裕子が何か呟いたようだが、声が小さくて真里には聞き取れなかった。
「・・・・もっと・・泣かせてみたい・・って言ってる・・んや」
裕子の声は切なそうに掠れている。
「ちょ・・ゆう・・」

裕子が真里の唇を塞いだ。
真里の両手が裕子の首に回される。
きつく抱きしめ合う。



夜空には薄い六夜月が、静かに人間たちの喧騒を見つめていた。
夜はまだ長い。


――― ―――


晴天。さわやかな朝だ。

裕子は診療所のベットで目覚めた。
隣には真里が寝ている。
お互いに全裸だ。

裕子は昨夜のことを思い出して、ニマニマ笑った。


一時はどうなることかと思ったわ〜。
紗耶香は・・こうなることを予測してたのかぁ?
まさかな。
・・・・昨夜のことは誰にも予想できへんでぇ。


「んー・・?」
真里が目を覚まし、裕子に抱きついてきた。
「おはよう、ゆーちゃん」
全開の笑顔だ。


「おはようさん。もうちょっと寝といていいで。・・・・疲れとるやろ?」
裕子は真里の頬にキスすると、そう言ってベットから降り、脱ぎ捨ててあった服を着けはじめた。
真里は上半身を起こして、裕子をじっと見ていたが、やがて、ベット脇に置かれた籠から草を一本
引きぬいて、言った。
「そうだ、ゆーちゃん、この草って何に使うの〜?」


あ〜?
本気で聞いとるんか?
・・・・・・。
そんな恥かしいこと、よう言えんわ。


裕子は真里をまじまじと見つめた。

「・・どうしたの?矢口、何か変なこと聞いた?」
「・・・・・・」
真里は裕子を見つめて、口がひらくのを待っている。
裕子はごくっと唾を飲みこんで、覚悟を決めた。
深呼吸して、『草の効用について』話し出そうとした。


『ガチャ』

診療所のドアが開く音がした。
昨夜は慌てていたせいで、戸締りするのを忘れていたらしい。
裕子は急いで診療室とベットとを仕切っているカーテンの外に出た。

そこには、真里と険悪になる原因の一つを作った、張本人の三人娘。
保田圭、飯田圭織、安部なつみが立っていた。


「そんな嫌な顔しなくてもいいじゃん」
「ゆーちゃん、今日はキレイだね」
「うん、肌が輝いてるべ」
裕子の顔を見ると、圭、圭織、なつみの三人が一斉にしゃべり出した。


「・・・・何しに来たんや」
こいつらがお世辞を言う時は、ろくな時じゃない。
用心せんといかん!


「うんっ。この前もらった媚薬草、全部使っちゃったんだよね〜」
「ゆーちゃんが、ちょっとしかくれないからだべ〜」
「せっかく貴重な情報、教えたのに〜」
すねて、甘ったれたような声で言う。


・・・・ちょ〜待て。
あれが貴重な情報かいっ。
媚薬草くれてやったのも、もったいないぐらいや。
大体、あんたらの節操のない口のおかげで、うちがどんな目にあったかわかっとるんか!!

「・・・・よくも、矢口にいいかげんなこと、言ってくれたな」
裕子が低い声で言った。

しかし、裕子の威嚇も、三人には通用しない。
「本当のことじゃんっ」
「紗耶香に興味があるんでしょう?」
「儀式のこと聞いてたべ」


「・・・・・・」
・・・・こいつらに何を言っても『ぬかに釘』や。
とっとと帰ってもらうにかぎる。
・・・・カーテンに仕切られているとはいえ、ベットには矢口がいる。
そんな所をこいつらに見られたら、どういうウワサが立つか・・・・。
・・・・考えるだけで、恐ろしいわ。


「あんたらの相手をしている暇はないんや。はよ帰ってな」
できるだけ冷たく言う。

「まあまあ、ゆーちゃんの手はわずらわせないべ」
「この前と同じ所に置いてあるんでしょう?」
「自分で取るから、ゆーちゃん仕事してていいよ〜」
そう言うと、三人は裕子の静止も聞かず、診療室とベットを仕切っているカーテンを開けた。


「「「!?」」」
三人はベットの上にいる真里に驚いたようだったが、真里と真里の手に握られた媚薬草を
交互に見ると、ニヤ〜っと笑った。
裕子の背筋を嫌な汗が流れる。


「ふ〜ん。そういうわけか〜」
「お楽しみだね〜」
「なら、草はあきらめるしかないべさ」
そう言うと、ニヤニヤ顔を見合わせる。

「はは・・ちょ、ちょっと、体調が悪くて」
真里は焦ったように、弁解する。
三人は真里の話しを聞いている様子がまったくない。
ニヤニヤ笑いを崩すことなく、互いに何やら話し合っている。
打ち合わせが終了すると
「「「お幸せに〜」」」
声をそろえて、足早に帰っていった。


ドアが閉まり、三人の姿が見えなくなると、裕子はがっくりと肩を落とした。
「・・ゆーちゃん?どうしたの?」
真里の声が遠くに聞こえる。


今度は・・どういうウワサが、流れるんやろ?
・・・・矢口が上着を着けていたのが、せめてもの救いや。

「はぁ・・」
裕子は深いため息をついた。


――― ―――


昼下がりの午後。

阿麻和利島においては、クリスマスというものは存在しないに等しい。
外国の有名人の誕生日という認識があるだけだ。
しかし、真希、梨華、ひとみの三人は、梨華の家に集まりクリスマスを楽しんでいた。
否、クリスマスケーキを楽しんでいた。

梨華が焼いたケーキを持って登場した。
真希とひとみは歓声をあげる。
「わ〜〜。すごいね、梨華ちゃん!」
「おいしそう〜。いい匂い〜」

梨華は嬉しそうに切ったケーキを真希、ひとみ、自分のケーキ皿に分けた。
「はい、どうぞ」
梨華の声も弾んでいる。
「ごっちん、食べようよ」
ひとみが嬉しそうに言う。
「うんっ」
真希は大きな目を輝かせた。

三人とも無言でケーキに夢中になっていると、外が何やら騒がしくなってきた。
「あっ、あれ・・市井さんじゃない?」
ひとみが、すっとんきょうな声をあげる。

真希はケーキ皿から顔を上げると、ひとみの視線の先を見た。
窓から見える広場には、人が集まっている。

その中で紗耶香が数名の大人と難しい顔で話し合っていた。
白いノロの衣装を身に着けている。


「・・・・何やってるんだろ〜?」
ひとみがこそこそと梨華に耳打ちする。
「・・多分、儀式の打ち合わせじゃないかな」
梨華がひとみの耳元で囁いた。

真希はそれどころではない。
食い入るように紗耶香を見つめている。

と、視線に気づいた紗耶香が真希の方を向いた。
視線が一瞬からみあう。

紗耶香の顔がこわばった。
すぐに視線をそらす。
それから紗耶香が真希のいる方向を見ることはなかった。

真希の顔がこわばる。
目の前で起こった出来事が信じられない。
広場で立っているあの人は、一昨日、自分を抱きしめてくれた。
それなのに、今日は目も合わせてくれない。
天国から、奈落の底に突き落とされたような気分だ。


ひどい・・
ひどいよ、市井ちゃん・・・・。
どうして・・
どうして、目をそらすの?
何か・・
あたしが何かした?
何故・・
何故、あの時抱きしめたの?


真希の目に涙が光る。
真希は声も出さずに、ただ涙を流した。

梨華とひとみは、二人の様子を一部始終見ていた。

「「・・・・ごっちん・・・・」」
梨華もひとみも、真希にかける言葉が見つからなかった。


――― ―――


裕子は真里を目の前にして、困っていた。

先ほど、決意して『草の効用について』話そうとした所を邪魔された。

「・・・・この草って・・ごっちんが採ってたやつだよね。・・・・何であの三人が欲しがるの?」
「・・・・これはな〜、媚薬草ゆうてな・・・・う〜ん・・・・」
裕子の顔がだんだん赤くなっていく。

真里は裕子と先ほどの三人の会話から、この草の効用について、うすうす気づいていたが、
もう少し裕子の困った顔を見ていたい。

「・・・・その・・夜のな・・・・」
「・・・・ぷっ・・くくっ・・・・」
真里はとうとう我慢できなくなり、吹き出してしまった。

「な・・何や」
「ゆーちゃんっ、かわいいっ」
真里は裕子に抱きついた。
いきなり抱きつかれた裕子は、倒れそうになる。

「・・今度・・使って・・みようね」
真里は抱きついたまま、裕子の耳元で囁いた。
「・・ア・・アホ・・」
裕子はしどろもどろに答える。
真里はぎゅうっと抱きついた腕に力をこめて、おそらく真っ赤になっているだろう裕子の顔
を想像して、くすっと笑った。



12月25日 (七夜月)
儀式まで あと6日




1996年1月、村山首相辞任のあと、衆参両議院本会議で自民党の橋本龍太郎総裁が
首相に指名され、組閣、三党連立の新政権が発足した。
そして・・
市井紗耶香、12歳。


1月、南国の孤島。
阿麻和利島は桜が満開となる。
南国気質の島人達が、これを見逃すはずもなく、この時期はあちらこちらで毎日の
ように『花見』と称した宴会が開かれる。



初めて後藤と会った時の事を、覚えてはいない。
ただ、聞いた限りでは、
当時二歳にも満たない私は、まだおぼつかない足取りで、生後まもない後藤に近寄り、
眠っている後藤の唇にキスしたらしい。
・・・・この話は、格好の酒の肴になるらしく、宴会の席になると必ず出てくる話題だ。
その後、必ず続く言葉。
「さやちゃんは、おませだったからね」
・・・・・・。
おませ?
そんなんで、片付けていいのか?
・・・・違うだろう。
初対面の相手に、いくら子供とはいえ、キスするなんて・・・・。
記憶がないとはいえ、自分で、自分のやったことが信じられない。
しかも、その相手が後藤だなんて!


「いちーちゃんっ」
紗耶香の思考を打ち破る声が聞こえた。
同時に背後から、何者かに抱きつかれる。
振り向くと、大きな目を輝かせ、白い歯をみせて笑いかける少女。
後籐真希、十歳だ。

「・・・・何?」
「へへ・・呼んでみただけ〜」
「・・・・・・」
「いちーちゃん?」
何も言わない紗耶香をみて、真希は不安そうに首を傾げ、抱き着いていた腕をほどいた。


・・・・そんな顔するなって。
くぅっ・・。
子猫みたいだ。
・・だから、こうしたくなるんだよなぁ。


紗耶香は手を伸ばし、真希の髪の毛をワシワシとかきあげた。
真希は気にする様子もなく、されるがままになっていた。
紗耶香の手が離れると、乱れた髪のまま、名残惜しそうな顔で紗耶香を見上げる。


そうだよ・・。
時々、衝動的に後藤のこと抱きしめたくなるけど。
それは、その、・・例えば、雨の日なんかに道端で、子猫がずぶ濡れになって
鳴いていたら、放って置けないでしょう?
その・・人間としてさ。
それと同じだよ!
あたしは、自分を無理やり納得させると、自分の心を正直に行動に移そうとした。


と、その時
「おーい。紗耶香〜」
背後で聞き覚えのある声。
振り向くと、保田圭、十五歳が立っていた。
「何やってんのよ〜」
紗耶香と真希の間に割り込んでくる。

「な、何も・・」
「何、どもってんの?」
「いちーちゃんにワシワシされたの〜」
「ワシワシ?」
「何でもないって!」
「・・・・ふ〜ん、そうか」
焦っている紗耶香とぼさぼさに乱れた真希の髪を見て、圭は感づいたらしい。
ニヤニヤ笑っている。
「何が、そうか、なんだよ」
「そんな、怒らなくてもいいじゃん。・・・・別に、紗耶香が真希のこと好きだなんて、
誰にも話したりしないわよ」
「な、何を言ってるん・・」
「・・・・自覚ないの?」
「・・・・・・」


自覚ってなんだよ?
何の自覚だよっ。
あたしはただ、濡れている子猫を・・、じゃなくて、後藤を・・・・。


「・・ふ〜ん。まっ、いいや。それより、紗耶香。矢口が探していたよ」
何故だか焦っている紗耶香を尻目に、圭は興味がなくなったという風に、そっけなく言った。


しまったっ。
花見を脱け出して、こっそり、矢口と『十七歳未満立ち入り禁止』の洞窟に鍾乳石を
見に行く約束があったんだ〜。
何で、忘れていたんだろう?
あたしはお礼もそこそこに、後藤の手を引いて、矢口の元へと急いだ。


約束をすっぽかして、てっきり怒っているかと思っていたら、真里は紗耶香の母親
の側で、すっかりくつろいでいた。
「・・矢口・・ごめん」
「あっ、紗耶香。ごっちんと一緒だったんだ」
「う、うん」
「おいらはこれから、紗耶香のお母さんと、デートなんだ。邪魔しないでよ。
・・・・というわけで、洞窟行くのは中止ね」
「わ、わかった」
「何、どもってんの?」
「・・・・・・」


確かにそうだよなぁ。
さっきから、あたし、何どもってんだ?


さっきからずっと、おとなしくしていた真希が口を開いた。
「いちーちゃん。ごとーと行こうよっ」
「は?」
「だから〜、ごとーと、どうくつたんけんに行こうって言ってるの」
「探検?」
「しょうにゅうどう」
「・・・・・・」


どうやら後藤は、探検ごっこを、やる気満々らしい。
大きな目をもっと大きくして、瞳は期待でキラキラ輝いているし、興奮の為か鼻の穴はふくらんでいる。
本気っすか?
矢口を見ると、あたしの母親にべったり甘えている。
・・・・別に、いいけどさ。
母親を取られたぐらいで、やきもちなんか焼かないぞ!あたしは!!


「うっしゃ〜。行くぞっ、後藤っ」
「いえっさー」
紗耶香の半分やけくそ気味の、威勢の良い掛け声に、真希は嬉しそうに答えた。


鍾乳洞とは、石灰岩地にできた空洞。雨水や地下水に炭酸カルシウムが溶かされて
できたもので、上壁には別名『石の花』と呼ばれる鍾乳石が下がり、洞底には、た
けのこのような形に固まった『石筍』が立ち並んでいる。

鍾乳洞は不思議な所だ。
夏はひんやりと涼しいのに、冬はほんわかと暖かい。

「暖かいね〜。いちーちゃん」
「そうだね」
「でも、暗いね・・いちーちゃん」
「恐い?」
懐中電灯を持ってきているとはいえ、やはり暗くて、足元はたよりない。
「いちーちゃんがいるから、こわくないよ」
ぶんぶんと首を横に振り、つないだ手にぎゅうっと力を込めて、真希は紗耶香を
真っ直ぐ見て、言った。


「見て、いちーちゃん。これ、う○こみたい〜」
「ハハハ・・本当だ」
真希が鍾乳石を見て、はしゃいでいる。

「いちーちゃんっ、あのねっ・・・・あの石・・・・」
「どうした?ん?」
真希が焦ったような声を出して指差した鍾乳石は、恐ろしく巨大なものであった。
見るもの全てを圧倒するその姿。
紗耶香も真希も、言葉を発することができなかった。
その雄大さ、美しさに、心を奪われないものがいるだろうか。

「・・・・行こう、後藤。ここは・・何か」
しばらくその鍾乳石を見つめていた紗耶香が言いよどんだ。
焦りぎみに、真希の手を引いて、元来た道を戻っていく。


探検ごっこに疲れたのか、鍾乳洞を出ると、真希は眠いと言って、眠り込んでしまった。
仕方なく、膝枕をしてやりながら、紗耶香は真希の顔をじっと見つめた。


さっき、あの鍾乳石を見たとき、何か体が熱くなった。
後藤は何ともなかったみたいだけどさ。
・・・・だけど、ほんと可愛いな。
こいつの前では、絶対言いたくないけどさ。
鼻・・案外でかいんだな。
つまみたくなるよなぁ。・・ってイカン。
起きちまうじゃねえか。
まつげ・・長いんだな。
ほっぺも、つるつるだしよ。
唇・・・・。
あたしは後藤の唇から、何故か、目が離せなくなった。
そして、
・・・・何てこった。
すいよせられるように顔を近づけ、気がつくと、あたしは後藤の唇にキスしていた。




『三つ子の魂、百歳まで』というけど、
・・・・結局、あたしと後藤との関係は、二歳から変化してないようだ。
そう、気づいた、市井紗耶香、十二歳の冬。




1997年1月、島根県沖の日本海でロシアのタンカーが沈没し、重油が流出。
日本海近海で、最大級の事故となった。
そして・・
矢口真里、十四歳。


1月、南国の楽園。
阿麻和利島は桜が満開となる。
南国気質の島人達が、これを見逃すはずもなく、この時期は、あちらこちらで毎日
のように『花見』と称した宴会が開かれる。


空はよく晴れわたり、美しく咲き誇る、薄紅色の桜の花の下、今日も宴会が開かれている。


・・・・ったく。いいかげんにしろっつーの。
おいらの隣では、幼馴染の紗耶香とごっちんが、いちゃついている。
というより、一方的に、ごっちんが引っ付いているんだけどさ。
紗耶香は迷惑そうな顔をしている。
でも、おいらは、知っているんだよね。
紗耶香がちぃ〜っとも嫌がってなんか、いないってことを!
あいつは、変なとこ、ひねてるからさ。
な〜んて考えていると、そのひねてるやつが話しかけてきた。


「矢口、何ぼーっとしてるのさ?」
「んー、別に・・・・」
見ると、真希は紗耶香の膝の上に頭を置いて、眠り込んでしまっている。

「・・・・可愛いね」
「へ?・・・・そうかぁ?・・こんなの、重いだけだよ!」
「とか、何とか言って、本当は嬉しいくせに!」
「な、何言ってんだ。そ、そんなことないぞ!」


紗耶香が焦って、否定してきた。
こういう時ってさ、からかいたくなるよね?
その・・・・人間としてさ。
おいらは、素直に疑問をぶつけてみる。


「紗耶香ってさ、こういう無邪気そうな、ぼーっとしてるのが、好みなんでしょう?」
「はぁ!?」
「特別優しいもんね〜。後藤には」
「だ、誰にでも優しいぞ!あたしは!!」
「ほ〜・・・・」
「何だよ!」
「あ〜、知らないんだ〜」
「・・・・あ?」
「紗耶香、今溶けちゃいそうな位、甘い顔してるけど?」
「・・・・・・」


黙り込んだ紗耶香を見て、真里は勝ち誇った気分に浸る。
紗耶香はじぃっと真里を睨んでいたが、やがて気がついたように言った。
 
「あっ・・母さん」
「!?」
真里は紗耶香の言葉に反応して、背筋をシャキッと伸ばし、周りを見渡した。
しかし、お目当ての人物の姿は見当たらない。
ぎっと、紗耶香を睨みつける。

「うそつき」
「矢口が変な事、言うからだよ」
「・・・・・・」
「・・前から聞こうと思ってたんだけど、うちの母さんのどこがいいわけ?」
「・・どこって・・・・かっこいいじゃん」
「・・ノロだから?」
「・・多分・・それもあるけど、・・・・美人だし、優しいし・・」


「そうかぁ?」
「そうだよっ」
言葉とは裏腹に、紗耶香の表情は嬉しそうだ。
母親を誉められて、嬉しく思わない子供なんていないだろう。


おいらはぼんやりと、紗耶香の母親の顔を思い浮かべた。
ちょっとたれ目がちの、澄んだ瞳。
すぅっと通った鼻筋。
そして、形のよい唇。
紗耶香は絶対、父親似だ。
だって、お母さんに全然似てないもんなぁ。
二人並んでも、親子に見えないもんね。
しいて共通点をあげれば、意思が強そうなとこぐらいか。


「矢口〜、紗耶香〜」
「何楽しそうに、話しているのかなぁ?」
「おね〜さん達にも聞かせて、聞かせて」
「「・・・・・・」」
年上のかしまし娘三人が話しかけてきた。
保田圭、十六歳。
飯田圭織、十五歳。
安部なつみ、十五歳だ。
しきりに体を揺らして、大げさなアクションをとる。


おいらと紗耶香が同時に黙り込んだのは、多分偶然じゃないはず。
この三人、決して悪い人じゃないけど、少々性格に問題があると思う。
人の困った顔を見るのが、大好きときているもんなぁ・・・・。


「何で黙り込むかなぁ」
「折角、仲間に入れてあげようと思ったのにさ」
「いいのかな〜?」

「・・・・何の、仲間、です?」
紗耶香が口を開いた。

「教えて欲しい?」
「欲しい?」
「ん?」


嬉しそうに聞いてくる。
っていうか、話したいんでしょう?


「あの『十七歳未満立ち入り禁止』の洞窟があるでしょう?」
「あれに〜、一足お先に入っちゃおうって・・・・」
「面白そうだべ〜」


聞く前に、話しはじめたよ・・・・。
去年のうちらと同じ事考えてるのね・・・・。
・・・・何か、すごく嫌なんですけど。


「・・あたしは、入ったから、いい」
紗耶香がとんでもない事を、言い出した。

「い、い、いつ?誰と?何で?」
「・・・・去年の花見、・・後藤と、・・探検に行こうってせがまれて・・」
「何だよ、それ。・・おいら、中止にしようって、言ったじゃんか〜」
「・・・・そうなんだけどさ・・」
紗耶香はばつが悪そうな顔をしている。
「もういいっ!おいらも洞窟行くからね!!」
真里は叫んだ。


っていうか、何で、おいらこんなに怒ってんだ?
勢いで、三人についてきてしまった。
もう、洞窟の前まで来ちゃったよ・・・・。


「矢口は、この洞窟に何があるか、知ってる?」
「何って、鍾乳石でしょ?」
「・・・・ここにはね・・きゃ〜・・・・恥かしくて、言えないべさ」
「・・何?」
「ここにはね、男性器と女性器の形をした鍾乳石があるんだって」
圭が真面目な顔で、重々しく言った。


圭ちゃんの真面目な顔なんて、はじめて見た。
・・・・じゃなくって。
だんせいきとじょせいき?
聞きなれない言葉に、クラクラする。


「お姉ちゃんが、見たら、発情するって、言ってたよ。・・・・圭織恥かしいっ」
「きゃ〜、発情だって」
「紗耶香と後藤は、入ったって言ってたよね?」
「きゃ〜、何かあったりして」
「ドキドキするね〜」
「秘密の香りがする〜」


発情?
・・・・何か、やばくないか?
つーか、紗耶香は後藤と入ったんだよね・・・・。
・・・・大丈夫だったの?
・・・・すごく、嫌な予感がするんですけど・・・・。
いまいち思考がついていかない、おいらを無視して、三人は盛りあがっている。


「早く見たいべさ〜」
「圭織が懐中電灯持っているから、いちば〜ん」
「ほら、矢口、行くよ!」
「・・・・うん」

「・・・・イケナイ子達ね」
洞窟に入ろうとした、まさにその時、背後から声が聞こえた。
盛りあがって、どうにも止まらない三人、プラス、部外者一人を固まらせるのに、十分な声が。


恐る恐る振り向くと、
「君達には、まだ少し早いんじゃない?」
そこには、真っ白な服を着けた女性―阿麻和利島のノロ―が、腕を組んで立っていた。




おいらの予感は当たっていたのかな?
それから、おいら達四人は、こってりとお説教された。
とくとくと、島の歴史から始まり、『通い婚に参加する資格と責任について』まで、語られる。
他の三人は、どうか知らないけど、おいらには、この説教がとても心地よかった。
アルトの優しい声が語りかけてくる。
何だか、子守り歌でも聞いているような気さえしていた。



「矢口、うちら先に行くからねっ」
圭の声に真里は、はっと我に返った。


気がついたら、三人の後姿が遠くに見えた。
おいらの傍らには、紗耶香の母親が立っていた。
じぃっと、その澄んだ瞳に見つめられて、おいらは固まってしまった。


「・・・・真里ちゃん、どうした?・・・・ぼーっとして。・・ちょっと話しが長すぎたかな?」
「・・・・ごめんなさい・・・・去年も、行かないでって、止められたのに」
おいら、自分自身が情けなくて、謝る声も、小さくなってしまう。


「・・・・別に、叱ったわけじゃないよ。ただ、こういうのは、その・・・・できるだけ順序よくいっちまった方がいいからさ。まぁ、興味津々の時期だと思うけど。・・・・紗耶香のバカは、見ちまったみたいだけどね。・・・・お子様だから、問題ないでしょう。」
そう言って、小さく笑い、真里の髪の毛をワシワシとかきあげた。


『ドクン』心臓の鼓動が聞こえた。
顔がだんだん赤くなる。
・・・・あたし、好きみたい。
って、どうするよ。
やばい。紗耶香の母親だぞ。
・・・・・・。

焦る、矢口真里、十四歳の冬。




1998年7月、橋本龍太郎首相は参議院選挙惨敗の責任を取って、退陣表明した。

1998年8月、中国最長の川『長江』が44年ぶりという大洪水を起こし、沿岸に大きな
被害をもたらした。中国民政省のまとめでは全国で2億4000万人が被災、2000人以上
が死亡した。

そして・・
後藤真希、もうすぐ十三歳。


七月の阿麻和利島は日差しが強く、空の青さを写して、海の色が最も美しく見える。
亜熱帯気候に位置するこの島は、年中、植物が咲き乱れているが、1年を通して最も
花が咲き誇るのがこの時期である。


焼けつくような日差しの中、真希は麦わら帽子を被り、飽きもせず、生真面目な顔で
せっせと花を摘んでいた。
汗が、次々と、額から浮き出ては、流れ落ちていく。

そこに、真っ黒に日焼けした、二人の少女が近づいてきた。
人の気配に気づいた真希が顔を上げる。
とたんに、笑顔に変わった。


「いちーちゃんっ」
「うわっ、抱きつくなって。・・・・暑いだろうが!」
「いいじゃん。・・・・いちーちゃん、汗くさい」
「後藤だってそうじゃんか」
「でも、いいもん!・・・・あっ、あのねっ、・・・・この花かんむり、ごとーが、いちーち
ゃんのために作ったの〜」
体を離すと、抱きついた反動で、形が乱れてしまった花かんむりを、紗耶香に差し出す。
「・・・・サンキュー」
照れくさいのか、紗耶香は視線をそらしながら受け取ると、真希の髪の毛をワシワシと
かきあげた。
真希は嬉しそうに、じっと髪をかきあげられている。

「・・・・矢口も、いるんですけど」
「あ・・・・ごめんなさい。・・やぐっちゃんの分、作ってなかった・・」
真希がしゅんとした声を出した。

「いいって、いつものことだから・・」
真里はひらひらと手を振って、気にするなという合図をした。


「・・ところで、ごっちん。うちら、これから海に、タコを取りに行こうと・・・・」
「ごとーも行く!」
最後まで聞かずに、真希は元気よく返事をした。
嬉しそうに、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
「・・・・ごっちん、そんなに嬉しい?」
「うんっ、いちーちゃんと一緒だもん」
「・・あっそ・・」

紗耶香は二人のやり取りに苦笑しながら、当たり前のように真希の手を取ると、
真里を促し、海に向かって歩きはじめた。


丁度、海は引き潮で、遠浅になっていた。
白い砂浜には、小さなカニ達が戯れている。


真里は海のことを、実によく知っていた。
魚を取るのも得意だし、もちろんタコも例外ではない。
浜辺に落ちていた棒切れを使って、1時間も経たないうちに、タコを6杯取ってしまった。
紗耶香と真希は、真里の手際の良さに呆気に取られた。

食べ盛りの三人は浜辺に陣取り、早速、タコを焼いてみた。
焼きあがったタコの、香ばしい匂いが、食欲をそそる。
真希のお腹がぐぅっと鳴った。
「・・・・食べようよぉ」
気恥ずかしそうに、真希が言った。

「おいしー、自分で取ったタコはサイコーだねっ」
「うん、うまい」
「やぐっちゃん、焼くのもじょうず〜」

見る見るうちに、タコが消えていく。


「後藤、食べすぎ!太るぞ!!」
「いいも〜ん」
「そんなこと言って、紗耶香はむっちりタイプが好きなんでしょう?」
「いちーちゃん、本当?」
「何の、根拠があって、そんなこと・・・・」
「人は、自分にないものを求めるって、お母さんが言ってたもんっ」
「じゃ〜、ごとー、むっちりになる!」
「ならなくていいよ!」
紗耶香に主張が否定され、真希はむっとした顔をしている。

「・・・・紗耶香もさぁ、素直に、今が一番いいって言えばいいじゃん」
真里が呆れたように言った。
「いちーちゃん、本当?」
「そ、そんな事、思ってないぞ!」
「ごっちん、いい事教えてあげる。・・・・紗耶香がどもるときは、言ってることの反対が
本音だからね」
「い、いいかげんなこと言うなよ!」
「ほらねっ」
勝ち誇ったような、真里の声。


ん?
いちーちゃん、どもってたよねぇ。
ろいうことは・・・・。


紗耶香は口をへの字に曲げたまま、砂浜に座りこみ、落ちつきなく、海辺の砂をいじっている。
その姿を、真里は面白そうに見ていた。


「いちーちゃんっ、大好きっ」
真希は立ちあがると、叫びながら、紗耶香に飛びついた。

いきなり抱きつかれた紗耶香は、バランスをくずして、背中から砂の中に突っ込んで
しまった。
全身砂まみれになる。
「ペペペッ・・・・。この、後藤〜!」
口に入った砂を吐き出しながら、紗耶香が叫んだ。
「きゃ〜!!」
大げさな悲鳴をあげて、真希が逃げる。


「待て〜!この悪ガキ〜!!」
「待たないも〜ん!」
はげしい追いかけっこを繰り広げる。

「・・・・ガキが、ガキに向かって、何言ってんだか・・・・」
真里のぼやきは、二人に届くはずもない。
そう言いながらも、何だか真里も楽しそうだ。


息は切れるし。
砂に足を取られて、うまく走れないのに。
それでも、止まりたくないよ。
いちーちゃんと、ずっと、こうして、
追いかけっこしたいな。
そんなこと、考えていたら、後ろからタックルされた。


「うりゃ〜」
「うわ〜い」
的外れな声と共に、紗耶香と真希が砂の上に倒れる。
二人で砂にまみれて、転げまわる。


真里がその様子を半分呆れながら、見ていると、
「随分、楽しそうね」
背後から、優しいアルトの声が聞こえた。

振り向くと、紗耶香の母親―阿麻和利島のノロ―が立っていた。
「真里ちゃんは参加しないの?」
「・・・・邪魔したら悪いかなぁって」
「アハハ・・・・真里ちゃんは優しいなぁ」
そう言って、真里の髪の毛を、ワシワシとかきあげた。
真里の顔が赤くなる。
 

「・・・・母さん」
母親の存在に気づいた紗耶香は、少しばつが悪そうに立ちあがった。
真希の手も掴んで、立ちあがらせる。


いちーちゃんのお母さんは美人だ。
もちろん、いちーちゃんも、美人だけど。
でも、二人は全然似てない。
いちーちゃんはお父さんそっくりだって、うちのお母さんが言ってた。
お父さんは、カメラマンだったらしい。
阿麻和利島にたまたま仕事で来た時に、二人は出会って、恋に落ちた。
でも、いちーちゃんが生まれてすぐ、仕事先の外国で、死んでしまったそうだ。


「紗耶香、私、帰り遅くなるから」
「うん、わかった」
手早く、紗耶香に用件を告げた後、真希に視線を移す。
「真希ちゃん、砂まみれだね。おか〜さんに怒られないかな?」
「うん、怒られる!」
「・・・・そうか」 
「うん、そう!!」

元気いっぱいの真希の返事に、ニコニコ笑うと、真希の髪の毛に手を伸ばして、ワシワシとかきあげた。
真希はぼーっとして、されるがままになっている。
それから、じゃあねと言って、そそくさと帰っていった。


あはっ。
いちーちゃんのお母さんにもワシワシされちゃった〜。
って、・・・・何?
何か、いちーちゃんと、やぐっちゃんの機嫌が悪いような・・・・。
あたしの事無視して、二人で会話してるし・・・・。


「・・・・何か、忙しそう」
「うん、来月、中国行くからさ。その準備じゃないかなぁ」
「一人?」
「三人。姉妹都市から招待されたって」
「ふ〜ん」


「・・・・いちーちゃん?」
「・・・・何?」
「・・何か怒ってるの?」
「べ、別に怒ってないぞ!」
「・・・・・・」


やっぱり、怒ってるじゃん。
しっかり、どもってるし。
・・・・・・。
やっぱり、いちーちゃんって、よくわかんない。
そう思った、後藤真希、十三歳の夏。




1998年8月

暑い夏だった。
とにかく、ひどく暑い夏だった。


そして、
阿麻和利島は、深い悲しみに包まれていた。


中国福建省の姉妹都市に、招待されていたノロ―紗耶香の母親―達一行三人が、
44年ぶりに起こった『長江』の洪水に巻き込まれて、命を落としたのだ。
彼ら三人の遺体は、発見されていない。


――― ―――


三人の消息不明の一報を受けて、島はざわめきだった。

紗耶香は気丈にも、落ちついた様子で対応した。
その顔は、幾分青白かったが、凛とした印象さえ受けた。
すぐさま三人の消息を調べる為の捜索隊と、島の有志から成るボランティアが
現地に派遣された。

しかし、良い知らせが届く事はなかった。


――― ―――


真夏には珍しい、涼やかな海風が吹く晴天の日、合同葬儀がおこなわれた。
紗耶香のノロとしての最初の仕事は、母親をはじめ、長江の洪水で亡くなった三人の
弔辞を述べることだった。

「・・・・遺体は発見されませんでしたが、雄大な『長江』は海へと続いています。
・・・・きっと、三人の魂は海を通じて、ここに・・・・この島に帰ってきているはずです。
その証拠に、今日は、風が、すごく優しいでしょう?・・・・」


お葬式で、いちーちゃんの話しを聞いて、
あたしは、いちーちゃんが、すごく無理しているように見えた。
痛々しくって、見ていられない。
大人の人達は、あれならノロとして大丈夫だとか、こそこそ話し合っていた。
どこが、大丈夫なのさ。
あんないちーちゃん、あたし、見たことない・・・・。


――― ―――


その夜、真希は紗耶香の様子が気になって、こっそり自宅を脱け出し、紗耶香の家に
むかった。
ほんの数時間前までは、合同葬儀に参加した人達が訪れていた為、騒がしかったが、
さすがに今は静まりかえっている。

二階にある紗耶香の部屋の明かりはついていた。
真希はいつものように、小石を拾うと、紗耶香の部屋の窓に向かって投げた。
『コツン』
夜の静寂の中で、それは何かの始まりの合図のように響いた。

窓から紗耶香の顔が見え、そして消えた。
暫くすると、
『ガチャ』
玄関のドアが開き、紗耶香が出てきた。

「・・後藤」
「・・・・いちーちゃん」
「どうした?もう、夜だよ」
「うん・・・・」
「ん?」
「・・・・・・」
黙り込んだ真希に、紗耶香は優しく微笑んだ。


涙がでてきた。
いちーちゃんが無理しているのが、わかるから。


「・・・・いちーちゃんさ、何で、笑うの?」
声が震えている。

「・・・・後藤?」
「何で、無理するのさっ」
「無理なんか・・・・」
「うそつき」
「・・・・うそじゃないよ・・」
「うそだもん」
「・・あたしは・・・・そうしなければ、ならないから」
自分自身に言っているように聞こえた。

「そんなの、いちーちゃんじゃない!らしくないよ!!」
唾を飛ばして、叫んだ。


傷つける言葉ばっかり、出てくる。
あたしって、嫌なやつ。
サイテーだ。
違うよ、いちーちゃん。
あたしが、本当に言いたいのは・・・・。


「・・っ・・何がわかるんだよ。・・後藤に、何がわかるんだよっ!」
「わかるよ。いちーちゃんが泣いてるのが、わかるよ。なのに、何で無理して笑うのさ」
真希の言葉に、紗耶香の顔が歪んだ。

ぐっと唇をかみしめると、突然、傍らに立っている木の幹に拳を打ちつけた。
皮膚が切れ、鮮血が飛び散った。
かまわず、拳を打ちつける。
その姿は、狂気さえ漂っていた。

真希は呆然と見ていたが、はっと気づくと、紗耶香の腕に必死にしがみつき、止めようとした。
真希の体が振りまわされる。
「やめてよ、いちーちゃん!・・いちーちゃん!!」
必死で叫んだ。

紗耶香は拳を打ちつけるのを止めると、痛いやと言って、真希に笑いかけた。
血で、赤くなった手の甲に、ポタッと液体が落ちた。
「・・・・何だ?そんなに・・痛くない・・のに」
驚いたような声。

「泣きた・・かったら、・・な・・いてよ、い・・ち・・ちゃん」
真希が声をつまらせ、顔をクシャクシャにして言った。

「・・・・酷いよ。・・・・あたしを、ひとりに、するなんて・・・・かあさん」
低い声でそう呟くと、紗耶香はようやく泣きはじめた。


真希は、ずっと紗耶香を抱きしめていた。
紗耶香の泣き声は大きかった。
叫んでいるかのようだった。


どのくらいの時間そうしていたのだろう。
紗耶香はしだいに落ち着いてきたらしく、真希にあずけた体を起こした。

真希はポケットからハンカチを取り出すと、紗耶香の傷ついた手に巻いてやった。
「・・格好悪いとこ見せちゃったね」
自嘲気味に紗耶香が呟いた。
「いちーちゃん、一人じゃないよっ。あたしがいるよ。・・・・やぐっちゃん・・だって、
圭ちゃん達だっているじゃんかぁ」
次第に大きくなる声。

「・・・・あたしさ・・・・もっと、時間があると思っていたんだよね・・・・」
「・・どういう・・意味?」
「・・・・もっと、後藤と一緒にいられると思ってたってこと」
「一緒にいられるよ!」
「・・・・・・」
「・・いちーちゃん?」
紗耶香は真希の体を引き寄せ、ぎゅうっと抱きしめた。
「・・・・暖かいな、後藤は・・・・」
「・・いちーちゃん・・」
「・・・・ずっと、こうしていたかったな・・・・」
「ごとーも、こうしていたい・・・・」
「・・・・・・」
紗耶香は何も言わなかった。


どうして、こんなに切ないのかな?
何で、いちーちゃん、そんな泣きそうな顔しているの?


夜空には青白い月が光っていた。


――― ―――


それから十日後、紗耶香の臨時のノロ就任式がひっそりと執り行われた。
不幸があったのと、紗耶香がまだ十七歳未満であることなどから、正式な就任式は
十七歳になってから執り行われる事となる。


真新しい、白いノロの衣装に身を包んだ紗耶香は、美しかった。
見るもの全てが、息を呑むほどの美しさだった。
島の大人達も、立派なノロの誕生だた、喜んでいる。


遠くから、式の進行を見つめていた真希に、真里が近寄ってきた。
「紗耶香・・別人みたい・・・・」
「・・・・そんなこと・・ないよ・・」
真希が弱々しく否定する。

真里は、そうかもねと言うと、真希を引き寄せ、そっと抱きしめた。


それから・・・・。

それから、いちーちゃんとあたしが、バカみたいにはしゃいでた日々は、遠い昔になってしまった。






2000年1月、矢口真里、もうすぐ十七歳。


あたしはあと5日で、十七歳の誕生日を迎える。
『通い婚』に参加する資格と義務を負う歳になるってわけ。
同級生の中には、とっくに十七歳になり、『通い婚』を実践している人もいる。
十七歳になって喜んでいる人もいるけど、あたしは憂鬱だ。
別に好きな人がいるわけでもないし。
何人か、島の男の子からアプローチされているけど、あたしはその気はないから。
十七歳になろうが、関係ないね。
『通い婚』なんて、するもんか。
初恋の人は、亡くなってしまったけど、すごい美人だったし。
あたしの理想は高いんだ・・・・。

近頃、島の人達は、あたしの顔を見れば、やれ山田はいいやつだの、宮下はどうだの、言ってくる。


知るかよ。
あたしは勝手にやるからさ。
ほっといてくれよ。
チッ、おもしろくねーな。
こんな日は海に出るにかぎる。
海は『長江』へと続いているから、大好きなあの人に会えるような気がするんだ。


1月だというのに、今日は日差しが暖かい。
日光がキラキラと波に反射して、自然の万華鏡をつくりだす。
穏やかな風が、真里の荒れた心を静めていった。

真里は港の端に繋いである、一艘の小型船に乗り込むと、エンジンをかけ沖にむかった。
しかし、調子よく走っていたにもかかわらず、沖に出たとたん、エンジンが止まってしまった。


なんだよ、どうしたよ。
このポンコツ。
海のど真ん中で止まるとは、いい度胸じゃねえか。
チッ、バッテリー切れかよ。
って、どうするよ。
無線で助けを呼ぶか?
・・・・かっこわりいなぁ。


「どうした〜」
困り果てていると、『ドドドドド』っていうエンジン音と、それに負けないくらいでっかい、つんじいの声が聞こえた。
つんじいは漁師で、酒に弱いのがたまに傷の、人のいいおじさんだ。
船のエンジンを切って、あたしの船の横につけてくれた。


「つんじい、助かった〜。バッテリーあがっちゃって、困ってたんだ。乗せて!」
そう言うと、真里は有無を言わさず、つんじいの船に乗り込んだ。

「・・いいけどよ、船は?」
「イカリ降ろして、置いとく。・・・・明日ここにつれてきてくんない?」
「お安いご用よ。・・・・先客いるぜ」
エンジンをかけながら言う。
「・・・・誰?」
「医者先生よ、健康診断の。・・でも、ビックリするぜ、若くてよ。・・・・・・・・にそっくりなんだよ」
つんじいの言葉は、エンジンの音にかき消されて、うまく聞き取れなかった。


ふ〜ん、若い先生ねぇ。
いつもは、よぼよぼの、じいさん先生なのに。
・・・・じいさんに、何かあったのか?
結構、あのじいさん、好きだったのにな。


あたしは、ハンドルを握る、つんじいの隣に腰をおろした。
すると、あたしとつんじいの会話を聞きつけたのか、奥の船室のドアがゆっくり開いて、中から女の人が出てきた。
その人の顔を見て、あたしは固まってしまった。

ちょっとたれ目がちの、澄んだ瞳。
すぅっと通った鼻筋。
そして、形のよい唇。
今はもういない、あたしの大好きな人にそっくりだった。

「なんや、えらい、可愛い子やなぁ」
優しいアルトの声が話しかけてくる。



それが、あたしとゆーちゃんとの出会いだった。


――― ―――


「・・・・いちーちゃん?」
「・・・・何?」
「・・何か怒ってるの?」
「べ、別に怒ってないぞ!」
「・・・・・・」

紗耶香は母親が乱した真希の髪を、丁寧に手ぐしで撫でつけてやった。
表情は不機嫌そうだが、その手つきは優しい。
真希はその間、紗耶香の顔を不思議そうに見つめていたが、紗耶香の手が離れると、
満面の笑顔になった。


真里はそんな二人を少し離れた場所で、手持ち無沙汰な様子で眺めていたが、やがて
思い出したように、家に帰らなきゃと呟いた。
日没にはまだ時間があったが、家に帰るには丁度いい時間かもしれない。

「紗耶香、あたし帰るから。ごっちんをよろしく。ちゃんと家まで送ってあげてよ。
・・・・それから、一緒に怒られてあげてね。ごっちんが砂まみれなのはあんたの責任
でしょう?わかった?」
真里が早口でまくしたてると、紗耶香は面白くなさそうにわかってるって、と言った。
真里はわかってりゃいいんだと笑うと、鼻歌を歌いながら帰っていく。


残された紗耶香と真希は、しばらく真里の後姿を見送っていた。
真希が申し訳なさそうに言った。
「いちーちゃん、怒られなくてもいいよ。ごとーが悪いんだし」
「何言ってんだ。一緒に怒られてやるよ」
「・・・・でも・・・・」
「こうみえても怒られるのうまいからさ。まかせときなよ!」
紗耶香は真希の手を取ると、ニッと笑って歩き出した。

「ヘヘヘ・・・・いちーちゃん大好き!」
真希は握った手に力を込めて言った。
「・・・・ん」
紗耶香は軽く頷いた。

何度も言われている言葉だ。
今更オタオタすることはない。
しかし、今日の真希はいつもとは違っていた。


「いちーちゃんは?」
「!?」
「ねぇ、いちーちゃんは?」
真希は更に、つないだ手に力を込めた。
「・・・・何が?」
「ごとーのこと、好き?」
真希はいつになく真剣な目をしている。
「・・・・・・」
「好きだよね?」
「さぁ?」
「答えてよ!」
珍しく真希がいらだったような声を出した。
紗耶香は立ち止まって、ため息をついた。


「・・・・そんなことより、帰るぞ!」
「ヤダ!」
真希が道に座りこんだ。
「・・・・何やってんだ」
「いちーちゃんがちゃんと答えてくんないからだもん!」
ふくれて、甘ったれた声。

紗耶香は困ったように、あいている手で髪をかきあげながら、ぼそっと言った。
「・・・・好きだよ」
「!?」
「ほら、帰るぞ!これから一緒に怒られなきゃいけないんだからな!」
真希の手をひっぱって立ち上がらせた。
「う、うん」
真希は顔を赤く染めた。


・・・・その時、後藤の顔は真っ赤だった。
多分、あたしの顔も真っ赤だったに違いない。
ちょうど夕日が沈む直前で、あたりを明々と照らしていた。
あの後、二人して後藤のお母さんにこってり怒られたっけ。


・・・・あたしも後藤も気づいてなかった。
時間は残り少ないということを。



それから・・・・。

それから、後藤とあたしが、バカみたいにはしゃいでいた日々は、遠い昔になってしまった。




――― ―――

紗耶香は白いノロの衣装を身に着け、両手を胸の前で合わせ、瞼を閉じた。
精神を集中させて、『気』をよんでみる。
浮かぶのは、ベットの上でにこやかに寄り添う裕子と真里の姿。


よかった。
どうやら夜這いは成功したらしい。

島の中で、ウワサが流れるのはいつものことだ。
他愛のないウワサは放っておくにかぎる。
どうせ十日もすれば消えてなくなってしまうし、あれはあれで、島の重要な娯楽の
役割をはたしているのだから。

しかし、自分がからんだウワサとなると話が別だ。
『中澤裕子が矢口真里と市井紗耶香を天秤にかけている』なんてウワサが流れるに
いたっては、言語道断だ。
二人の仲を険悪にしたきっかけが自分だけに、珍しく自分から、二人の関係修復に
動いてしまった。


ウワサの発端になった、真里との接吻を思い出してみる。
あの時のあたしはどうにかしていた。
矢口が後藤の事を口にだすから・・・・。
・・・・いや、多分それだけじゃないだろう。
急に体が熱くなって、頭の芯がぼーっとした。
おそらく・・・・。
矢口が持っていた媚薬草のせいだ。
敏感な体質だと自分で自覚があったが、これほどとはね・・・・。

媚薬草は、煎じて飲まれるのが、一般的だ。
それが媚薬草の香りだけでやられるとはね・・・・。


あの時あたしは、確かに矢口が欲しかった。
欲しくて欲しくてたまらなかった。
だから、体が動いたんだ。
矢口を木に押しつけ、強引に唇を奪った。
矢口がずるずると崩れ落ちた時、はっと我にかえったんだ。

ゆーちゃんとの接吻だってそうだよ。
多分、診療所の中に媚薬草を置いてあったんだろう。
そうじゃなきゃ、誰が好き好んで自分の母親にそっくりの人間にキスするってんだ?


紗耶香は合わせていた手のひらを離すと、ぐるっと首を回した。
今まで必死に、自分を抑えてきたっていうのに・・・・。
たかが媚薬草ごときでこのありさまか・・・・。
自分で自分が情けなくなる。
紗耶香は口を歪め、自嘲的に笑った。


――― ―――


朝、裕子は真里と診療所にいた。

机に向かいクルクルと鉛筆を回しながら、裕子が口を開いた。
「・・・・仕事は・・行かんでいいんか?」
「・・海が・・荒れてるもん」
真里が曇り空を見ながら言った。
「そうか」
「うん」
真里は裕子を見て、にこっと笑った。

「・・みんな元気やな。今日も患者がいない〜。ゆーちゃん暇でしょうがないわ」
「うーん、いいこと・・かな?」
「・・・・そらそうやなぁ。って・・ここに名医がいるっちゅーねん!」
「アハハハ」
真里の明るい笑い声が診療室に広がった。


裕子が壁の時計を見て言った。
「そうや!もうすぐ、ごっちんが来るで」
「なんで?」
「なんでって、相談したいことがあんねん」
「相談?」
真里は目をぱちぱちさせた。

そこに、真希がやってきた。
目に見えて元気がない。
「どうしたの?ごっちん」
真里が声をかけた。
「・・・・何でもない」
弱々しい声。

裕子が口をひらく。
「ごっちん喜べや、儀式の概要を聞き出したで!!」
「ほ・・本当!!」
真希の目に光が戻ってきた。
「本当や。おばばから聞いたから、間違いないで!」

真里はぽか〜んとして、訳がわからないという顔をしている。
「・・ゆーちゃん、どういうこと?」
「ごっちんの手伝いしようと思ってな。・・紗耶香の誕生日の儀式ぶっ壊そう思うてんねん。・・今日はその計画を立てるんや!!・・・・な?ごっちん!!」
「うん!!」

真里は裕子の話を渋い顔で聞いている。
何か言いたげな顔だ。


裕子がおばばから聞いた儀式の概要は、ざっとこんなものだった。


『儀式当日は朝から無風状態となる。ノロの相手候補は島の広場に集められ、神聖
な舞が踊られる。夜になり十三夜の美しい月が山の山頂にかかったその時、海から
風が広場に向かって吹いてくる。そして《相手》に選ばれた人物のまわりを、その
海風がまわり、ノロの《相手》を教える』


「・・・・と、これがおばばから聞いた話しや。・・・・どう思う?・・うちは・・正直言ってな、科学的に説明できんことは信じられへん。・・・・どう考えてもおかしいやろ?単なる風に、運命たくすんかいな?・・・・おばばの話しが嘘だとは思わへん。けどな・・・・」
裕子は真希と真里の顔を見ながら、言った。

「・・・・ゆーちゃんは目に見えるものしか信じないの?」
黙って裕子の話しを聞いていた真里が、初めて口を開いた。
とげとげしい口調だ。

「・・・・矢口」
「・・・・・・」
「・・何言って・・」
「・・あたし・・・・違うと思う・・・・」

裕子は真里の言葉に唖然とした。
てっきり真里は協力してくれるものと思いこんでいた。

「な・・何でやねんっ」
「・・・・・・」

「・・ごっちんは?」
裕子を無視して、真里は真希に質問する。
「ごっちんも目に見えるものしか信じないの?」
「・・・・・・」
真希も真里の剣幕に驚いたのか、口をつぐんだ。


「・・・・あたし・・帰る・・」
真里は振り向きもせず、診療所のドアから消えた。


――― 


「・・・・ゆーちゃん・・」
呆然とする裕子に、おずおずと真希が話しかけた。

「ごっちん、・・・・大丈夫や!・・・・ゆーちゃんはごっちんの味方や!!」
「・・・・ゆーちゃん・・」
「・・・・作戦考えんといかんな・・・・」
「・・・・・・」

真希は泣きそうだ。
「ごっちん、大丈夫やて」
裕子は真希を抱き寄せて、言った。

「ゆーちゃん・・・・ごめんね。・・・・ありがとう・・」
抱きしめられて、くぐもった声。


何なんや・・・・。
やっと仲直りしたかと思ったら、またケンカかい・・。
いや・・・・ケンカやない。
一方的に矢口が怒っとる。
なんかまずいこと言ったかいな。
はぁ・・・・。
ゆーちゃん、どうしたらいいんやろ?


そんなことは、おくびにも出さず、
「海風を止めるか、人工的に風をつくるか、・・・・どっちかやな」
裕子は真希を抱きしめたまま言った。
そして真希の耳元で、大丈夫という言葉を繰り返し言う。


『大丈夫』・・・・か。
もしかして、自分に言い聞かせとる?
・・・・矢口・・・・。
・・うち、あんたがわからなくなったわ・・・・。


真希には裕子の暖かさがありがたかった。
泣きたいほど、ありがたかった。



12月26日 (八夜月)
儀式まで あと5日


――― ―――


真里はベットの中で、悶々としていた。
早く眠ってしまいたいという気持ちとは反対に、頭はどんどん冴えわたってくる。

昼間、真里は診療所で、一方的に裕子とケンカ別れをしてしまった。


どう考えても、あたしが悪いよな・・・・。
さっきからずっと同じことを考えている。
ゆーちゃんああ見えて、けっこう弱いから。
今ごろ泣いているかも。
あ〜ぁ、良心がズキズキ痛んできた。


真里はベットから起き上がると、寝間着の上からコートを羽織った。
両親を起こさないように、そっと家を抜けだし、急いで裕子の自宅へ向かった。
夜の風は、ひんやりとして、焦る心を静めてくれる。
通いなれた夜道をひたすら歩いた。


やがて、こじんまりとした裕子の自宅が見えてきた。
部屋の明かりはすでに消えている。
もう眠ってしまっているかもしれない。

真里は玄関前の植木鉢の中に手をつっこむと、合鍵を取り出した。
鍵穴に合鍵を入れ、静かに回した。
『カチッ』
小さな音と共に、ドアが開いた。

なるたけ音を出さないように気を付けながら、迷うことなく寝室に直行する。
ベットの布団がふくらんでいるのが見えた。
近づいて、手探りでサイドテーブルに置いてある電機スタンドの明かりをつけた。
暗闇が一瞬で明るくなる。


「・・ゆーちゃん」
「ん・・・・な、・・矢口・・」
裕子がまぶしそうに目をしばたたかせながら、上半身を起こした。

「・・ゆーちゃん」
「・・・・夜這いに来てくれたんか?」
いたずらっぽく笑う。

「ち、違うよっ」
「・・・・何や、さみしーなぁ・・・・」
「そ、そうじゃなくてっ」
焦ってうまく言葉が出てこない。
「ん?」
「ち、ちょっと話がしたくて」


裕子の顔が真剣なものに変わった。
「・・・・昼のことか?」
「・・・・うん」
「・・・・うちはなぁ、正直、矢口が何で怒ったのかわからんのや。・・・・あれから色々考えたんやけど、やっぱりわからん。
・・・・しょうもないな」
小さく笑ったように見えた。

「多分、うちが何かまずいこと言うたんやろうけどなぁ」
裕子は考え事をするように、俯いた。
「・・・・ゆーちゃんは悪くないよ」
「・・・・・・」
ゆっくりと裕子が顔を上げた。
真里の目をじっと見つめる。


「ゆーちゃんはお医者さんなんだから、目に見えるもの、科学的に証明できないものしか信じないのは当たり前なんだ。
・・・・あたしは、自分の価値観をゆーちゃんに押しつけてたんだよ。」
「・・・・矢口」
「あたしはさ、風にも意思かあるんじゃないかって思ったことが、何回もあったからさ。
・・・・ほら、あたしって漁師だから、急に海が荒れたりするとやばいじゃん?だから何となくわかるんだ。荒れる時は・・・・風が違うんだ。
・・・・風が教えてくれるんだよ。・・・・今まで何回も、それに助けられてるよ。この島の漁師はみんなそうだよ。
・・・・逆に言うと、風に愛されないと、漁師にはなれないんだ。」


わかってよ。
お願いだからわかってよ、ゆーちゃん。
あたしの気持ち・・・・。


「だから、ゆーちゃんが『単なる風に運命たくすんかいな』って言った時、すごく悲しかったんだ」

裕子の手が布団を握り締めていた真里の手に重ねられる。
「・・・・ゆーちゃん・・」
「・・・・何て言うか・・・・うちは・・・・ごっつぅ無神経なこと言ってたんやなぁ」
「ゆーちゃん」
「・・ごめんなぁ・・・・」
優しいアルトの声。


真里は首を振った。
「・・謝るのは、あたしの方だよ。・・・・紗耶香とごっちんのこと、誰よりも近くにいて見てきたのに。本当ならあたしが、ごっちんのこと助けてあげなきゃいけないのに・・・・」
「・・・・そやな・・」
重ねられた手をからめながら言った。

「あたし決めた。ごっちんのためにも、・・・・紗耶香のためにも、紗耶香の儀式ぶっこわすよっ」
真里が目をきらめかせながら言った。
「・・・・いいんか?」
「うん」
「ほんまか?」
「うんっ」
「・・・・ほんなら、明日から早速動かんと・・・・。時間は残り少ないんやから。・・・・ごっちんはえらい消沈してるし。・・・・ほんま前途多難やで」
裕子がぼやいた。


「じゃあ、入れてよ」
「へ?」
真里はコートを脱ぎ捨て、布団を捲り上げると、体を中に滑り込ませた。

裕子の体に抱きつき、顔をすりつける。
「ゆーちゃん、暖かい〜」
「矢口は冷えてるなぁ」
真里を抱きしめ返しながら囁いた。
「・・・・こうやってくっついてると、安心する」
「そうやな」


「・・・・ゆーちゃん、あたしから離れないでね」
裕子の胸に顔を押し当てながら言ったため、くぐもった声だ。
「当たり前やろ」
裕子は何をいまさら、という顔をしている。

「・・・・好き・・」
耳元で囁いた。
「・・うちも好きや・・で・・」
裕子の目は潤んでいる。

真里は両手で裕子の顔をはさみむと、顔を近づけていった。
二人の唇がゆっくりと重なった。



夜空は昼間の曇り空が嘘のように雲ひとつなく、ちょうど半分の八夜月が輝いていた。


12月26日 (八夜月)
儀式まで あと5日 〜夜と朝の間で〜


――― ―――


朝も早くから、裕子、真希、真里の三人は診療所に集まった。

椅子を三つ向かい合うように配置して、真剣な表情で話し合っていた。
「・・ゆーちゃん、どうしたらいいと思う?」
真希がすがるような目をしている。
「・・・・儀式の最中に海風が吹くと仮定してや!・・う〜ん・・・・風を止めるのは不可能やし・・・・風をつくるか・・・・」
「どうやって?」
「う・・・・」
裕子が軽く真里を睨んだ。
「・・・・考えてないんだね・・・・」
「・・だから、今考えてるんや!」
裕子は眉間にしわを寄せながら、うんうん唸っている。
真里は小さくため息をついた。


「・・・・島のはずれの灯台に、使われてない扇風機があったよね?」
沈黙を破る声。
「それや!でかしたで、ごっちん!!」
裕子が指をパチンと鳴らした。
「どうするの?」
「ちょこっと、貸してもらってな。儀式の最中に動かすんや。・・・・そうやなぁ、海風が吹いている時とタイミング合わせてな。みんな、ごっつ驚くで。」
胸を張って、真希と真里の顔を見渡した。
「同時に、何人もの人間に風が吹いたら、混乱するやろ?」

「・・・・でも、おばばの話では、《相手》のまわりを風が回るんでしょう?・・・・扇風機じゃ無理だよ。」
「う・・・・」
裕子が言葉に詰まる。
「・・・・回ったら?」
真希がぼそっと言った。
「はあ?」
言っている意味がわからなくて、聞き返した。
「だから、風を当てた時に、当たった人が回るの。そしたら、同じでしょう?」
「う〜ん。・・・・そうなのかな?」
「そうなの!」


そうか?・・・・大分、違うような気もするけど。
でも、ごっちんの必死な顔見たら、そんなこと言えなくなった。
そうだよね。
・・・・必死にならなきゃいけないんだ。
もう、時間もないんだから・・・・。


「ま、まあ、似たようなもんやろ。・・・・そんじゃ、扇風機を借りに行くで!」
裕子が勢いよく立ち上がった。
今にも出て行きそうな勢いだ。
「ま、待ってよ。昼間はまずいよ。・・・・目立っちゃうでしょう」
「・・・・せやな。・・・・夜になってから動くか・・・・。ごっちん、今晩大丈夫か?」
「うん。家、脱け出してくるから」
真希はじっと無機質な床を見つめていた。


ゆーちゃんとやぐっちゃんが協力してくれる。
それなのに・・・・・・あたしは急に不安になった。
一筋の光が見えてきたのに、どうして、こんなに不安なんだろう?


「・・ごっちん?」
「・・・・何?」
「あんまり考え込んだらアカンで。・・・・うちらがついているからな。」
裕子は大袈裟に胸をたたいてみせた。
「うん、わかってる。・・・・ゆーちゃんも、やぐっちゃんも・・ありがと」
少しぎこちなかったが、笑うことができた。
「礼をいうのはまだ早いよ。・・全てはこれからなんだから」
真里は照れくさそうに笑い、コーヒー入れるねと言って席を立ち、ポットに手を伸ばした。


やがて、コーヒーの香りが診療室の中に広がった。

「コーヒーそれは
夜のように黒く
恋のように悩ましく
くちづけのように芳しい香り
されどコーヒー
それはほろにがい人生の味わい」
裕子がコーヒーを一口飲んで、歌うように言った。

「何、それ?」
真里がおかしそうに聞いてきた。
「ん〜、昔な、そんな事言ってた人がおってな。・・・・そん時は何とも思わんかったけどな。まあ・・・・この歳になると、何かわかるような気がするわな」
「例えば?」
「ん〜・・・・」
裕子は言いよどんだ。
こういう時に、真里との歳の差を実感する。


「「・・こんにちは〜」」
診療室のドアが開き、見事にはもった声が響いた。
亜衣と希美だった。
「どうした?怪我でもしたんか?」
裕子は席を立って、二人に近づいた。

「あのぉ、あまやどりさせてください」
「雨宿り?」
「雨降ってないよ」
窓の外を見て、真里が首をかしげた。
「これから降るんや。・・見といてや」
「ん!?」
裕子は目を白黒させた。

やがて、亜衣と希美の言った通り、晴れていた空はあっという間に雨雲で覆われ、雨が降ってきた。


「あ・・・・雨」
真里が驚いたように目をしばたたかせた。
「な〜、言った通りやろ?まぁ、通り雨や。じきに晴れるで〜」
亜衣は自慢げにそう言うと、希美と顔を合わせてクスクス笑った。

「・・・・市井ちゃんと同じだ・・・・」
黙ってコーヒーを飲んでいた真希が呟いた。


そうだった。
紗耶香も昔、雨が降るタイミングをピタッと当ててたっけ。
・・・・ずいぶん昔のような気がするな。


真里は裕子に向かって頷いて見せた。
裕子はあんたら大したもんや、と言って亜衣と希美の頭を撫でた。

真希は再び黙りこんでコーヒーを飲みはじめた。

雨はしばらく降り続きそうだ。


12月27日 (九夜月)
儀式まで あと4日


――― ―――


深夜。
雨は通りすぎ、雲が立ちこめているものの、夜空には星がチラホラ見える。
裕子の提案通り、裕子、真希、真里、の三人は診療室で落ち合い、そろって島のはずれの灯台の向かった。
波の音が夜の闇の中で、やけに大きく聞こえた。
灯台の中は空洞になっていて、島の人達は物置代りに使っている。
巨大な扇風機も元々は島の集会場で使われていたが、あまりにも場所を取りすぎ不評であったため、今はこの灯台に収納されている。

海風にさらされ、錆びついた錠をこじ開ける。
「・・・・少々荒っぽいけど、まぁ、しょうがないわな」
裕子が苦笑した。

軋んだ音を立てて灯台の扉が開かれた。
中からかび臭い、よどんだ空気が流れてくる。
中に入ると、すぐ手前に扇風機が2台置かれてあるのが目に入った。
直径が約1.5メートルはあるかという代物だ。


「・・こんなに大きかったっけ?」
真里が扇風機の回りをグルグル回りながら呟いた。
「どこに隠しておく?」
真希は嬉しそうに言った。
「診療室の裏が無難やろうなぁ」
「すごい埃だけど、動くかなぁ?」
真里がプロペラについた埃を指でなぞった。
「・・・・それが問題やな・・・・」
「よっすぃ〜に頼んでみるよ」
「ん?」
「・・・・メカいじるの得意だからさ」
「そうなん?」
「うん」
「協力してくれるかな?」
真里が不安そうな声を出す。
「・・・・わかんないけど・・・・頼んでみる・・・・」
「そうやな・・・・」
裕子は真希の髪をワシワシとかきあげた。

真里がゴホンと咳払いをした。
「何や、矢口、妬いとるんか〜?この、可愛いやつ」
ニヤリと笑うと真里を引き寄せ、髪を乱暴にワシワシとかきあげる。
「何すんだよ〜。妬いてなんかないぞ!」
そう言いながらも真里は嬉しそうだ。


「これ運ぶの大変だよ〜」
扇風機の前で、真希が大袈裟にため息をついた。
「頑張りや〜」
「ゆーちゃんも一緒に運ぶの!」
「わかっとるがな」

三人は用意していた荷車に扇風機を積みこんだ。
荷車に入るか心配していたが、ギリギリで2台積むことができた。

舗装されてない夜道を、真希はひたすら荷車を引いて歩いた。
汗を流すのは気持ち良かった。
一人じゃないって、そう思えた。


「・・・・アカン・・ゆーちゃん、もう、死にそうや〜」
「ほら、ゆーちゃん、頑張って!・・あとでマッサージしてあげるからさ!」
「ん!?・・・・ほんまか?」
「うん」
「やった〜、愛のマッサージや!おーし、めっちゃやる気でてきたで!!」
後ろで荷車を押している二人の会話が聞こえてきた。

真希は小さく笑った。


市井ちゃん、覚悟しておいてね?
あたし、あきらめが悪いんだ。


雲は消えて、いつのまにか月が顔を出していた。
月明かりの中、三人は歩きつづけた。


12月27日 (九夜月)
儀式まで あと4日 〜夜と朝との間で〜


――― ―――


診療所を閉めるわけにはイカン、急患が来たらどうするねん、という裕子の主張を採用して、巨大扇風機の整備は診療所裏の屋根付き広場ですることとなった。
診療所のドアの外側には『ただいま忙しいので、急患の方は大声でどなってください』と書かれた札がさげられた。

灯台から拝借してきた扇風機は、長年使ってないおかげで、埃とさびがひどかった。
コンセントに差し込んで動かしてみても、ギシギシとひどい音がした。
「うわぁぁぁ〜すごい音だぁ〜」
「・・・・ごっちんの方がうるさいよ」
真里の声は双方の音にかき消さた。


「うるさくてかなわんなぁ。・・・・こいつは一回解体して、さびと埃を落としてから、油をささんとイカンなぁ」
裕子がため息をついた。
「大丈夫ですよ。あたしこういうの得意ですから」
ひとみがニッと笑った。
「得意て、何かやったんか?」
「よっすい〜はバイクなんか自分でパーツ集めて作ったりしてるよね?」
梨華がニコニコ笑った。
「うん」
「・・・・自分、まだ免許取れる歳やないやろ?」
「え・・・・だから、作っただけですって・・・・別に乗り回したりしてませんよ」
「・・・・気いつけえー、ここに担ぎ込まれてくるなや・・・・」
裕子がギロッと睨んだ
「・・・・はい・・」
小さな返事が聞こえた。


それから作業が分担された。
ひとみは扇風機のモーター整備。
真里と梨華はプロペラのさび落とし。
裕子と真希はプロペラの防護網のさび落とし。
埃とさびが一緒に付着しているため、作業はなかなか思うように進まなかった。
赤いさびに付いた埃をヤスリで少しずつ削り落としていく。
単調な作業だ。

「気晴らしに、誰か、何か話してくれんか?」
裕子が背伸びをして、首をグルグルと回した。
「何でも良いんですか?」
「ええよ」
「あたし、中澤先生に質問があります」
「ん?何や?」

「中澤先生って、同性愛者なんですか?」

『ピキッ』
空気が凍る音が聞こえた。


・・・・さすがだよ、梨華ちゃん
よっすい〜もごっちんも固まってるし。
裕子なんかガチガチだぜ。
・・・・あたしも凍ってしまいたい。


どれぐらいの時間がながれただろうか。

「・・・・まぁ、今の恋人は矢口なんやし、同性愛者ちゅうたら、同性愛者なんやろうなぁ」
裕子は静かに答えた。
真里、真希、ひとみの三人は作業を続けてはいるものの、意識は完全に、裕子と梨華の会話に集中していた。
「今までの恋人はどっちだったんです?」
「んー・・・・男やったけど?」
「どう違います?」
「どう違うて・・・・それは人それぞれやろ・・・・急にどないしたんや?」
裕子は小さく笑い、髪をかきあげた。
「この島には同性のカップルが多いでしょう?・・・・あたしこの島に生まれて育ったから、男と女、男同士、女同士の恋人達がいて、それが当たり前みたいに思っているけど、他の所ではどうなのかなぁと思って・・・・」
裕子は眉間にしわを寄せた。
「・・・・どうなんやろうなぁ。うちもこの島以外で同性カップル見たことないからなぁ。・・・・でも、偏見とかあるんちゃうかなぁ。・・・・この島に移住してくるカップルも多いしな」
「矢口さんと付き合ってからはどうでしたか?」
「・・・・んー・・・・正直、ビックリしたわ。・・・・自分が、本気で、女性を好きになるて想像したこともなかったからな」
「ゆーちゃんっ」
真里が声をあげる。
「自分が信じられんかった。やっぱり・・・・心のどこかで、アカンことやって思ってたからな。でも、今は、違うで。この島に住めて幸せや。空気はうまいし、海もきれいや。何より、可愛い恋人が傍におる。・・・・これ以上は望めんやろ?」
裕子は真里に向かってウインクしてみせた。
真里の顔が赤く染まった。


「でも、何でそんなこと聞くんや、・・・・さては好きな人でもできたんか」
裕子の顔にニヤニヤ笑いがはりついた。
「誰かを好きになったら、遠慮したらアカンで。矢口が良い例や。・・・・力ずくでうちをモノにしよった」
「ゆーちゃん!」
真里が持っていたヤスリでプロペラをガンガン叩いて、警戒音を出した。
「本当のことやろ?」
慌てている真里を見て、裕子はクスクス笑った。


「・・・・格好悪くてもいいんや。・・・・心で訴えるんや・・・・どうか愛して欲しいってな。・・・・これがまた簡単なようで難しいんやけどな」
裕子がぐるりと皆を見渡した。
その後、真希と目を合わせるとにっこり笑った。
「ゆーちゃん・・・・」
真希の顔も笑顔に変わった。

「さて、お喋りは終わりや。お仕事、お仕事」
裕子はヤスリ持つと、再び作業を開始した。


―――


夕方。
1台目の作業が終わり、2台目に突入したところで、日が暮れてきた。
今日の作業はこれで終了して、続きは明日にしようということになった。

「おつかれさん。・・・・気いつけて帰り。・・・・明日もよろしくな」
「梨華ちゃん、よっすい〜、ほんとにありがとう」
「また、明日ね」
裕子、真希、真里の三人はひとみと梨華を見送った。

椅子に腰掛け、体をぐったりと投げ出した。
「はぁ〜、ハードな1日やった〜」
「うん」
「でも、大分進んだよね」
「うん」
「明日で終わるやろ。皆コツをつかんできたみたいやしな」
「うん」
「・・・・ごっちん、具合でも悪いの?・・・・さっきから『うん』しか言ってないよ」
真里が首をかしげた。
「ごっちん?どないした?・・・・お姐さんに見せてみ?」
裕子は真希の体に触れた。
ビクッと真希の体が反応した。


「・・・・違うよ。・・・・具合は悪くないよ。・・逆なんだ。嬉しくって。・・・・よっすい〜も、梨華ちゃんも、やぐっちゃんも協力してくれて。・・・・ゆーちゃんなんか自分のことみたいに心配してくれて、だから、あたし、嬉しくて。・・・・」
「・・ごっちん」
「・・・・ごっちん」
「ありがとう」
真希は椅子から立ちあがると、ゆっくりと二人に頭を下げた。

「ねぇ、ゆーちゃん、今だけでいいから、ぎゅうって抱きしめてくれない?・・・・震えが止まらないんだ。・・・・おかしいね。・・・・嬉しいはずなのに・・・・」
見ると、真希の体が小刻みに震えている。
裕子は急いで真希を抱きしめた。
以前抱きしめた時より、大分細くなっている。
「ごっちん、あんた、ちゃんと食べてるか?」
「・・・・あんまり、食欲ないんだ・・・・」
「寝てるか?」
「・・・・あんまり・・・・」


「このアホっ。儀式ぶっ壊す前に、あんたが倒れたら話しにならんやろっ。矢口、急いでおかゆ作ってな。・・・・ごっちん、あんたは緊急入院や!」
裕子は真希を抱きかかえると、ベットに寝かしつけた。


真希は真里の持ってきたおかゆを口にふくんだ。
「・・・・おいしい?」
「うん」
「よかった」
真里が笑った。
「ゆーちゃんは?」
「怒ってる。あっ、ごっちんの事、怒ってるわけじゃないよ。・・・・ごっちんの事、気がつかなかった自分に怒ってるみたい」
「・・・・ゆーちゃんのせいじゃないよ」
「・・そうは言っても、ああいう人だから・・・・」
真里は苦笑した。


「ともかく、そのおかゆ、全部食べて、ぐっすり寝なさい。・・・・明日も忙しいんだからね。ごっちんの家には連絡しておいたから。」
「ん、ありがとう」
「・・・・あたしとゆーちゃんは隣のベットで寝ているから何かあったら遠慮なく起こしてね」
真里は診療室とベットとをしきるカーテンを閉めながら、真希にウインクした。


・・・・その夜
あたしは久しぶりにぐっすり眠ることができた。
よく覚えてないけど、優しい夢を見れた気がする。


――― 


真希が寝たのを確認すると、真里は裏口から外へ出た。
案の定、裕子が庭石に座りこんで、タバコを吹かしていた。
ずっと吸いっぱなしだったのだろう、灰皿には山のように吸殻がつっこまれていた。

「ゆーちゃん」
「・・・・ごっちんは?」
「寝てる」
「・・そうか」
頷きながら、新しいタバコに火をつけた。
「・・・・吸いすぎは良くないよ。わかってるんでしょう?」
「ヤブ医者でも、そんくらい、わかってるわ」
「ゆーちゃん」
「・・・・スマン」
裕子はタバコを灰皿に捻りこむと、ガリガリと頭をかきむしった。


「・・・・ごっちんは、色々サイン出しとった・・・・でも、うちは気づいてやれんかった。・・・・医者失格や・・・・」
「そんなことない。色々やってるじゃん!」
「・・・・・・」
「大丈夫、きっと、うまくいくよ」
後ろから腕を回して、裕子を抱きしめた。
汗とタバコの匂いがする。

「なぁ、この計画うまいこといくと思うか?」
「・・・・何で、そんな事、聞くの?」
「なんや、不安になってな」
「・・・・・・」
「穴だらけの計画なのはよくわかってるんや。・・・・ただ、何かせんと、ごっちんが壊れてしまうかもしれんて思ったからな・・・・」
「・・・・・・」


あたしは裕子の顔を引っつかむと、後ろから強引に唇を塞いだ。
このままだと、どんな事を聞かされるかわかったもんじゃない。


「・・んっ・・」
はじめは抵抗した裕子も、真里が舌をこじ入れるとおとなしくキスを受け入れた。
唇が離れると、裕子はもう大丈夫やと、照れたように言った。


12月28日 (十夜月)
儀式まで あと3日


――― ―――


・・・・これは夢だ。
変わることのない、過去の夢だ。
繰り返し、繰り返し、あたしを苛む夢。
この夢を見るたびに、あたしは、心をえぐられるような痛みを覚える。


―――


中国、福建省の姉妹都市に母さんが出発する日の朝。


「紗耶香、あんたって本当、父さんにそっくりよね」
あたしの顔をまじまじと見つめて、かあさんがポツリと言った。


「・・・・何だよ、急に」
「いや〜、男前になったなぁと思ってさ」
いたずらっぽく笑った。
「・・・・それって、誉めてんの?」
「・・・・あたしみたいに、美人の嫁サンをもらえるよ」
「結構です!」
「チェ、それが母親に対する態度かね?」
不満そうに、ふんと鼻をならした。

「そんなことより、さっさと行けよ!みんな待ってるんだろ?」
「はいはい、わかってますよ」
パタパタと手を振り、一度は玄関に向かったものの、くるりときびすを返し、ぎゅうっと紗耶香を抱きしめた。
「・・・・暑いんだから、離せよっ」
「つれないなぁ。・・・・こんな子に育てた覚えはないのに・・・・」
大袈裟にため息をついた。


・・・・・・違う。
違うよ、母さん。
本当は嬉しかったんだ。
ぎゅうって抱きしめられて、本当は、嬉しかったんだよ・・・・。


懲りずに、抱きしめたまま、言葉を続けた。
「いい?ゴミはちゃんとまとめて、それから洗濯物はためたりしないで毎日ちゃんと洗ってよ。ご飯は・・・・」
これ以上黙っていると、まだまだ続きそうなので、急いで口を挟んだ。
「わかってるって。自分の娘を信じなさい?」
「それができれば、世の中もっと平和だと思うわ・・・・」
「・・・・・・」


・・・・ああ言えばこう言う。
まったく、あの人は・・・・。
懐かしいな。
いつも、こんな風に、やりあってたっけ・・・・。


「・・・・じゃあ、あんまり待たせるわけにはいかないもんね。・・・・じゃあ、行ってくる。いい子にしてるんだぞ!」
名残惜しそうに体を離すと、紗耶香の髪をワシワシとかきあげた。
「・・っ何すんだよっ。せっかくセットしたのに」
「たいして変わらないから、安心しなさい」
愉快そうに高笑いをした。


・・・・・・駄目だ。駄目だっ。
あたしは、この後、自分が言った言葉を覚えている。
・・・・・・駄目だ。言っちゃあ駄目だ。

止めないと。
母さんを、止めないと。
母さん、中国に行っちゃ駄目だっ。
『長江』が洪水を起こすんだ。
お願いだから、あたしをひとりにしないで。
必死で叫ぶ。
だけど、無常にも、夢の中のあたしは、過去を繰り返す。


「・・っ・・さっさと行けよっ!」
・・・・これが、母さんに言った、最後の言葉。


「はいはい、行ってきま〜す」
・・・・これが、母さんがあたしに言った、最後の言葉。
それから、二度と母さんが帰ってくることはなかった。


――― 


「・・・・っ駄目だ〜っ・・・・」
叫んだ自分の声で目を覚ました。
がばっと身を起こすと、ハアハアと肩で息をする。
髪が額にはりつき、熱を持った体が気持ち悪かった。
額ににじんだ脂汗を手のひらで拭った。


変わることのない、過去の夢。
繰り返し、繰り返し、あたしを苛む夢。
この夢を見るたびに、あたしは、心をえぐられるような痛みを覚える。


紗耶香はにじんだ瞳で、窓の外を見た。
夜空には、無常の月が白く光っていた。


12月28日 (十夜月)
儀式まで あと3日 〜夜と朝との間で〜


――― ―――


ニ日目に入ると、作業のコツをつかんでくる。
昨日の残りの作業を黙々とこなした。
そのかいあって午前中には作業を終わらせることができ、扇風機もだいぶ静かに動くようになった。


裕子が真希の額に触れ、平熱であることを確認した。
「ごっちん、無理したらアカンよ。矢口、ごっちんの事頼んだで〜。・・・・ほらっ行くで」
裕子は、えーと不満の声をあげるひとみと梨華を引きつれて、発電機を借りるため、おばばの家に出かけた。

発電機を乗っけるための荷車を引いているのはひとみだ。
じゃんけんに負けたのだ。
その後ろを、鼻歌交じりの裕子と梨華がついてゆく。
ひとみはカラの荷車を引きながら、帰りの重量の増え具合を想像して、小さなため息をこっそりついた。


一方、真希と真里は扇風機の設置場所の選定のため、儀式が行われる広場へとやってきた。
広場は山と島の村落との境目に位置する。

昼の日差しは、心地よく、体をあたためてくれる。
真希はまぶしそうに空を見上げた。

「家の方だと目立っちゃうからさ、木の影になるように置かないとね。・・・・あと、ゆーちゃんとあたしにうまく風が当たるように計算しないと・・・・」
真里は木々の合間をぬうように歩きながら、ぶつぶつ呟いている。
真希と二人、ああでもない、こうでもないと議論しながら歩いた。

広場の端に、黒木の大木があった。
いい具合に2本並んでいる。
見事に枝を四方に広げ、互いに、人の侵入を拒んでいるかのようだ。
これなら、うまく、2台の扇風機を隠す事ができるかもしれない。

「ごっちん、これならいいんじゃない?」
真里は木の枝をパンパン叩いた。
「うん」
「葉っぱとかでカモフラージュしたら、わからないよ」
「うん、・・・・うまくいくかなぁ?」
不安そうな声。


・・・・ったく、昨夜の裕子と同じ事言ってるよ。
しょうがないなぁ。


「当ったり前じゃん!そんな弱気でどうすんだよ!」
わざと怒ってみせた。
「・・・・そうだよね」
「そうだよ」
真里は真希の肩をポンポンとたたいた。


真里と真希はそれぞれ木の根元に腰をおろした。
日は西に傾き、木々が影を作り出している。
二人はぼーっとそれを眺めた。
「・・・・静かだね。・・・・あと2日で儀式なんて、信じられないよ。ま、明日には前夜祭で、ここも騒がしくなるんだろうけど」
真里は足元の雑草を引きぬいた。
「・・・・あと2日か・・・・」
真希が呟いた。
言葉の意味を反芻しているようだ。
俯いてじっと考えこんでいる。

「今夜中に、扇風機設置しに来ないとね。・・・・明日になったら、ごっちん達は入れなくなっちゃうよ」
「・・・・何で、前夜祭にも参加しちゃいけないのかな?」
かすれた声。
泣いているのかもしれない。
「・・あたしにも、わからないケドさ・・」
真里は雑草を引きちぎった。
手の中で半分にちぎれた葉っぱを見つめた。


「・・・・やぐっちゃんは、ゆーちゃんの昔の恋人の事、気にならないの?」
真希に話しかけられて、我に返った。
「ん?・・・・昨日の話?」
「・・・・うん」
相変わらず真希は俯いたままだ。

「気にならないって言ったら、嘘になるけど。・・・・しょうがないじゃん?・・だって、あの歳まで恋人がいなかったんじゃあ、それはそれで問題あるでしょう?」
「・・・・うん・・・・」

深呼吸をした。
「それに・・・・あたしは・・ゆーちゃんの最初の恋人にはなれなかったけど、・・・・えーっと・・・・その・・・・永遠の恋人にはきっとなれるって、信じてるから・・さ・・」
言っているそばから、顔がだんだん赤くなっていくのがわかった。

「やぐっちゃん、強いね」
「そう思わないと、やってられないじゃん?」
「・・・・ゆーちゃんは、やぐっちゃんにベタボレだと思うけど・・・・」
真希は顔を上げ、赤い目で真里に笑いかけた。
そう見える?と真里はやわらかく笑った。


「・・・・やぐっちゃん?」
「ん?」
「ちょっと、眠ってもいい?」
返事も聞かず、ゴロッと真里の膝の上に頭を置いた。
「ちょ・・ごっちん!?」
すぐにスースーという、真希の寝息が聞こえてきた。

「・・・・お子様なんだから・・・・」
髪を手で梳いてやる。
さらさらとやわらかい髪。

「・・・・市井ちゃん・・・・」
かすかな声が聞こえた。

真希の頭を優しく抱きかかえた。
痩せこけた頬に触れてみる。
「寝言か・・・・痩せたね、ごっちん。・・・・紗耶香も、素直じゃないからなぁ。・・・・まったく、何考えてるんだか・・・・」


しばらくこうしていてあげよう。
今夜もきっと忙しいから。
だから・・・・
どうかお願いします。
計画がうまくいきますように。
この子が笑っていられますように。

あたしは、祈らずにはいられなかった。


12月29日 (十一夜月)
儀式まで あと2日


――― ―――


「・・・・まったく、参ったでぇ。・・・・おばばの家に行ったら、紗耶香がいるんやもん。・・・・いや〜、焦ったわ」
裕子が額の汗を拭く真似をした。
「ばれたんじゃないでしょうね」
真里がジロッと睨んだ。
「当たり前や。ちゃんと、忘年会に使うてごまかしたわ」
裕子が胸をはった。
「・・・・不自然じゃなかった?」
真里は傍で小さくなっているひとみに質問した。
「・・・・大丈夫だと思いますよ。ねぇ、梨華ちゃん」
「市井さん、おばばと『儀式』の打ち合わせで忙しそうでしたから」
梨華が頷いた。
「・・・・なら、いいけどさ・・・・」


まったく・・・・なんでこうタイミングが悪いんだ。
不安材料は少ない方がいいってのに・・・・。
紗耶香、昔から勘がするどいからなぁ。
う〜・・・・。


真里がしぶい顔をして、唸っていると、真希がトタトタやってきた。
「やぐっちゃん?」
「ん?」
「何、唸ってるの?」
「・・・・何でもない」
「そ?」
「うん」
「・・・・あのね、昼間はありがとね。」
「ん?」
「膝枕してくれたでしょう?」
「あ〜」
真里が頷く。
「・・・・市井ちゃんの夢・・・・久しぶりに・・見れた・・から」
真希は赤くなって俯いた。


あたしは急にごっちんのことが愛しくなって、気がついたら力いっぱい抱きしめていた。
やぐっちゃん苦しいよと言うごっちんの声は無視した。
あんたに今必要なのは、こういうぬくもりだから。
あたしができるのは、これぐらいだから。


――― 


『儀式ぶっこわし大作戦』の概要はざっとこんなものだった。
前夜祭が始まってしまうと、人目につかず広場に入ることはほとんど不可能になってしまうため、扇風機の設置は前夜祭の直前、つまり、今夜行う事となる。
『儀式』当日は、『儀式』への参加資格を持つ裕子と真里が、あらかじめ設置した扇風機の前に立ち、物陰に潜んでいた真希達が、海風が吹いてくるタイミングに合わせて扇風機のスイッチを入れるという、実にシンプルなものであった。
うまくいけば、海風が選んだ人物と、扇風機の風が当たった裕子と真里という、三人の《相手》が存在する事となる。
もちろん、他の人達は裕子と真里に当たった風が扇風機の風だとは夢にも思わないだろうから、現場は混乱するだろう。ひいては『儀式』の正当性が問われることになるかもしれない。いずれにしろ『儀式』が中止になることは否めないだろう。


深夜。
月明かりの中、2台の荷車が広場をめざして進んでいた。
1台目は真希が引いており、荷台には2台の扇風機が積みこまれ、後ろから裕子と真里が押していた。
2台目はひとみが引いており、荷台には発電機が積みこまれ、後ろから梨華が押していた。
真冬にもかかわらず、玉のような汗がしたたり落ちてくる。
真希にはそれがとても心地よかった。

広場に着くと、早速、昼間目につけておいたポイントに扇風機を運び込んだ。
並んだ二本の木に、それぞれ一台ずつ扇風機を設置した。
丁寧に木葉などでカモフラージュする。
一見すると、まずはわからないだろう。

「何や、思ったよりいい具合やんか」
裕子が満足げに頷いた。
「うん、これならいけそうですね」
「ねえ、動かして、ためしてみようよ!」
「よっすぃ〜、動かして〜」
はしゃいだ声をあげていると、


『パキッ』
背後で木葉を踏みつける音が聞こえた。

「・・・・市井ちゃん・・」
真希の涙声。


恐る恐る振り返ると、そこには、真希と紗耶香が見つめ合っていた。
紗耶香の白い衣装は夜の闇の中で白く浮き上がり、幻想的な美しさをかもし出していた。


「「紗耶香!」」
裕子と真里が同時に叫んだ。
ひとみと梨華は驚きのあまり、声も出ない様子だ。

「・・・・こんなところで、何、してるの?」
穏やかな瞳。
静かな声。

「・・・・すごいね、こんなの準備してたんだ」
ぐるりと視線を巡らした。
答えられずに俯く真希に近づくと、頬に手を当て、視線を自分に向けさせた。
真希の瞳から涙がこぼれた。
紗耶香の手に涙が伝う。


「・・・・市井ちゃん」
「後藤・・痩せたね」
依然、頬に手を当てたままだ。
「・・・・いち・・ちゃん・・・・あた、あたしね・・・・」
「ん?」
「あたし、市井ちゃんが好きなの」
「うん」
「本当に好きなの!」
「うん、わかってるよ」
「・・・・だ・・だから・・・・いち・・いちゃんの・・ぎしき・・こわそうと・・・・」
「うん、それもわかってるよ」
紗耶香は優しく笑って、頷いた。

「・・・・市井ちゃん」
「・・・・でも、あたしは・・ノロ・・だからさ、自分の責任を放棄するわけには・・いかないよ。・・・・あたしの言いたい事わかるよね?」
紗耶香はすこし俯いて考えている風だったが、やがて言葉を選びながら話しはじめた。


「っ・・わかんないっ!・・わかんないよ!」
真希が激しく首を振って、頬に当てられた紗耶香の手を拒絶した。
「・・・・後藤」
紗耶香は拒絶された手を見つめ、再び真希に触れようと手を伸ばしかけたものの、その手は途中で力を失い、だらーっと両腕を力なくたらした。

「市井ちゃんが他の人と一夜をすごすなんて、考えるだけでもヤダ。そんなことしたら、市井ちゃんじゃなくなっちゃうもん!」
真希が声を張り上げる。
「・・・・儀式が終わっても、あたしは、あたしだよ」
「違うもん!!」
真希は体を小刻みに震わせ、涙を流しながら、紗耶香を睨みつけた。


「・・ノロは本来、世襲制ってわけじゃないんだ。ただ、素質が遺伝する確率が高いだけで。
おばばのまごの亜衣や希美だって、ノロになる素質は持っているんだ。・・・・あたしは、たまたま、ノロの家に生まれたからノロになったわけじゃない。・・・・自分の意思でノロになるって決めたんだ。・・・・だから・・・・だから、嫌だからって、尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかないよ」
紗耶香は真希の視線を避けるように俯いた。

真希はとうとう声をあげて泣き出してしまった。
引き裂かれるような痛みを伴う声。

「・・後藤・・泣かないで・・・・」
紗耶香の顔がつらそうに歪んだ。
しかし、決して真希に触れようとしない。
紗耶香はじっと立ちつくしている。


事の成り行きを固唾を飲んで見守っていた裕子が動いた。
紗耶香と真希、二人の間に入ると、真希を抱きしめた。
「・・・・もう、ええわ。・・・・あんたみたいなわからずやには、ごっちんみたいないい子はもったいないわっ」
「・・・・ゆーちゃん」
紗耶香がほっとしたような顔を見せた。
裕子は無言で紗耶香を睨みつけた。



おやすみ、そう言って帰ろうとする紗耶香の背中に、堪らず、真里が声をかけた。
「紗耶香っ」
「・・・・何?」
紗耶香は振り向きもしない。
心なしか震えている背中に問いかける。
「本当に・・・・これでいいの?」
「・・・・・・」
「答えてよ!」
「・・・・やぐっちゃん・・・・後藤を・・頼んだよ」
震える声を残して、紗耶香は夜の闇に消えた。


12月29日 (十一月夜)
儀式まで あと2日


――― ―――


「・・・・吉澤も石川も、ありがとな。」
「いえ・・・・ごっちんのためですから」
ひとみが首を横に振った。
「でも、もったいないですよね。せっかくきれいにカモフラージュできてたのに」
梨華が残念そうに呟いた。
「せやな。・・・・疲れたやろ?・・・・もう帰って、ゆっくり休んでな」

「・・・・ごっちんの様子は、どうです?」
「安定剤飲ませて、今は寝とる」
「・・・・どうなるんでしょう?」
「さあな・・・・どうなるんやろ・・・・」
誰にもわからんよ、と裕子は力なく言った。

昨夜、あれからひとみと梨華は、真希を落ち着かせるため診療室でつきっきりになっている裕子と真里に代わって、2台の扇風機と発電機を片付けていたのだ。


――― 


裕子と真里はベットの傍の椅子に腰掛け、真希の様子を見つめた。
寝ている真希は幸せそうに見えた。

「ゆーちゃん、前夜祭行った方いいよ」
真里がポツリと呟いた。
「・・・・あんなもん・・・・」
裕子が吐きすてるように言った。
「気持ちはわかるけど・・・・一応、ゆーちゃんはお医者さんで、島の名士って事になってるんだから、顔出さないとまずいんじゃない?」
真里は真希に当てていた視線を、裕子に向けた。
「・・・・一応は、余計や」
裕子が苦笑した。
「しゃあない。・・・・気は進まんけど、顔出してくるか・・・・」

裕子は立ちあがると、シャワー室に消えた。

「ごっちんの事、頼んだで。・・・・絶対、目はなしたらえアカンよ」
真里の肩に手を置き、念をおした。
「わかってる。・・・・ゆーちゃん、心配しないで。あたし、ちゃんとごっちんのこと看てるから」
真里がコクコクと頷いた。


――― 


広場に到着すると、そこはもう祭り一色だった。
色とりどりの飾りが立ち並び、にぎやかな音楽が流れている。
広場の真ん中には舞台が設置されていた。
おそらく明日は紗耶香があの舞台にあがるのだろう。
こんな祭りなんか潰れてしまうがいい。裕子は心の中で呪詛のように呟いた。

「あ〜、ゆーちゃんだ〜」
「そんな嫌な顔しないの!」
「そうだべ。せっかくのお祭りだべ」
圭織、圭、なつみの三人につかまった。
「・・・・悪いけどな、あんたらの相手するほどの元気はないねん」
弱々しく抵抗を試みる。


「まあまあ、圭織がいいこと教えてあげるから」
「いいこと?」
「皆がゆーちゃんの事、何て言ってるか、知りたくない?」
圭が大きな目を見開いて、裕子の顔をのぞきこんだ。
「・・・・何て言ってるんや」

「ゆーちゃんと、先代のノロ、つまり紗耶香の母親がそっくりなのは知っているよね?」
裕子が頷いた。
「紗耶香は彼女の父親にうりふたつだべ」
「つまり、ゆーちゃんと紗耶香は、ちょうど二十年前の『儀式』の主人公達にそっくりってこと!」
「面白いでしょ?」
「何も、面白くないわっ!」
かっとして、怒鳴ってしまった。
「怒んなくてもいいじゃん」
圭織の拗ねた声。
そうだよ、つまんないのという声が聞こえる。


こいつらの、悪気のない無神経さに腹が立つ。
いや・・・・一番腹が立つのは、自分自身や。
結局、うちは、何も、できんかった。


ぐっと腹の底から、怒りがわいてきた。
しかし、この怒りを何にぶつけていいものか、うちにはわからなかった。


――― 


「せんせい、だいぶ、おつかれのようだね。」

話しかけられてはっと我に返った。
ずいぶん長い間考えこんでいたようだ。
すでに三人娘の姿はなかった。
裕子の隣には、いつのまにかおばばが座っていた。

「・・・・おばば」
「どうなさった?」
「・・・・この、お祭り騒ぎは何なんですか?」
「きょうだけじゃよ。・・・・あしたは、しんせいな、ぎしきだからな。・・・・こんなにはさわがんよ」
おばばが自分の隣の椅子をたたいて、裕子を促した。
裕子はおとなしく、おばばの隣に腰をおろした。


・・・・うちは、緊張したり、敬語を使う時は、標準語になるんや!
この際、おばばに一言、言っとかんと気がすまんわ。


「おばば・・聞きたい事があります」
「なんね」
緊張した面持ちの裕子とは対照的に、おばばは穏やかな視線を裕子に向けた。
「この『儀式』に何の意味があるんです?」
「ふぉふぉふぉふぉ」
おばばが笑った。

「・・・・こんな、何の意味もない・・・・」
「なぜ、そう、おもいなさるのかね?」
「紗耶香が、好きでもない人と一夜を過ごすことを考えると、胸が痛むからです」
裕子はぎゅうっと拳を握り締めた。
「・・・・・・」

「こんな・・・・非科学的な事」
「せんせいは、めにみえるものしか、しんじないのかね?」
静かな声。
何故か裕子は、自分がおばばに試されているかもしれないと、ぼんやり思った。

「っそれは・・・・」
「うちのまごたちの、あめがふるのをあてる、のうりょくはどうかね?・・・・あれも、しんじられないのかね?」
「それとこれとは、話しが違います」
握った拳の内側が汗で濡れてきた。


「もとは、おなじことだよ」
「『儀式』によって、紗耶香が幸せになれるとは思えません。・・・・それにこの『儀式』には致命的な欠点があります。」
「なんね」
おばばが目をしばたたいた。
「ノロの想い人が十七歳以上ならば、確かに、風がノロの想い人を選ぶかもしれません。しかし、想い人が十七歳未満の場合はどうなるんです?・・・・歴代のノロ達の想い人が、そろいもそろってノロより年上だったなんて、そんなベタないい訳しないでくださいよ」
裕子が挑戦的におばばを睨みつけた。

「・・・・かぜは、みちびくだけ。あとは、ひとがなすことよ」
おばばはそう答えると、口をつぐんだ。


12月30日 (十ニ夜月)
儀式まで あと1日 〜前夜祭〜


――― ―――


これは夢だ。
もう、戻る事はない、遠い昔の。

・・・・だって、あいつが、笑っているんだもの。
あいつがあたしに笑いかけることは、もうないだろう。
あたしが、泣かせてしまった。
あたしが、泣かせてしまった。
ごめん。
ごめん、後藤。


――― 

『いちーちゃんっ』
あいつが抱きついてきた。
『うわっ、抱きつくなって。・・・・暑いだろうが!』
嬉しいくせに、迷惑なふりをした。
『いいじゃん。・・・・いちーちゃん、汗くさい』
『後藤だってそうじゃんか』
『でも、いいもん!・・・・あっ、あのねっ、・・・・この花かんむり、ごとーが、いちーちゃんのために作ったの〜』
体を離すと、いびつな形の花のかんむりを差し出した。
あいつが炎天下の中、一生懸命花を摘んでいるのが目に浮かんだ。
『・・・・サンキュー』
とたんに照れくさくなった。
あいつの真っ直ぐな瞳がまぶしくなって、目をそらしたまま、受け取った。
手を伸ばし、髪をワシワシかきあげると、あいつは本当に嬉しそうな顔をしたんだ。


・・・・昔の、話だ。


――― 

『いちーちゃんは?』
海で遊んだ帰り道、あいつが突然尋ねてきたんだ。
『ねぇ、いちーちゃんは?』
つないだ手に力を込めて、尚も聞いてきた。
『何が?』
わざとはぐらかした。
『ごとーのこと、好き?』
今度は、直球勝負できた。
あたしはまだ、勝負するか迷っていた。

『好きだよね?』
たたみかけてきた。
『さぁ?』
往生際の悪いあたしは、まだ、逃げようと考えていた。
『答えてよ!』
あいつにしては珍しく、いらだったような声を出した。
『・・・・そんなことより、帰るぞ!』
『ヤダ!』
あいつは、道に座りこんでしまった。
腕をひっぱっても、てこでも動こうとしない。
『・・・・何やってんだ』
『いちーちゃんがちゃんと答えてくんないからだもん!』
プーっと頬をふくらませ、甘ったれた声をだした。


もう、逃げられそうもない。
観念したあたしは、あいているほうの手で髪をかきあげて、気を静めた。
『好きだよ』
優しく言うつもりだったのに、結果的には、そっけなく響いてしまった。

でも、それを聞いたあいつの顔を見たら、そんなのどうでもよくなってしまったんだ。
夕日とあいまって、真っ赤になったあいつの顔は、本当に可愛かったな。


・・・・本当に、可愛かったな。
あいつの、笑った顔、全然、見てないな。
あたしのせいだ。
あたしが、泣かし・・てばかりい・・るから・・・・。
ご・・めん・・・・。
ごめん、・・ごと・・う・・・・。


――― 


紗耶香ははっと目を覚ました。
気がつくと、涙を流していた。
寝間着の袖で乱暴にぬぐった。
頬がひりひりと痛んだが、気にならなかった。
だいぶ丸くなった月の明かりが、部屋の中に差し込んでいた。

にごった瞳で、部屋の壁を見つめた。
視線の先には、茶色に変色した輪っかのような物体―真希からもらった花かんむり―がかけてあった。

紗耶香は起きあがると、それに、ゆっくり震える手で触れた。
長い年月のせいで乾燥し、変色した花は、紗耶香の指で簡単にその姿を変えた。
『カサッ』
かすかな音と共に、花びらは指の間から崩れ落ちた。
足元には、先ほどまで、まだ花の形を留めていた物体が散らばっていた。
紗耶香はひざまずいて、その花びらだったもの――に触れた。
硬い、無味乾燥の感触。


―ぬけがらみたいだ―
あたしと後藤の――。
ままごとみたいな恋愛の――。

急に、何かがこみあげてきた。
キリキリと胸が痛んだ。


紗耶香の瞳から涙がこぼれた。


今だけだから。
泣くのは、今だけだから。
・・・・明日になれば、あたしは、もう逃げられない。
とっくに覚悟はできていた筈なのに、どうしてこんなに心が騒ぐんだろう?


・・・・ごめん。
ごめん、後藤。
・・・・そして、幼い日のあたし。


紗耶香は涙を流しつづけた。


12月30日 (十二夜月)
儀式まで あと1日〜夜と朝との間で〜


――― ―――


朝から風がまったくない。
木々もまったくそよぐことなく、無表情に立ち尽くしているように見える。
まわりをぐるりと海に囲まれた、阿麻和利島にとっては異例のことだ。

「ごっちん、安定剤ききすぎてない?」
不安そうな顔。
「ん・・・・まあ、強い薬やしなぁ。・・でも、そろそろ目覚めると思うで?」
安心させるために、笑いかけた。
真里は裕子の顔をまぶしそうに見つめた。

裕子は真里の髪をワシワシかきあげると、視線を窓に向け外の景色を眺めながら呟いた。
「・・・・風は導くだけ、あとは人が為すことよ、か・・・・」
「何それ?」
「ん・・・・昨日おばばが言ってたんや・・・・」
「ゆーちゃんに?」
「うん」
「・・・・意味わかるか?」
裕子の質問に、真里はフルフルと首を横に振った。
「・・・・そうやろなぁ」


『ギシッ』
ベットの軋む音が聞こえた。

真希が目を覚ましたようだ。
裕子の処方した安定剤のため、真希は昨日から、うつらうつらと、現実と夢の境界線をさまよっていた。
二人はベットに駈け寄った。
「ごっちんっ」
真里が叫んだ。

真希はノロノロと、うつろな瞳を向けた。
表情の死んでしまった顔。
本当にショックな時は、感情が表に出ないものだ。
いっそ泣き喚いてくれたら、どんなにほっとするだろうか。
裕子は表情の消えた真希の顔を、不安げに見つめた。
「ごっちん・・・・お腹すいてない?・・・・何か食べるよね?」
コクっと頷いた。
真里はほっとしたような表情を浮かべ、診療所の端にある簡易キッチンに向かった。

「ごっちん・・・・」
裕子は一旦口を開いたものの、なんと言っていいか言葉が見つからなかった。
「いちーちゃん・・・・あたしが、嫌いなのかな?」
質問というよりは、確認しているかのような響き。

真希は真里の持ってきたおかゆを2〜3回口に運ぶと、それっきり黙りこんでしまった。


――― 


午後2時、真希をひとみと梨華に託して、裕子と真里は儀式に参加するため、島の広場に向かった。
「いいか、何があっても、ごっちんから目をはなしたらアカンで。今のあいつは何をしでかすかわからんからな」
診療室を出る時に、裕子はひとみと梨華にきつく言い渡した。
ひとみと梨華も神妙な顔で頷いた。


広場にはすでに大勢の人で埋め尽くされていた。
ほとんどの人間が立っている。座るスペースを探すのは大変そうだ。
若者もいれば、年よりもいる。
たまたま観光に来た旅行者までもが、ほぼ強制的に参加させられていた。
島の人口が約2000人。その内、十七歳以上が約1500人。
(この数字には対象外と考えてもよいと思われる、七十歳以上の老人も含まれている)
この中から、ノロの《相手》となる人物が今夜選ばれることとなる。


広場の中心に設置された舞台では、白い民族衣装を身に着けた女性達の舞が始まっていた。

裕子はもともと島の人間ではないし、真里も十七歳になったばかりなので、二人とも『儀式』に参加するのは初めてだった。
裕子と真里は広場の端の方で、立ったまま舞台上の舞をじっと観察した。
そんな二人に圭、圭織、なつみの三人娘が話しかけてきた。

裕子はもうすでに、酒を飲み始めている。
「ゆーちゃん、ちょっとペース早いよ」
真里がグラスを持っている裕子の手を掴んだ。
「ほっといてんか。・・・・こんなアホらし・・・・酒でも飲まんとやっとられんわ」
真里の手を振りほどくと、グラスに入った酒を一気に飲み干した。


女性達の舞が終了すると、紗耶香が白い衣装を身に着けて舞台の上に登場した。
そのまま、壇上に設置された椅子に座った。
紗耶香の傍らには、美しい花器に活けられた媚薬草があった。

「なんじゃ・・・・あれは!?」
裕子がおもわず声を荒げた。
酔いも思わずさめてしまう。

「紗耶香、今日は一段と綺麗だよね〜。圭織、びっくりしちゃった」
「ほんと、何か鬼気せまるものがあるよね。・・・・なんつーの、切羽つまった感じがステキっつーの?」
「あたしが《相手》に選ばれたら、どうするべさ」
圭織、圭、なつみの三人が呑気そうに会話している。

「そんなこと言ってるんやない!」
「わかってるわよ。・・・・媚薬草のことでしょう?」
圭は無粋な人ねと言わんばかりの視線を裕子に向けたのち、真里に視線を移した。
「矢口、覚えている?」
「え・・・・」
いきなり話を振られて、真里は戸惑ったような声を出した。


「小さい時、鍾乳洞に入ろうとして怒られた事があったでしょう?・・・・媚薬草はあの鍾乳洞の上にしか生えないんだよ!」
「・・・・それってどういう・・」
「あの鍾乳石には、催淫作用と退行作用があるんだよ。・・・・鍾乳洞に入っただけでムラムラするだべさ」
「石の成分が地表を伝わって媚薬草になるのか、逆に媚薬草の成分が鍾乳石になるのか、因果関係ははっきりしてないんだけどさ。あの媚薬草ひとつで大人にも、子供にもなれるってわけ・・・・おもしろいでしょう?」
「島の七不思議の一つだって、・・あっ、でも、圭織これしか知らないけど」


・・・・七不思議って・・七つで足りるんか?
うちにはもっとあるような気がするでぇ。
って、そんな問題やない。
紗耶香のやつ、まさか、今夜媚薬草を使う気なんか?


「でも、紗耶香もバカだよね。・・・・圭織が紗耶香だったら、ごっちんと二人で逃げちゃうのに」
「なっちだったら、役所の戸籍係にハナグスリ渡して、ごっちんの戸籍を変えてもらうだべさ。・・・・そんで、十七歳以上として『儀式』に参加してもらうべ」
「バカ。・・・・そんなんじゃ後藤が《相手》に選ばれるかわからないじゃない。・・・・あたしなら、気に入らない《相手》だったらクスリ飲ませて、一晩眠ってもらうけど」


・・・・なんちゅーやつらや。
こいつらに協力頼まなくて本当に良かった。
圭織以外は、犯罪行為やで。
・・・・って言っても、うちも頼りにならんかったケドな。
こうやって、酒で誤魔化しているだけや。
ごっちん、すまん。


そうこうしているうちに、美しい十三夜の月が山の山頂にかかってきた。
おばばが祝詞を詠みはじめた。


『月ぬ美しや十日、三日
 美童美しや十七つ
 ホーイチョーガー』


海風が戻ってきた。
微風ながら、風が吹いてきたのを感じる事ができる。
「・・・・ゆーちゃん」
真里は泣きそうな顔を裕子に向けた。


どうする?
酒に酔ったふりでもして、ぶち壊すか?
・・・・胃が痛くなってきた。
うち、本当、プレッシャーに弱いねん。


裕子はぎゅうっと拳を握りしめ、心を決めた。
――よしっ、行くで。


「いちーちゃんっ!」
真希の声。
おばばの祝詞を切り裂くように響いた。


うちより一瞬早く、ごっちんが飛び出していった。
いつの間に潜りこんだんやろ?
吉澤と石川は何やってるんや!
・・・・あいつらのことや、きっと目を離したんやろうな。
それとも、情に負けて、ごっちんをここによこしたんやろか。


もちろん、真希が紗耶香までたどりつけるはずもなく、数名の大人達に捕まってしまい、はがいじめにされる。
「ごっちん」
真里がかけより、真希を捕まえている大人達から、真希を開放しようとした。


その時、海風が吹いてきた。
今度の海風は、微風なんかではなかった。
海風はしばらく広場をグルグル旋回した後、広場の中心にいる紗耶香とおばばを通過して、広場の端に立っていた裕子の周りをクルクルと回った。


・・・・っ・・うちか!?
紗耶香の《相手》がうち!?
そんなバカな・・・・。

いまいち思考がついていかない、うちの瞳にはいってきたのは、目をキラキラ輝かせた三人娘の顔と、呆然とする矢口の顔、そして泣きそうなごっちんの顔だった。


12月31日 (十三夜月)
儀式当日


――― 


風は再び吹き始めた。
島は落ち着きを取り戻し、人々は帰宅の戸についた。
山の頂上には、最も美しいといわれる十三夜の月が輝いていた。

大自然(海風)が選んだ紗耶香の《相手》は裕子だった。
パニック状態の裕子は、うろたえてキョロキョロと回りを見渡し、おばばと一瞬目が合うと、意味ありげに笑いかけられた。

裕子は逃亡の恐れがあると判断されたのか、おばばの指示により、儀式のために作られた二間からなる小屋に移動させられ、そのうちの一室に通された。すでに、真新しい寝具一組が敷かれている。
体のいい軟禁状態だ。


「くっそーっ、出せっちゅーねん」
裕子が毒づいた。
「・・・・そんなことしたら、ゆーちゃん逃げちゃうでしょう?」
圭、圭織、なつみの三人がふすまを開けて、入ってきた。
「・・・・何や・・あんたらは」
「圭織達、『儀式』の介添え人に選ばれたんだよね。おばばの指名で」


・・・・あのばーさん、絶対、ぼけがはじまってる。
そうじゃなきゃ、こいつらを選ぶはずがない。


むすっと不機嫌状態の裕子を気にする様子もなく、話しかけてくる。
「ずっと、隣の部屋で待機しているべさ」
「逃げようとしても、無理だよ。・・・・この小屋の外には大勢の見張りがいるんだから」
圭織が外へ通じるふすまを開けた。
外にはうじゃうじゃと見張りらしき人間がいる。
「さすがの後藤もここまでは来れないと思うよ」


「・・・・矢口は?・・」
一番気にかかっていた質問をする。
「ずいぶんショックを受けたみたいだったべさ・・・・」
「圭織が思うに、吉澤と石川がついてくれていると思うけど」
「じゃね、もうすぐ紗耶香が来ると思うから・・・・うちら消えるね」
圭の頬は心なしか赤かった。
いや、圭ばかりではなく他の二人の顔も赤い。
そそくさと、三人娘が隣の部屋に消えた。


考えろ!
考えるんや、裕子!!
このピンチを如何にして切り抜けるか。
はぁ・・・・矢口とごっちんの事を考えると、本当に胃が痛くなる。
自分で望んだ事ではないとはいえ、あの二人からしたら、うちは裏切りものや。

『風は導くだけ、あとは人が為すことよ』おばばの言葉が脳裏によみがえる。
何故、うちが《相手》に選ばれた?
何故?


考えこんでいると、すっと外へ通じるふすまが開き、音もなく紗耶香が部屋に入ってきた。
手にはトックリのようなものを持っている。
紗耶香は無言で、うろたえてあとずさる裕子に近寄ると、頬に手をかけ、唇を重ねてきた。
そのまま、裕子は寝具に押し倒された。
紗耶香は持っていたとっくりの中身を口に含ませると、裕子の口へと注いだ。
裕子はいきなり口内に注ぎ込まれた液体を飲み込むことができずに、ひどく咳き込んでしまった。
紗耶香は咳き込む裕子の背中をさすっていたが、裕子が落ち着いてきたのを確認すると、今度はトックリを差し出して、飲んでと言った。

「・・・・何や?」
咳き込んだために、にじんだ瞳でトックリを見る。
「・・媚薬草・・煎じたもの」
「アホかっ!・・・・そんなもん・・・・」
「・・じゃあいいよ。ゆーちゃんは飲まなくても。あたしはもう飲んだから」

よくよく見てみると、紗耶香の瞳は妙に潤んでいるし、頬は高潮している。体もじっとりと汗をかいている。


「・・・・始めようか」
裕子の耳元で囁いた。
「・・・・・・」
「・・・・ゆーちゃん、何、固まってんの?」
紗耶香は動こうとしない裕子にいぶかしげな視線を向けた。
「・・・・固まってるんやない。・・・・考えてるんや」
「・・何を?」
「うちがあんたの《相手》に選ばれた意味を・・」
裕子は真っ直ぐ紗耶香の瞳を見つめた。
至近距離で見つめ合う形になった。


「・・・・うちは、あんたを、抱かん。・・・・抱かれもせん。・・矢口を愛しているからな」
優しいアルトの静かな声。
しかし、強い声。
シーンと静まりかえった部屋の隅々に響いた。


「・・・・ゆーちゃん」
紗耶香が視線をそらし、俯いた。
「あんたかて、そうやろ?好きな人が他にいるやろ!・・・・」
「・・・・あたしはノロの務めとして、大自然の決めた《相手》と一夜を過ごさないと・・・・」
俯いたまま、懸命に言葉を紡ぐ。
裕子の強い眼光が恐くて、視線をあげることができない。

「ぶっちゃけた話、選ばれた《相手》と処女のあんたがセックスしろってことやろ!セックスがどうのこうの、処女がどうのこうの、イチイチうるさいねん。『儀式』なんか糞食らえっ。処女なんて、ただの薄い膜ひとつの話や。どーでもええわ」
裕子は一気にしゃべると、一息ついた。

「・・・・大事なのはセックスの方や。・・・・好きなやつとヤるとな、天国やねん。・・・・これが嫌なやつとヤるとな、もう最悪や。・・・・自分まで嫌になってしまう」
紗耶香は相変わらず俯いたままだ。


「ごっちんが言ってたやろ?『市井ちゃんじゃなくなっちゃうもん』って。そういうことや。望まないセックスは、あんたを悪い方向に変えてしまう」
目を見て会話しなければ、裕子はそう思うと、紗耶香の頬に手をかけ、視線を上に向けようとした。

「・・っ・・うるさい。・・・・人の気も知らないで、好き勝手な事ばっかり言わないでよっ」
紗耶香は裕子の手を振りほどくと、視線をあげ、睨みつけた。
「何や、言いたいことあるなら聞くで」
「・・っ・・く・・あたしを一人にしたくせに。・・・・いまさらお説教ばっかり・・・・あたしがどんなに寂しい思いをしたかわからないくせに・・・・」
「・・・・一人にした?・・・・あんた、何言って・・・・」
裕子が戸惑ったような声を出した。
「勝手に中国で死んだくせに、説教なんてするなって言ってんの!」
紗耶香は声を出して、泣き出してしまった。


・・・・紗耶香の言っていることが、段々おかしくなってきた。
うちを『誰かさん』と勘違いしているみたいや。


媚薬草は催淫作用と共に退行作用もある。
ある一定量以上の媚薬草を摂取すると、催淫効果はなくなり、その代わり退行効果が表れる。もちろん両方とも、一時的なものではあるが。


紗耶香が少しずつ退行していっているのかもしれんな。
・・・・なんつーか、可愛いやん。


「っく・・・・すご・・く、寂し・・かった・・んだよ」
「そうか、すまんかったなぁ」
裕子は紗耶香を抱きしめた。
「あ・・たし、一人・・で頑・・っ・・張った・・んだよ」

「えらいなぁ。うん、えらい、紗耶香はえらいぞ!」
誉めて、誉めて、誉めまくってやる。
この子の母親が生きていたら、おそらく言ったと思われる言葉を言ってやろう。


「母さん、ごめんね。・・・・あたし本当は嬉しかったんだよ。ぎゅーって抱きしめられて、本当は嬉しかったんだ・・・・。ごめんね、母さん・・・・」


・・・・抱きしめろって要求してるんか?
紗耶香の言っていることの半分も理解できなかったが、とりあえずきつく抱きしめた。
紗耶香は相変わらず激しく泣きじゃくり、ごめん、ごめんと繰り返している。


「何を、謝ってるんや。・・・・あんたは・・うちの自慢の娘やで。・・あんたが幸せならそれでいいんや。・・・・誤ることなんか、これっぽっちもあらへん」
裕子の言葉を聞いて、紗耶香は涙をこらえ、嬉しそうに笑った。
そのまま裕子に体重を預けて、もたれかかる。


気がつくと、紗耶香は裕子の膝をまくらに眠ってしまった。
裕子は紗耶香の髪を手で梳いてやった。
さらさらと指の間からこぼれおちる感触を楽しむ。


こんな風に黙っていると、可愛いのにな。
いつも意地を張っているから、疲れるんやで。


裕子は紗耶香の体を敷布の上に横たえ、布団をかけてやり、自らの体を紗耶香の隣にすべりこませた。
紗耶香が裕子にしがみついてきた。
――まるで何かに怯えるように――

裕子は紗耶香を抱きしめると、額に優しい唇を落とした。


12月31日 儀式当日


――― ―――


裕子はふすまの間から差し込む朝の光で、目を覚ました。
昨夜は紗耶香と二人で布団に入って眠りについた。
媚薬草のせいですっかり退行してしまった紗耶香は、裕子を母親と錯覚していた。
胸を触られたが、性的な感じはなかった。
幼い子供が母親の乳房に触れて、安心するような、自然なふれあいだった。
紗耶香は今も、裕子の胸に顔をうずめ、眠っている。


昨夜、母親役を演じたせいかもしれんな――。
こんなに紗耶香の事を愛しく感じる。


裕子が身じろぎすると、紗耶香はゆっくりと目を開いた。
「ん・・・・なんか、気持ち・・わ・・るい・・」
紗耶香が頭を押さえて、うめき声をあげた。
「当たり前や。あんないっぺんに慣れないモノ、飲むからや」
「う・・・・ぅぅ・・・・。怒鳴らないで」
「怒鳴りたくもなるわ」
そうは言ったものの、裕子の顔は笑顔だ。


「・・なぁ、・・昨夜のこと・・・・どこまで覚えとる?」
裕子が紗耶香の顔をのぞきこんだ。
「全部、覚えているよ」
ぽつりと紗耶香が言った。
「え・・・・」
覚えてないと返答されると思っていた裕子は、びっくりして体を起こし、紗耶香を見た。
「何か、・・・・もう一人の自分が動いているって・・感じだったけど。・・・・自分の事、冷静に見ている自分もいたんだ」
紗耶香は上半身を起こすと、照れくさそうに、裕子から視線をそらした。

「・・・・ありがとう、ゆーちゃん。・・・・あたしって、相当、マザコンだよね。・・・・でも、すっきりした。おかげで何か吹っ切れた気がする。・・・・母さんのことも・・・・後藤のことも」
紗耶香は俯いて布団の端をいじり、言葉を選びながら話しはじめた。


「昨夜な、・・・・途中から、うち、自分がしゃべってるんやない感じやってん・・・・。ひょっとしたら、あんたの母親が、うちの体借りてしゃべってたかもしれんで・・・・」
裕子がおどけて言った。
「うん。・・・・ゆーちゃんにしてはやけに格好良かったもんね。それに・・・・滅多にないイベントだったからね。・・・・あの人は、祭り好きだったから、そういうこともあるかもしれない」
「うちは、いつも、格好良いちゅーねん。・・・・それが朝までうちの胸触ってた、甘ったれの言うセリフか!?」
紗耶香は顔を真っ赤にした。
「そ、そんなの、覚えてないよ」
「・・・・自分、全部覚えてるって言わんかったか?」
裕子が笑いを堪えながら言う。
そうなんだけどさ、と紗耶香は憮然とした表情で答えた。


・・・・紗耶香は晴れ晴れとした顔をしていた。
昨日までの切羽つまってピリピリした印象は影を潜め、その代わり、女性らしい柔らかな美しさをかもし出している。
・・・・人はこういうのを、女になったと表現するのかもしれんな・・・・。


「・・後は、ごっちんに素直になるだけやな」
「・・ん・・・・ねぇ、ゆーちゃん、あたしと後藤の事・・・・何でわかったの?」
紗耶香が本当に不思議そうに聞いてくる。
「あんまり姐さんを舐めたらアカンで。・・そんなん、簡単や。あんたが冷たくするのは、決まって後藤だけやし。そのくせ、後藤の事いつも見てるし。・・・・好きな子をいじめてしまうガキと一緒や」
「・・・・・・」
紗耶香は不満そうに口を尖らせた。

「まぁ、ゆっくり大人になったらいいんや。・・・・ごっちんも、まだまだガキやしな」
「・・・・・・」
紗耶香は考えこんでいる。


後は、ガキはガキ同士、うまくやるやろ。
大人の出る幕ではないちゅーことや。


「さて、ここを出る前に、あの三人をどうするかやな・・・・」
裕子は腕を組んで、うーんと唸った。
昨夜、紗耶香が眠ってしまった後、裕子と紗耶香の会話が全て聞こえていたに違いない、三人娘への対応策を考えたのだが、良い案が浮かばなかった。

と、裕子と紗耶香の会話が聞えたらしく、隣の部屋のふすまが開き、なつみ、圭織、圭の三人が姿を現わした。
「ゆーちゃん、見損なわないで欲しいべさ」
「圭織達、それほどバカじゃないよ」
「しゃべって良いコトと、悪いコトの区別ぐらいつくって。・・・・無責任に情報垂れ流しているわけじゃないんだから」


・・・・正直、うちは感動した。
こいつらの口から、こんな言葉が聞けるとは思わんかった。
すまん、うちは、あんたらを見損なってたわ。


「・・・・にしても、ゆーちゃん操高くって、圭織ビックリしちゃった」
「本当だべ。絶対、紗耶香の色香に迷わされるとおもったべさ」
「ドキドキしてたのに、ちょっと、がっかりしちゃった」


・・・・見直したとたん、これや・・。
まったく・・・・。


裕子が嫌味の1つでも言ってやろうと、口を開きかけた時、圭がウインクした。
そのまま、圭織となつみを促して退出する。

――暗黙の了解――
――昨夜の事は、5人の胸の内にしまわれる事になるだろう――


『風は導くだけ、あとは人が為すことよ』
裕子はおばばの言葉を頭の中で反芻した。
歴代のノロ達がどのような一夜を《相手》と過ごしたのか――それを知る術はない。
運命の《相手》と熱い夜を分かち合ったのか、あるいは、昨夜の紗耶香のようにカタルシスが起こったのか。
いずれにせよ――


・・・・これでよかったんや。
うちには、こんなんしか、できんわ。

紗耶香の母親と奇しくもそっくりなうちが『儀式』の《相手》に選ばれたのも、おそらくは意味があったんやろ。
母親を失ったことは大きな心の傷となっているにも関わらず、彼女自身それから目をそむけてきた。
それに加えて、紗耶香は幼い頃から、阿麻和利島のノロという責務を背負ってきた。そのため、早く大人になってしまった部分と、未熟な子供の部分との間で、自我が揺れ動いていた。いや、意識的に未熟な子供の部分を隠していたふしがみられる。

今回のことで、紗耶香も気づくやろ。
無理して大人になることはないんや。
ゆっくり、時間をかけて成長すればいい。


裕子は紗耶香の肩をポンポンと叩き、またな、と言うと、ふすまを開き、外へ出た。
新年の朝日がまぶしくて、裕子は手をかざした。
昨夜はうじゃうじゃいた見張りの人達は、夜が明けると帰ってしまったのだろう、人の姿は見えなかった。
しばらく歩いていると、木にもたれるような人影が見えた。
急いで駈け寄ると、真里と真希だった。
互いに寄り添いながら、毛布に包まっている。


・・・・一晩中、ここに?
こんなに・・・・愛しい。
うちの胸の中に、暖かいモノが流れ込んできた。


裕子はゆっくりと二人の冷えた頬に触れた。

「・・んっ」
小さな吐息と共に目を開けた。
「ゆーちゃんっ」
真里が腰をおろしたまま、裕子の腰にしがみついた。
「どこにも、行かんよ。うちは、ずっとあんたの傍におるよ」
真里の髪を優しく撫でながら囁いた。

真希は眠そうに目をこすっていたが、はっと気づくと、裕子を睨みつけた。
「・・・・ごっちん、そんな恐い目で睨まんといてーな。・・・・ゆーちゃん、ごっつ傷つくわ」
「・・・・・・」
「・・・・紗耶香が小屋で待ってるで。・・・・行ってきい。・・・・言いたい事全部ぶつけてきたらええ」
真希はコクっとうなずくと、立ちあがって、小屋へと走り出した。


「・・まったく、世話のやけるやっちゃ・・・・」
裕子がぽりぽりと頭をかいた。
「・・・・ゆーちゃん」
真里の怒気のこもった低い声。
真里も真希同様、やり場のない怒りを抱え込んでいた。
ただ、先ほどは、裕子がいきなり自分の前に現れたため、喜びの感情が先走ってしまった。

「・・な、何や・・・・矢口」
「・・あたし、怒っているんだよ?」
裕子の足に抱きついた姿勢のままの、怒気のこもった声。
「・・わ、わかってるがな・・」
「何が、わかるの?」

裕子は腰をかがめて、真里と視線を合わせた。
真っ直ぐ真里の瞳を見て言った。
「矢口が、うちを、愛していること」
真里の顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「な、何言って・・・・そんなんで誤魔化されないんだからっ」
「・・・・うちも、愛してるで・・」
裕子はゆっくりと顔を傾けて、真里の唇に自分のそれを重ねた。


――― 


裕子が出ていった後も、紗耶香はしばらくぼーっとしていた。
媚薬草が完全にぬけきっていないのだろう。
働かない頭で考える。


今、何をすべきか?
・・ごとう・・
後藤!
後藤に会わないと!
でも、会ってどうする?
あいつは、もう、あたしに、笑いかけてくれない。
それどころか、もう、会ってくれないかもしれない。
思考回路は最悪の方向へ進んでいく。


『ガサッ』
ふすまの向こうで音が聞こえた。


紗耶香はぴくっと体を震わせ、息を潜めてふすまを見つめた。
やがて、静かにふすまが開くと、目に涙をためた真希が立っていた。
紗耶香はパニックにおちいった。


何で?
何で、後藤がここに?


「・・・・市井ちゃん・・・・あたし・・・・ここにいてもいい?・・・・何も、何もしないから・・・・」
「・・・・後藤」
紗耶香はゆっくり真希に近づいた。
「・・後藤に話したいことが、たくさんあるんだ。・・でも・・・・」
紗耶香は言葉に詰まり、続きを言うことができなかった。
「・・市井ちゃん」
おずおずと真希の手が紗耶香に差し伸べられた。
紗耶香の手と真希の手がゆっくり絡み合った。


「・・・・ごめん・・なさい。・・・・それから・・ありがとう・・。」
ちゃんと目を見て言うことができた。
「市井ちゃん」
真希は嬉しそうに笑うと、紗耶香に抱きついた。

「・・・・何も、しないんじゃなかったっけ?」
「いいもん!」
真希は頬を紗耶香の胸に擦りつけた。
「・・・・ずっと、こうしたかったんだもん!」
「・・・・あたしも、ずっと、こうしたかった・・・・」
紗耶香は真希を強く抱きしめ返した。


1月1日 〜新しい夜明け〜


――― ―――


あれから『儀式』に関するウワサが流れることはなかった。
あのおしゃべりな三人も、締めるべきところはキチッと締めているようだ。
圭は新しい恋のウワサがチラホラ聞こえてきたりする。
圭織は島の美少女隊のニューリーダーに選出され、張り切っている。
なつみは少し痩せて、前より可愛くなったと評判だ。


おばばは元気そのもので、ひょうひょうと生きておられる。生き字引の彼女は、そこに存在するだけで意味があるのだ。
亜衣と希美も、毎日元気に野山を駆けずり回っては、ゆーちゃんの診療所にちょっかいを出しているらしい。ゆーちゃんも、子供に懐かれるのはまんざらでもない様子だ。
おばばの不思議な魅力はこの二人にもしっかりと受け継がれている。


吉澤と石川は『儀式』の後、ボロボロになった矢口と後藤の面倒をずっと見ていてくれたようだ。その他にも(後藤いわく)『儀式ぶっこわし作戦』のため調達した、重たい扇風機2台と発電機を片付けたのもこの二人らしい。
優しい、というか・・・・貧乏くじをひく運命なんだろうか?
吉澤は自分が作ったバイクの後ろに石川を乗せて、こっそり乗り回しているらしい。
もちろん無免許だ。
あくまでウワサなので、真実は定かではない。


ゆーちゃんの診療所は、相変わらず暇そうだ。
それだけこの島が平和で、健康な人々が多いということなのだろう。
最近、あたしにものを頼む時、ニヤニヤ笑いを貼りつかせながら、母さんの言うことをきけ、と言うようになった。
・・・・困ったもんだ。


矢口は新しい船をゆーちゃんにせがんで買ってもらった。
ゆーちゃんも矢口に関しては負い目を感じているらしく、あっさりオーケーしたらしい。
・・・・まったく・・・・そんなんだから、疑われるんだよ。
矢口と後藤は今だに、あたしとゆーちゃんのことを引きずっているみたいだ。
あたしとゆーちゃんの会話をじっと二人で固まって聞いていることもある。
・・どっちにしろ、矢口があたしの親友であることに変わりはない。


後藤は、日ごと、綺麗になっていく。
十五歳という年齢は、少女の美しさと女性の美しさが、ちょうど渾然一体となる時期なのかもしれない。
彼女の髪が風に吹かれ、揺れ動く様を見るだけで、あたしの胸はドキドキと鼓動がはやまる。


あたしと後藤の関係は相変わらずだ。
あたしは焦ることをやめた。
ゆっくり――大人になればいいのだ。

あの幼い日の恋の続きを――楽しんでいる。
あたし達は手をつなぐだけで、胸が高鳴り、頬が高潮する。
そして互いの瞳をみつめ、その奥に隠された感情をよみとろうと模索する。


この恋の結末がどうなるか。
それは、おそらく、あたし達が本当の意味で大人に近づいた時にわかるだろう。

――まだまだ先の話だ。


〜Fin〜

 

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