娘。レストラン

登場人物紹介

市井紗耶香――16歳。高校を中退し、中澤の下で料理の勉強中。
       両親は海外で仕事をしている。よってマンションに一人暮らし。
後藤 真希――16歳。高一。市井をからかうことを、趣味にしている。
       マイペースで、いつもやる気が感じられない。
矢口 真里――17歳。高三。市井の彼女。
       本人はギャルを目指しているのだが、なかなかギャルになりきれない。
       遊んでいる風に見えて、実はまだ処女だったり。
吉澤ひとみ――16歳。高一。矢口の後輩。
       後藤とは、矢口の紹介で知り合った。なぜか後藤には頭が上がらない。
       市井といつも、オトコマエの座を争っている。
中澤 裕子――27歳。娘。レスの店長。
       個性が強いメンバーを、なんとか上手くまとめている。
       個人的には、矢口が一番のお気に入り。
石黒 彩 ――22歳。マネージャー。
       みんなの相談相手。悩みがあると、みんな必ず石黒の所に訪ねていく。
       中澤とは、もう4年になる付き合い。
       個人的には、市井が一番のお気に入り。
飯田 圭織――19歳。調理場担当。
       何を考えているのか、いまいちよく分からない人。
保田 圭 ――19歳。石川の教育係。
       矢口はホールでのリーダー。保田は厨房でのリーダー。
       お互いリーダー同士、苦労を分かち合っている。
安倍なつみ――19歳。つまみ食い王。
       料理は上手いが、つまみ食いをするのも上手い。
石川 梨華――15歳。高校は行かず、娘。レスで働いている。
       一番真面目だが、一番寒い。




ここは、娘。レストラン。今一番人気の店。
かわいいウェイトレスがいて、食事はおいしい。
今日は日曜日。人がいっぱい来る。
忙しい一日の始まりだ。


カランカラン

「いらっしゃいませ〜…」
客が入って来たのに、営業スマイルも忘れ、気の抜けた挨拶。
名札を見ると、後藤真希と書いてある。この店の人気NO1。
以前は安倍なつみという娘が一番だったのだが、少々ポッチャリしてきたため、
調理場の方へまわされたのだ。

「何名サマですか?」
そんなやる気なしの後藤に代わり、先輩矢口真里が誘導する。
営業スマイルはこの店NO1。店長中澤裕子のオモチャである。
「ではこちらへどうぞ」
人数を確認し、お客を席に座らせ後藤の元に戻って来た。

「ごと〜。ちゃんとしてくれなきゃ困るよ〜。また紗耶香に怒られるよ?」
「え〜? だって今日ダルイんだもん。せっかくの日曜なのに、シフト組まされてさ〜」
ブーブー文句を言う後藤。矢口はまたか、という顔。
「あのねぇ、矢口だってダルイんだよ。自分の仕事だけでも精一杯なのに、
後藤のフォローもしなくちゃなんないし」
「でもやぐっつぁんはいいじゃん。市井ちゃんいるんだし。忙しくても、市井ちゃんと
話せんじゃん。あたしはいないんだよー!」
「つっても紗耶香は中じゃんか。喋れるのは終わってからだよ……」
後藤の相手をしていると、余計疲れが増してくる。
疲れている時に、もう後藤に話し掛けないでおこうと矢口は学習した。
そして、また営業スマイルを作り、注文を聞きに行った。

――

場所は変わって調理場の方へ。

「ギャ―! ちょっと待ってハンバーグ焼き過ぎたー!!」
「ねえそこに置いてあるパセリ取って〜」
「こらなっち! あんたつまみ食いしすぎ!」

様々な声が、広い調理場に届いている。
日曜のお昼ということもあり、注文がいっぱい。忙しいらしい。

「はい! チョコパ出来上がり! 石川持ってってー」
「あ、ちょっと待って。このカキ氷も」
「コーヒーもついでに!」
三人同時にそう言われる。ウェイトレスの石川梨華。
「カオー、市井休憩入っていい?」
その後ろで市井紗耶香が、飯田圭織に声を掛けていた。
「ああうん。なるべく早く戻って来てよ? 圭ちゃんとなっちと小湊さんだけだと心配だからね」
「わかった」
了解をもらい、市井は奥の休憩室に消えていった。


――

「ふぅー、疲れたーー……」
大きく息をつく。
本当はこの先にある部屋のソファで疲れを取りたかったのだが、先客がいた為あきらめた。
その先客とは、店長の中澤裕子とその恋人石黒彩。
「ったく、ぜってー中でやってんだろーなー。いーなー」
うらめしそうに、ドアに阻まれたその先を見る。
「う〜……、市井もやぐっちゃんと早くやりたいっす……」
そう自分の欲求を口に出した時、もう一つのドアが開いた。

「お盛んですね〜市井ちゃん♪」
先程矢口に休憩をもらった後藤である。
「………ちっ、なんだ魚か。やぐっちゃんかと思ったのに」
その姿を確認すると、露骨に嫌そうな顔になった市井。
後藤は反対に何やらおもしろいものを見つけた様な笑顔。
「やだなー、魚じゃないって後藤だって♪」
ピタッと市井の横に身を寄せる。
「な、なんだよ。離れろよ」
「んふふふふ〜」
「き、気味悪いっつーの……」
そう言いつつも、どうしても後藤の胸にいってしまう自分が情けない。
矢口にはない胸の大きさだから。

「ねね、市井ちゃん。市井ちゃんとやぐっつぁんって、もう経験したの?」
突然そんな事を聞いてくる。慌てて胸から市井は目を離した。
「な、な、なにをっ!」
「なにをってやだな〜。さっき市井ちゃん言ってたじゃん。『やりたい』って♪」
「げっ! き、聞こえてたのか……」
一番、聞こえてはいけない人に聞こえてしまった。
口に出してしまったことを、市井は死ぬほど後悔した。

「まさかまだじゃないよね。結構付き合って長いんだし。何年だっけ?」
「………二年」
観念して、市井も後藤の質問に答える。
「二年!? 長いねーマジで。あたしとよっすぃ〜なんか、まだ3ヶ月も経ってないよ」
「あっそう」
まるきり興味なさそうな市井の相槌。それでも後藤は喋り続ける。
「でもねよっすぃ〜ね、あんなオトコマエな顔してあたしが初めてだったんだって!
その割には上手かったから、あたしそれ聞いた時ビックリしたんだよ!」
「へえ」
「やっぱさ、するんだったら学校のトイレとかが燃えるんだけど、市井ちゃん達は
どこでするのが一番燃える?」
「へっ?………ああ」
目を泳がせて、答えを探している。


「し、仕事中抜け出してする時かな……?」
「ええっ?! すっごーい。マジで?」
「お、おうマジで。つーか、さっきもしてきた」
なにやらオドオドしだした市井。
興奮している後藤は、そんな市井の様子には気づかない。
ずっと
「そっかぁ……。バイト先とかでやるのもいいかもね」
と、呟いていた。

――

休憩時間も終わり、少し空いてきた3時頃。
後藤は疲れた表情をしている矢口に遠慮もせず話掛けてみた。

「うぃーす、やぐっつぁん。その疲れた表情は、さっきやってきたせい?」
ニヤニヤしながら矢口に問う。矢口の顔は?に変わった。
「……なに? やってきたって何が?」
「やだなー、しらばっくれちゃって♪ 市井ちゃんとの甘いひとときを
過ごしてきたんでしょ〜?」
「はあ? なんで矢口が疲れた顔してるからって、紗耶香の名前が出てくんの?
矢口が疲れた顔してる原因は、後藤だよ?」
まったくワケがわからない。
朝一緒にここに来てから、一回も喋っていない市井の名前が出てくることが。

「言っちゃいなよ。抜け出してやってきたんでしょ?」
「だから何を」
耳元で囁く。

「えっち……」

その言葉を聞いた途端、矢口の顔はユデダコに。
「なななな何言ってんだよーー!! やってないよーー!!」
全身赤くなりながらも、必死で誤解を解く。
「? でも市井ちゃんはさっきやってきたって……」
そんな後藤の言葉を聞いた矢口は、すぐさま調理場の中に入って行った。


「紗耶香!!」
ビクッと市井の身体が波打つ。
「や、やあ……。どうしたんだい矢口くん(汗)」
「どーしたもこーしたもないよ! なんで後藤にあんな嘘つくのさ!」
顔を赤くしながら、市井に詰め寄る。
「い、いや……、嘘が現実になったらいいなぁ〜って思って……」
「そんな現実なんかいらん! もういい! そんな変なこと思ってる紗耶香には、
これから先、手も握らせてやらないしキスもさせてあげないんだからー!!」
とどめのビンタ。
そのまま市井は床に倒れ込む。
矢口の大声に駆け寄ってきた中澤や石黒、他のみんなは、あきれた様子で見守っていた。

「な〜んだ。嘘だったのかやっぱり」
相変わらずマイペースな後藤。自分がその原因を作ったのに。
「かわいそうな市井ちゃん。同情するよ」
ポケットにいれていた白いハンカチを取り出して、市井の顔にかけてやった。


カランカラン

「いらっしゃいませ〜……あっ!」
いつものやる気ない声が、突然嬉しさの声に変わる。
「よっ! 相変わらず元気そうだね」
市井に負けず劣らずのオトコマエ。
後藤の恋人、吉澤ひとみ。

――

「はいよっすぃ〜、あーんして?」
「あーん」
ご丁寧に一口サイズに切って、吉澤の口に運んでやる。
ウェイトレス姿のまま。ようするに、バイト中ってことである。
しかし当の本人の後藤は、そんなことを気にもせず、せっせと吉澤に尽くす。

「ねえ紗耶香。あいつ注意しなくていいの?」
モグモグ料理のポテトを頬張りながら、何やら悔しそうな顔をした市井に
安倍なつみが声を掛ける。
「わかってるよ。……あんにゃろう、客が少ないからってサボりやがって……」
ドスドス音をたてながら、甘い雰囲気が漂うその席へと向かって行った。

「おい後藤。早く注文受けに行ってこいよ」
帽子を外し、後藤を上から見下ろす。
「え〜? だって人すくないじゃん。ちょっとくらいさー」
確かに人は少ない。
「ダメだ。早く持ち場に戻れ」
でも、市井はそれを許さない。
その言葉にむかっときた後藤は、すかさず言い返した。

「あたしに八つ当たりされても困るんだよね〜。やぐっつぁんとケンカしたからって、
あたしカンケーないじゃん」
「いや、関係大ありだろう」
市井のツッコミも聞きはしない。言葉を続ける。
「ねえやぐっつぁんも言ってあげてよ〜。人に八つ当たりすんだよ?この人」
遠くで他人のフリをしていた矢口を仲間に引き込む作戦に出た。

「ちょっ! 矢口出してくんなよ! 卑怯じゃん!」
「卑怯じゃないもん! 市井ちゃんが八つ当たりするからだもん!」
「八つ当たりなんかしてないだろー?! 勝手に勘違いすんなバカ!」
「あ、今バカって言った! 聞いたでしょよっすぃ〜! この人、
いっつもあたしの事バカバカって言ってくんだよ? 自分の事差し置いて」
「なっ!」
市井が言い返そうとしたその時。

「っていうか、紗耶香うるさい……」

矢口のその言葉と冷たい瞳が、市井の口を封じさせた。 


「な、なんで市井だけ……」
紗耶香の訴え。もっともである。
でも矢口は、淡々と言葉を言い放つ。

「後藤の事とやかく言う前に、自分が持ち場に戻りなよ」
クイッと顎を調理場の方へ向け、市井に「行け」の合図。
市井はガックリと肩を下ろし、自分の持ち場へ戻って行った。

「かっこいー」
吉澤が呟く。それに後藤が反応。
「ちょっとよっすぃ〜。今誰見てかっこいいっつったの?」
ずいっとテーブル越しの吉澤に顔を近づける。
「え、い、いや……。特に」
慌てて吉澤は首を横に振った。
「ごっちんが、一番っす」
「だよね」
究極の、バカップル。

――

「おつかれさまでーす」
「おうお疲れさーん」
「お疲れ〜」
「お疲れさまっす……」
事務所にいる中澤と石黒に挨拶をし、矢口は自転車置き場へと急ぐ。
「わ、やぐっちゃんちょっと待ってよ」
その後ろを、市井も追いかけた。

「やぐっちゃ〜ん……」
自転車をまたいでペダルを漕ごうとしたその時、情けない声が静かな駐車場に響いた。
「………はあ」
観念して、ママチャリの後ろに紗耶香を座らせてやる。
帰りは、矢口が漕ぐ番。行きは、市井が漕ぐ番。
「でも許したワケじゃないかんね。今だけだからね」
一応、念を押しておく。本当は、このまま許したくてしょうがないのに。


ギィー……ギィー……。

自転車のペダルから、そんな音が漏れる。
いつもなら二人の喋り声で聞こえないその音。しかし今日ははっきり聞こえる。
なぜなら、会話がないから。
市井が無理やり話題を振っても、返ってくる言葉は「ちょっと黙ってて」の一言。
そのたんびにシュンとなる市井。
いつもなら矢口のお腹にまわしている手も、今日は居心地が悪そう。
空中をウロウロしている。
そんな市井の落ち着きのなさに、矢口はちょっと苦笑い。

「……紗耶香はさぁ」
「えっ?」
急に口を開いた矢口に、市井は内心ドキッとした。
(なに……? もしかして別れ話……?)

「紗耶香はさぁ、矢口と…その、そーゆうことしたいの?」
「え? ええっ?!」
思ってもみなかった言葉。返答に困る。
「え、あ、あ……。その、」
「その?」
しどろもどろになる紗耶香に、矢口がヨイショしてあげた。

「……し、したいっす……」

そして、それだけ市井は口にした。


一方。後藤はというと……。


「あ、終わった?」
従業員用の出入り口。そこに吉澤を待たせておいて、後藤はやって来た。
「よっすぃ〜! 逢いたかった(はぁと)」
一緒に出てきた保田のことを気にすることもなく、吉澤にキス。
暫く濃厚なキスが続く………。

「はぁっ……」
切なそうな息をはいて、後藤は吉澤から口を離した。
「ご、ごっちん長すぎ……」
吉澤は、肩で息をしている。
「あはっ? よっすぃ〜へばっちゃった?」
「へ、へばってなんかないよっ!」
情けないと思われたくなかったのか、見えすいた嘘をついてみる。
「ふ〜ん。……じゃあ、もう一回キスしようよ」
気づいているのに気づいてないふり。
へばってないと言い張る吉澤に、キスをおねだり。
「い、いいよ? 当然じゃん」
吉澤は、引きつった笑顔でオッケーした。

「……ん…んっ」
より深く吉澤の中を味わう為、少し背伸びしてみる。
「はあ…ごっちん」
誰も来ない場所で、吉澤も雰囲気に飲まれてきたのか、後藤のスカートの中に手を伸ばし始めた。
「……いいよ、ここでしよっか」


――

「あ、更衣室にケータイ忘れた……」
制服のポケットをバンバン叩きながら、真里が呟く。
「ごめん紗耶香。娘。レス(娘。レストランの略)戻っていい?」
「え、いいけど……さっき市井が言ったことに対しての返事は……?」
そんな市井の言っている事をまた無視して、真里は来た道を戻って行った。


キィーーッ。
「うおっ!」
何の前触れもなく自転車のブレーキをかけられた市井は、頭を真里の背中にぶつけてしまう。
「あ、ごめんごめん。止まるって言うの忘れてた」
自転車から降りて、市井の頭を撫でてやる。
「痛かった?」
「………うん」
「ごめんね?」
柔らかい市井の髪を掻きあげて、優しく梳いてやる。
もう二年も付き合っているのに、こんなちょっとした事でもドキドキしまう。
自分より一つ年上のはずなのに、かわいくてたまらない。
手を伸ばして、顔を近づけてみた。

「ダメ」
あと一センチ、という所でストップの声。
「今の紗耶香にキス許したら、それ以上のことしちゃいそうだから」
「し、しないよそんなことっ!」
「絶対する。現にさっき、『したい』って言ってたじゃん」
「あ、あれはやぐっちゃんが聞いたからじゃん! だいた……ん?」
喧嘩になりそうだったその時、市井の耳に何かが聞こえた。

「…は、あっ…っ……ふっ」
「ごっちん……」

聞き覚えのある二人の声。「何だ?」と二人、顔を見合わす。
ゆっくり、音をたてない様、声のした方に向かう。
そこには、壁にもたれかかった後藤と、その後藤を支える様にしている吉澤がいた。


「ちょ、あれって後藤とよっすぃ〜じゃない?」
「……だね」
ヒソヒソと、小声で会話。見つからない様に。
「や、やぱいよぉ〜、矢口ケータイ取りに行けないよ〜」
顔を赤くさせ、瞳を潤ませながら矢口が市井に訴える。
しかし訴えられても、市井にはどうすることもできない。今出て行ったら、後藤に
後で殺されるのは分かってるから。
「も、もうちょっと様子見ようよ……。もう終わるかもしれないしさ」
「うん……」
様子を見るのはいいが、当分終わりそうにはない。

「……ぁっ、やっ…んんっ……は…あんっ」
さすがに服を脱がすわけにはいかないので、下着の中に直接手を入れる。
右手は上の服を押さえて、舌で胸の先端を愛している。
「やぁっ……よ・っすぃっ…はあ!」
後藤の表情が変わった。どうやら指が挿入されたようだ。

「うわ……す、すっげぇ……」
さっきより更に身を乗り出して、後藤と吉澤の行為を凝視している市井。
「ご、後藤マジで胸でけえなぁ……」
そう言った瞬間に、矢口に肘鉄をくらわされる。
「悪かったね、小さくて」
「い、いやそういうつもりじゃ……。やぐっちゃ〜ん(涙)」


そんな二人とは正反対に、ラブラブな二人組。

「んっんっ…あ、ふあっ」
「気持ちいい……?」
視線を後藤の色っぽい瞳に向ける。
「き、気持ちいいよぉっ……もっ・もっとしてぇっ…!」
「わかった」
後藤の了解も得て、指をもう一本挿入してみることにした。
今後藤の中に入ってる指は全部で3本。

(や、やばい……。何か変な気分になってきた……)
隣にいる矢口の様子をこっそり窺ってみる。
矢口は顔を赤くしながらも、その行為じっと見やっていた。
(ぐわ。めっちゃかわええ……。その唇が、何か誘っている様に見えるのは気のせい?)
唇をじっと見つめてみる。すると、矢口がこっちを向いた。
ん?と首を傾げている。
今市井の目の前では、後藤達が行為の真っ最中。そして、今市井の隣には矢口がいる。
じゃあもう、選択肢はひとつしかない。
誘っている様な唇に、自分のそれを重ねてみた。

「ごめん矢口……。もう我慢できない……」
一応謝っておいて、ふとももを伝ってまだ誰にも触れられていない秘密の場所に入ろうとしている。
「ん〜っんん!」
やめて!と言いたくても、口を塞がれているので声が出ない。
抵抗しても、市井の馬鹿力ですぐに終わってしまう。
「っ! んん〜っ!」
市井の手が矢口の大事なところに触れた。それと同時に、舌が矢口の口内に侵入してくる。
チャンス!とばかりに、矢口はその市井の舌を思いっきり噛んでやった。

「〜〜〜っ!!」
痛さのあまり、声にでない。
口を押さえて。その場にうずくまる。
「はぁはぁはぁ……紗耶香の……紗耶香のばかぁ!!」
目に涙を浮かべて、声を出すだけ出して矢口はそこから去って行った。

残された市井は、矢口の声で行為を中断させられた後藤から、
拷問をうけたとは言うまでもない……。


家になんとか着いた市井は、矢口の家に電話してみる事にした。
携帯は更衣室に置き忘れているので。

4回目のコールで、矢口の母親が電話に出た。
「あ、市井っすけど……真里さんいます?」
『真里? ちょっと待ってね、今代わるから』
「はい」
待つこと数十秒……。
『なに?』
ドスのきいた矢口の声が聞こえてきた。

「あ、あのさやぐっちゃん、さっきのことなんだけど……」
『悪いけど、いいわけなんていいから。謝んなくてもいいし』
「ちょ、ちょっと話聞いてよ。そんな否定的になんなくてもさ……」
『聞く義理なんかない。それが用件なら切るよ? あたし、明日朝早いんだよね』
口調がつめたい。優しさがこもっていない。
それに。
(やぐっちゃんが自分のこと「あたし」って言ってる時は、死ぬほど頭きてる時
なんだよね〜……)

「むりやりやろうとしたのは謝る! あん時どーかしてたんだって!
気の済むまで市井のこと罵っても殴ってもいいからさぁ……許してよ……」
『………』
しばらく沈黙が続く。
「………やぐちぃ」
電話ごしに、情けない市井の声。
「好きなんだよ愛してるんだよ……だから。
だから、矢口のこと抱きたいんだ………。今までずっと我慢してきた。でも、ここに来て
もう押さえられなくなったんだ。矢口が欲しくて欲しくてしょーがない……」
『さやか……』
市井の心に秘めてた想い。二年も押さえてた気持ち。
『あたしだって紗耶香のこと愛してるよ。でも……』
それに応えてあげたい。でも、ある気持ちが邪魔をする。
『恐いんだよぉ……』


「ちょっとちょっと紗耶香! 早く洗い物片付けてよ!」
「へ? あ、ごめんごめん」
「まったく。何かあったの?」
「………別に」

市井は、ずっと考えていた。昨日の矢口の言葉。

『恐いんだよぉ……』

今にも泣き出しそうな声で、そう言った。
市井と早く結ばれたい。でも恐くて決心がつかない。
声をしゃくりあげながら、そう言った。

「恐い……かぁ。………おし、決めた!」
何かを決心したように、市井は一人頷く。
「圭ちゃ〜ん! どんどん洗い物持ってきて! 市井、頑張っちゃうから!」
そして、腕まくりし、山のようになっている洗い物に手を伸ばした。

――

午後5時。もうすぐ矢口が来る筈だ。
市井は休憩をもらい、おそらく携帯を取りに更衣室に直行するであろう矢口を、
更衣室の中で待っていた。
案の定、慌てた足音がこっちに向かってくる。

バン!

「ケータイケータイ〜〜!!……あ」
「うぃーす。おはよーございまーす」
軽く手をあげる。
「お、おはよ……」
矢口は市井の顔を見る事なく、自分のロッカーから携帯を取り出し、服を着替え始める。
「なんだよ〜。昨日のこと、まだ怒ってんの〜? 電話で死ぬほど謝ったじゃんか」
矢口のそばまで行き、ロッカーにもたれるようにして話掛けた。
「べ、別に怒ってなんかないよ。矢口、根に持つタイプじゃないもん」
制服のブレザーを脱ぐ。
「じゃあ、なんでこっち見てくんないの?」
市井はその手を掴んで、自分の方へと体を向かせた。
そして、優しく矢口を抱き寄せる。

「っ!」
矢口の小さい身体が、ビクッと大きく震える。
「大丈夫。昨日みたいな事、もうしないから……」
そう言って市井は、矢口の甘い匂いに引き寄せられるように髪に顔を埋めた。




「あー……こうやってると、すっげぇ落ち着く……」
さっきより少し、まわした腕に力を込める。
「昨日あれから、よく考えたんだ。矢口が言ったこと」
「……うん」
どれについて考えたのか判った矢口。市井から見えない矢口の顔は、今にも涙が零れ落ちそう。
「よく考えたら、二年も待ったんだよ市井。ある意味すごくない?」
そう言って顔を離し、矢口の目を見つめる。
「だからさ、……待つよ。これからも、ずっと待つよ」
「え……」
「矢口が恐くなくなるまで、ずっと待つ。でももしまた襲っちゃったりしたら、
舌噛んで止めてくれていいからさ。矢口が恐く無くなったら教えてよ。
そん時はエンリョなく襲っちゃいますから」
自分で言って、自分でハハハと笑う。
「五年でも十年でもいい。ずっと矢口のそばにいるからさ」
「紗耶香……さやかぁ!」
今まで抑えていたものが、一気に溢れ出す。
「な、泣くなよやぐっちゃぁ〜ん。やぐっちゃんに泣かれるのはちょっとツライっす。。。」
好きな子の涙にめっぽう弱い市井紗耶香。16歳。


それから十分程して。
「………ちょっとは落ち着いた?」
「……うん」
やっと矢口が泣き止んだ。ゆっくり市井の胸から顔を離す。
「ごめん紗耶香……。制服涙でグショグショ」
「ああいいよ別に。どーせ今日、朝から洗い物だったし」
親指で涙をぬぐってやる。
「紗耶香ぁ」
矢口はそのまま目を閉じ、市井の反応を待つ。
「ん。……」
「…………」
長い口付け。やっぱり涙の味がした。

「えへへ。なんか、今日紗耶香優しくない?」
「なにをー? 市井はいっつも優しいぞっ」
「うそつけ〜! よくそんなこと言えるね〜」
「ああ言えますとも。言えますとも」
市井の腕の中でじゃれ合う。しばらくして、また目が合った。
「……愛してる」
「あたしも……紗耶香のこと愛してる……」
そして、再び唇を重ねようとしたその時。

「おはようございます!………あれ?」

石川の、アニメ声が二人の甘いムードにストップをかけた。
「い、い、い〜し〜か〜わ〜(怒)」
市井の怒りの声。
「石川、いいかげん場の空気読んでよ……」
矢口のあきれた声。

娘。レストランは今日も平和である。………一部を除いては。


「あ〜〜ヒマだね〜〜」
「ヒマだね〜」
珍しく暇な、娘。レストラン。今日はこの近くにラーメン屋がオープンしたので、
客はそっちに持っていかれたんだろう。
午後8時半。客は3組。

閉店30分前の9時半になると、従業員とバイトしかいなくなった。
それぞれ、思い思いの人の所へ足を運ぶ。
矢口・後藤は市井の所へ。柴田や大谷らは、会話を楽しんでいる。
石川はというと………。

「保田さん、なんか手伝いましょうか?」
「石川! いい所に来てくれた!」
先輩保田の所へ、手伝いを買って出ていた。
「小湊さんがやめて、仕込みが追いつかなくなっちゃったのよ」
言いながら、器用にニンジンをみじん切りにしていく。
「とりあえず、圭織に聞いてくれる? 何やるか」
「え……あ、はい」
一瞬顔を歪ませた石川。それに気づき、保田が声をかける。
「なに? どーかしたの?」
「なんでもありません! じゃあ聞きに行ってきます」
頭を軽く下げ、飯田の元へ小走りに駆け寄る。
「飯田さん、なにかすることありませんか……?」
顔色を伺いながら、機嫌を損ねないように。
「ん? ああ、じゃああの二人なんとかしてよ。手伝うって言ったのはいいけど、
全然切れてないんだよね。肉」
そう言って、ギャーギャー騒ぎながら肉と格闘している矢口・後藤を指差した。


まずはお手本。ザクッ。綺麗に切れる。
「わかりました?」
「オッケーオッケー。簡単じゃん」
「じゃあ矢口から切る〜! ごっちん二番目〜」
「あ! やぐっつぁんズル〜イ!」
後藤の抗議も無視して、矢口は肉を切り始める。………しかし上手く切れない。
「あれ? なんで〜」
石川の方を見た。
「包丁をひくんですよ。そしたら上手くいくはずです」
アドバイスをもらい、もう一回再チャレンジ。……上手く切れた。
「おお! 矢口って天才?!」
肉が綺麗に切れた喜びを市井にも知らせたくて、スープの仕込みをしている市井の
そばまで駆け寄り、切った肉を見せてやる。
「紗耶香見て! 矢口肉切れた! 上手い?」
そんな子供みたいな矢口を見て苦笑いしながら、市井は答えてやる。
「おお、やぐっちゃんすげぇ。上手いじゃん」
市井の言葉に、矢口は照れ笑い。そこだけ甘い雰囲気が漂い始める。

「ちぇっ。なんだよおもしろくないな〜。ねえ梨華ちゃん」
お相手がここにいない後藤は、そんな二人がおもしろくない。
石川に同意を求める。
「えっ? あ、う、うん! そーだね!」
ボーっと飯田のことを見ていた石川。突然後藤に話を振られ、慌てて返事をする。
「なに? なんで慌ててんの? さっき誰見てたの?」
しかし、後藤に勘付かれた。
「べ、別に誰も見てないよ! 飯田さんのことなんか誰も!……あ……」
正直者の石川梨華。しかし、今回はあまりにも正直すぎた。
そこにいた全員が飯田の方を向く。どんな答えが返ってくるかと。
しかし。
飯田は黙々と材料を切っているだけ。
いつもはうるさい調理場も、この時だけは異様に静かだった……。


――あれから一週間

そろそろ客も落ち着いてきた頃、空いている者達は食事を取ることに。
しかし今日もいつもの様な賑やかさは無く、みんな黙々と料理を口に運んでいるだけ。
「……………」
無言。重苦しい雰囲気。
「あ、あのさー、このチャーハン味濃くない…? だ、誰が作ったの〜? 市井ちゃん?」
それにいたたまれなくなった後藤が、とうとう口を開いた。
「ご、後藤……それ市井じゃなくカオが作ったんだけど……」
「え……」
しかしその言葉は、更に雰囲気を悪くすることに。
タラーッと、額から冷や汗。
「あ! で、でもこーゆう味もいいよね! ね、梨華ちゃん!」
ごまかそうとした後藤であったが、それも失敗。
同意を求めた人が悪かった。

「……なんでいちいち石川に同意求めんの?」
飯田がギロッと後藤を睨む。
「あ、いや。別にそーゆうつもりじゃ……」
「そーいうつもりってどーゆうつもり?」
「ま、まあまあ!」
市井が止めに入る。
後藤はすかさず市井の背後にまわった。
飯田は市井に弱いってことを知っているから。だから市井を味方につけたのだ。
「………はぁ」
軽く息を吐き、身体にはいった力を抜く。そして食べ終わったトレイを持って、
厨房の方へ戻って行った。慌てて市井も後を追いかける。
「後藤っ! カオは市井がフォローしとくから、“そっち”は自分でなんとかして!」
最後に後藤にそう言って。でも後藤は“そっち”という意味がわからない。
「?」
意味がわからないまま、ふと左側を見てみる。
そこには、なぜか涙を流している石川がいた。

(そうか……。“そっち”って、梨華ちゃんのことだったのね……)
つられて泣きたくなる後藤であった。



――――

「今なんて言ったの?」

飯田の冷たい瞳が、店長の中澤裕子に突き刺さる。
しかし中澤は、その瞳を無視して話を続けた。

「だからな、今週3日間くらい休みとって、みんなで旅行行こうと思うねんけど。
ちょっとモメてるみたいやし、いっぺんみんなで集まって話してみるのもいいんちゃう
かな〜って」
飯田と石川がヤバイ雰囲気だというのは、従業員達から聞いていた。
でも昨日後藤に泣きつかれるまで、それは悪魔で二人の問題だから放っておこうと思っていた。
しかし。
後藤の話によると、石川は「やめる」と言ったそうで。
今石川にやめられると、中澤もツライ。ましてや社員だし。
そうなるともう、飯田と石川の二人の問題じゃなくなってくる。
だから、思い切ってこの計画を持ち出したのだ。

「え〜、参加者やねんけど、とりあえず絶対行く者はアタシと彩っぺ。んで紗耶香のバカも」
バカってなんだよ! そういう市井のブーイングは聞き入れない。
中澤は続ける。
「あと、カオリと石川。あんたらも絶対や」
「「は?」」
二人して聞き返す。
その後ろでは、市井がまだ文句を言っていた。

「ちょっと待ってよ。裕ちゃんに面倒見てもらってる紗耶香は判るけど、
なんでカオリと石川が絶対なの? おかしいよ、カオリ行かないからね!」
「あーごめん。もう遅いわ。もう決めたから」
興奮している飯田を軽く交わし、中澤は当日参加する人数をチェックしている。
参加表明を示しているのは、矢口・後藤・安倍・保田の四人。
他のメンバーは、その日用事があるみたいで手をあげていなかった。

集合場所をどこにするか相談している中澤に、後藤が「よっすぃ〜も連れて行っていい?」
と訴えている。
安倍は、石黒にその旅館の名物料理はなんだとしきりに質問。
保田はその横で苦笑い。
市井はまだブツブツと文句を言っている。
矢口は、そんな市井の頭をイイコイイコして、機嫌を直してやろうとしている。

みんなの様子を、じっと睨む飯田。
そして、何も喋らず下を向いている石川。

一体どんな旅行になるんだろうか……。


大きなワゴン車が二台。
一つの運転席には中澤。もう一つの運転席には石黒。
みんなそれぞれ、二手に別れた。

中澤の車の方には、市井・矢口、飯田・石川。
飯田・石川は、みんなに乗せられたのだ。
石黒の車の方には、中澤を説得し吉澤を連れて来た後藤と安倍と保田が乗っている。
後藤と安倍は、おかしの取り合い。
なんだか楽しそうである。
しかし、中澤達の方は……。


「………」
静まり返る車内。一番後ろに座っている二人から、イライラと暗い雰囲気が車内を包む。
真ん中に座っている市井と矢口は、それに怯えて背中を丸めている。
中澤は、「運転に集中しなければ!」 と、汗をかきながら前を向いている。
市井は、なんとかそんな空気を変えようと試みることにした。

「で、でもさ〜、市井温泉なんて久しぶりだよ。やぐっちゃんは?」
「えぇ? や、矢口ぃ?!」
いきなり振られたその会話に矢口は動揺。
でも頭の回転がいい矢口は、すぐに元に戻った。
「矢口は一年ぐらい前に一回行った。家族で」
「あ、そーなんだ。じゃ、じゃあカオは……?」
後ろを向いて、状況を伺う。
でも飯田からの返事は返って来ない。ウォークマンを聞いているから。
市井はめげずに問う。
「ちょ、カオ〜、質問してるんだから答えろよぉ〜」
肩をポンポンと叩く。
そしたら、その手を掴まれ、ついでにギロッと睨まれた。
蛇に睨まれた蛙。

大人しく前に向き直し、矢口になぐさめてもらう市井であった。


「もうヤダ! あの空気には耐えられません!!」

ガタガタ震えながら、パーキングエリアの食堂で市井が叫ぶ。
その両隣で座っている中澤と矢口も、うんうんと頷き市井に同意。
そんな三人を、苦笑いししながら見ている飯田・石川以外の五人。
五人は、まだ経験していないから判らないんだ。

その後の話し合いの結果、どうしても嫌だと言い張る三人の為に、
シャッフルをする事にした。
中澤車には、前と同じ市井・矢口、それに飯田・石川に変わり吉澤・後藤になった。
そして石黒車には、安倍と保田、そして飯田と石川という風に。

さあ、どうなることやら……。


「うわっ、ちょおもうやめろって!」
「や〜だよ。うりゃっ」
「イタッ! ちょっと後藤暴れないでよ、痛いじゃん!」
「う〜…せまい〜…」

運転している中澤の後ろで、ワイワイガヤガヤ騒いでいる四人。
椅子を倒し、その上でプロレスごっこをしている市井と後藤を、矢口と吉澤が
迷惑そうにしている。
中澤が
「うっさい! ちょっとは静かにせえ!!」
と怒鳴っても、一向に静かにはならない。
なんだか、シャッフルしても同じだったかもしれないと思い始めた中澤。

――

問題の石黒車は…。

みんな、額に冷や汗をかいている。
乗ってみて判った三人の気持ち。確かに、この空気には耐えられそうにもない。
安倍が石川にお菓子を薦めても「結構です」の一言で断られるし。
飯田は相変わらず、ボリュームを最大にして音楽を聴いているし。

石黒は少しでも早くこの空気から逃れようと、旅館へとスピードを上げた。


旅館に着いた一行達。

「いらっしゃいいらっしゃい。久しぶりやな〜みんな」

その旅館の中から、元気のいい関西弁が聞こえる。以前娘。レスで働いていた平家みちよだ。
実家のこの旅館が忙しくなってきたため、出戻って手伝いをすることにしたのだ。

その平家によると、中澤が平家に前もって言っていた大部屋は予約が入っていて取れなかったらしい。
だから、四人部屋二つと、二人部屋一つに別れなければダメなんだそうだ。
問題は、みんながどの部屋につくかどうか。


「絶対嫌」
当然のごとく、飯田に断られる。
中澤が、「二人部屋は、あんたと石川二人じゃ嫌か?」と聞いたところ、すぐにこの返事。
もし市井が飯田のように「絶対嫌」と言いようものなら、ゲンコツでも一発かますのだが。
相手は飯田。後々の仕返しが恐い。
以外と気の弱い店長中澤。

「あ、じゃあ二人部屋、あたしらリッコウホする〜!」
勢いよく後藤の手が挙がる。その隣には吉澤が。
「裕ちゃん。この二人絶対ふたりきりにさせない方がいいよ。
何するかわかんないからね」
そんな二人を横目で見て、保田が言う。
何するかって、一体何をするんだ。
しかし、みんなは保田の意見に頷く。
「ちょっと、みんななんで頷いてんのよ……」
「ハハハハ……」
ひきつり笑いの後藤・吉澤。


またまた話し合いの結果、半分は決まった。
四人部屋の一つは吉澤・後藤と安倍・保田。
そして、もう一つの四人部屋はまだ途中で、飯田と石川しか決まっていない。
残された市井・矢口と、中澤・石黒。
どちらかが、車の中のあの悪夢をまた経験しなければならない。

市井は考えた。
二人部屋を選びたいのは当然だが、そしたら当然矢口と二人っきりになってしまう。
まだ許してもらってないので、手も出せないし。
二人っきりで一緒にいて、理性が保てるわけない。
……結論が出た。

「んじゃあさ、市井達が四人部――」
「あたし達、二人部屋がいいっ!!」

でも矢口のためを想って考えた結論は、
あっさりと矢口によって掻き消された。


ドキドキドキドキ……

さっきからずっと鳴り止まないこの鼓動。
もっとも、鳴り止んだら困るのだが。
ただ、もう少しおさまってほしい。このままじゃ、息苦しくてたまらない。
市井と矢口、二人だけの部屋では。

目の前には、平家が気をきかせて敷いた布団一枚。
当然、寝る時には二人、その布団に入らなければならない。
もう夜ご飯も済ませ、温泉にも入った二人に残されたことは寝るだけ。
さっき、あの飯田達と仕方なく同部屋になった中澤達に「部屋でトランプせーへん?」と
誘われたのだが、矢口がそれを断った。だから、あとはもう寝るだけ。
……夜は、まだこれから。



「やぐっちゃん……」

とりあえず、名前を呼んでみる。そして、手に触れてみる。
それを拒んだら、たぶんまだ許してないってことだから。まだ恐いってことだから。
だから、手に触れてみて、拒むかどうか試してみた。
でも矢口は、

「………ん?」

優しく微笑み、市井の行動を嫌がらなかった。


「……いいの?」
細い、少し冷たい指に唇を落としながら。
「……理性、抑えなくていいの?」
それを、軽く口にくわえながら。
「……してもいいの?」
市井は問う。



少し震えた指。
伏せた瞳。
濡れた髪。
旅館の浴衣から覗いた太股。

市井の奥底にある欲望を掻き立てるのには充分。
今すぐ抱きしめてキスをして、メチャクチャにしてやりたいと思う。
襲おうと思えば、今までだって何度でも襲えた。
舌を噛まれたって何されたって、そのまま押さえつけとけばよかったんだ。
でもそれをしなかったのは。できなかったのは。

矢口が、泣いていたから。
小さな身体が、とてもとても震えていたから。
矢口のことを、愛してたから。

それが、理由。



「……もう、恐くない」
ゆっくりと、肩にもたれながら。
「紗耶香のこと、好きだから。愛してるから…だから」
市井の、浴衣代わりのジャージの裾を掴みながら。
「……してもいいよ」
矢口は答えを返した。


「んっ」
首筋に、吸い付くようなキスをされる。
押さえようと思っていても、出てしまう声。矢口の全身は赤く、火照っていた。
それは恥ずかしいからなのか、それとも感じているからなのか。
そんなことは、はっきりいって今の市井にはどうでもよかった。

布団に押し倒した時に崩れてしまった浴衣。
帯が緩んで、矢口の成長途中の胸が見え隠れしている。
その中央で固くなっているソレも。

「っ!……やっ…」

案の定、予想していた反応。やっぱり大きく震えて、やっぱり嫌がった。
はだけている浴衣を広げて、胸を露わにさせて、ツンと尖っているソレを口に含んだのだ。
市井は、ゆっくりそこから顔を離し、目に涙を溜めている矢口を見た。

「……無理しなくていいよ。恐いなら、やめるから」
優しく頭を撫で、軽く触れるだけのキス。
全部、矢口を想ってのこと。
「そんなさ、理性をコントロールできる程大人じゃないけど、矢口を想うことはできるから」
そんな市井の優しい言葉に、矢口の目から涙が零れた。
そして、一つの揺るぎない決心が固まった。
それは、もう止めれないことを意味する、最後の決心。決意。

「……続けて、欲しい……」


市井はそれを聞き目を丸くさせていたが、すぐに元に戻り、目で『いいの?』と訴えた。
矢口も、目で『いいよ』と返す。迷いはなかった。その目に。
市井はしばらくそのままの状態で考えていたが、何かを決心したかの様に、瞼にキスを落とした。
それを合図にするかのように、行動に出た。

激しい激しいディープキス。市井にしては珍しく乱暴。
息をするのにもやっとな感じ。しかもその上、市井の右手は矢口の胸の先端を攻撃しているし、
左手は帯を外しているところだった。
ジンジンと感じる身体の奥。激しいキスで、とろけそうになる脳。
触れられている所から感じる相手の温度。
もう、頭が真っ白だった。


「……ぁ…んぅっ……んっんっ、やぁっ……」
足をMの字のように開かされ、部屋に響く厭らしい音。
出てくる涙も蜜も、自分じゃ抑えられない。
ただ、出来る限り声を出すまいと我慢するのと、快楽に溺れないようシーツをぐっと握り締める
ことだけしか自分には出来ない。
「…声、もっと聞かせてよ…」
一生懸命舐めていた矢口の大事なトコロから顔を離し、市井は言う。
でも矢口は市井のリクエストを聞く余裕すらない。身体をヒクつかせることしか出来なかった。


「あうっ!…さ、やかぁっ……んっ」
身体は力が全然入らない。今にも、意識が飛んで逝きそうだ。
でも矢口は頑張った。まだだ。まだイっちゃいけない。
紗耶香と結ばれるまでは。紗耶香とひとつになるまでは。
そんな矢口の頑張りが、もうすぐ報われようとしていた。


ゴクッ。

「いくよ……」
「う、うん……」
目を瞑って、その瞬間を待つ。
「じゃあ――」

「わーーっ!! やっぱダメだ〜〜!!」
「もうよっすぃ〜! ダメだよ罰ゲームなんだからぁ!」

ギャアギャアと騒ぎ出す後藤と吉澤。
トランプをしていて吉澤が負け、今からしっぺをしようとしていたらしい。
それを、吉澤が嫌がったのだ。

「だってごっちん痛いんだもん! アトいつも残るんだからな!」
「でもしょうがないじゃん、よっすぃ〜負けたんだから。ハイ、もっかい手出して」
嫌がる吉澤の手を掴み、腕をまくって、スタンバイさせる。
「じゃあいくね〜?」
「い、嫌だぁ〜!!」
吉澤の抗議も虚しく、後藤の手が振り下ろされる。

バッチ〜〜ンッ!!!
「いってぇ〜〜〜!!!」

「うっさいなぁ、この子ら」
「ま、しょうがないべ。まだ子供だし」
冷静な保田と安倍。
「大げさだなぁ、よっすぃ〜は」
自分のバカ力を知らない後藤。

吉澤の叫びは、市井達の部屋まで聞こえた。


「…ちょっ…!」
「……ん?」
肩を押されて、キス寸前の所を止められる。
「なんか今、よっすぃ〜の声聞こえた……」
「……はあ?」
何言ってんだよ、という市井の顔。
無視して、キスを再開しようとするが、また肩を押されてやめた。

「……やぐっちゃん、ここまで来てムリっていうのは、ちょっとツライものがあるよ」
髪の毛を掻きあげて体を起こす。イイトコロをジャマした吉澤の声が、ちょっとむかついた。
「………やめる? やっぱ。そっちの方がいいかもね……」
ちょっと、いや、かなりもったいないけど。
とりあえず、今日はもうやる気が失せてしまった。
これからだったのに。キスをしたら、矢口と一つになろうとしたのに。

「あ〜あ」
大きなため息をついて、市井は立ち上がった。
「えっ、紗耶香ドコ行くの?」
「……外ぉ」
先寝てていいよ、と言って市井は部屋を出て行った。
矢口は追いかけようとしたが、何せ服を着ていないので、すぐには追いかけられない。

「……なんでこーなんのさぁ!」
服を急いで着た矢口は、半分半泣きで市井を追いかけた。


「う〜寒いよぅ、アイツどこいんのさぁ…」
服を急いで着たのはいいが、上着を羽織ってくるのを忘れた。
今の季節は11月。浴衣だけじゃ異常に寒い。
「はっくしゅん!……う〜」
涙はまだひっこみそうにない。


「ふう…」
部屋に戻ろうかと考えたが、もう少し外で待ってみようと近くに腰を下ろす。
寒さで体が震えたけど、先程の行為を想い出したら少しマシになった。
「って、何想い出してんだ矢口は!」
ブルブルと頭を振るけど、やっぱりそんな事で思考を停止できるはずがなく。
顔を赤くし、体温も少し上がらせることに。

「せっかく決心したのに。ずっと我慢してたのに。……なんであそこで止めちゃったんんだろ」
吉澤の声が聞こえて、もしかしたらこの部屋に遊びに来るかも、とか思ったから?
違う。ほんとは、まだ恐かったんだ。だからかもしれない。
だから市井はそれを察して、途中でやめたのかも。
「あやまんなきゃなぁ〜……」
さっきの市井のあきれたような顔を思い浮かべながら、矢口は小さなため息をついた。


「さみーな〜外。まるで、市井くんのココロみたいだ」
市井は呟く。今は一人なので、こんなバカを言ってもツッコミは返ってこない。
それは嬉しくもあり、寂しくもあった。

今市井がいる外とは、旅館の玄関から左へ行った外。
矢口がいる外は、旅館の玄関から右へ行った外。
矢口は、迷った末に右を選んでしまったのだ。左を選んでいたら逢えたのに。
もちろん市井は、矢口が外に出ているのも自分を追いかけてきているのも、何も知らない。
一人でバカな事をずっと言っていた。

「この真っ暗闇は、今の市井の気分。この寒さは、今の市井の心の中だろ?
あとそれから……」
自分の気持ちに例えるもの探すため、キョロキョロ辺りを見渡す市井。
矢口は、このバカのどこを好きになったのだろうか。
ちょっと、いやかなり謎である。


ガサッ

そんなバカな事を考えている時、どこからか音がした。
「……?」
音のした方をじっと見やる。
もともと目が据わっている市井の睨みは、そこらのヤンキーさんより恐い。
「石川ぁ、出て来なよ」
名前を呼ばれた少女は、出て行くしかなかった。

「あ、あのっ」
「あーちょっと待って。判ってるから」
口を開こうとした石川を、ストップという感じで止める。
「カオでしょ? 石川が市井に用あんなんて、それくらいしか思いつかないし」
「……はい」
小さく頷く。
「なんかあの部屋居心地悪くて、眠れなくて。外の風に当たってたら市井さんが出てきたから…」
「そりゃ居心地悪いだろうね…」
(しかし、石川で居心地悪いって言ってたら、裕ちゃんと彩っぺはどんなにツライんだろ)
市井、ちょっと二人に同情。

「で? カオのどんな事が聞きたい?」
気を取り直して、話を元に戻す。
「大体の事は知ってるよ。付き合い長いしね」
「はあ」
「カオはね、自分の気持ちを出すのがイマイチ苦手なんだ。
だから時々、みんなに『何考えてるかわかんない』とか言われちゃう。
ほんとは色々考えてんだけどね」
それが、みんなにはあんまり伝わらないだけ。
石川は、市井の話を黙って聞いていた。


「……って、石川は別にこんな話聞きたかったわけじゃないよね」
「あ、いえ。飯田さんの話、もっと色んなこと聞きたいです!」
「………ふ〜ん?」
しまった。また口を滑らせてしまった。
市井は、ニヤニヤしながら石川の方を見ている。
「べ、別にそーゆう意味で言ったんじゃないです!」
「そーゆう意味ってどんな意味?」
「…………」
完全に弄ばれている。
いつもは自分が石川の立場なので、反対にからかうのがおもしろい。
「なあ石川〜、そーゆう意味ってどんな意味?」
もう一回同じ質問をしてみる。
石川は、ちょっと涙目になった。

「げっ、ごごごめん、ちょっとしたジョーダンだって。石川?」
泣かれちゃ困る。石川を泣かしたら、飯田に何されるかわからない。
市井は必死に慰める。
「もうからかったりしないからさ、ちゃんと石川の質問に答えるから。
だから泣くのは止めてくれ〜」
頭を撫でてみたり、背中をさすってみたり。
色々としてみるが、それはまったく逆効果。
人は、優しくされると、余計涙が止まらなくなる。
石川は、泣き出してしまった。



一方、市井と反対方向の右に行った矢口真里は。
「……もしかして、左の方に行ったのかな…」
寒さで冷たくなった指に息を吹きかけながら、矢口は立ち上がった。

市井の女難は、どうやら相当悪いようだ。


(なんでこーなるんだ……)
先程の自分の発言を思い出し、一人自己嫌悪。
その間も、ちょっとでも早く泣き止むように頭を撫でる手は休めない。
どうでもいいことだが、寒さが強くなってきた気がする。
市井は、さっきの時の罪悪感も含めて、来ていた上着を石川にかぶせてあげた。

「ありがとうございます……」
消え入りそうな小さい声。
「いいってことさ。これも、紳士ならトーゼンのこと」
市井は、おちゃらけて言葉を返した。……内心、また泣くんじゃないかとドキドキもんだったが。


それを、物陰から覗いている金髪の少女。どうやら市井を発見したようだ。
(アイツ〜! その上着を矢口に貸せよ! 誰が紳士だ、誰が!)
頭に来たので、その場に乗り込んでやろうとした矢口の腕を、後ろから誰かが掴んだ。

「キャッ――」
「しーっ! 静かに!!」

それは、飯田だった。


「圭織! なんで……」
「事情は後で話す。とりあえず、見つかるから座って」
そう言って頭を押さえつけられて、また物陰からひっそりと様子を窺うことに。

「……ねえ、」
「…ん? ああ、なんでここにいるのかって?」
今度はちゃんと場を読んで、ヒソヒソ声で。
目線は、さっきから何やらいい雰囲気の二人を睨みつけながら。
「そう。あ、矢口はちょっと事情があってあのアンポンタンを追っかけて来たんだけどね」
アンポンタン=市井。
さすがに、行為の途中で外に出た市井を追ってきたとは言えなかった矢口。
それを察したのか興味なかったのか、飯田は詳しくは追求しなかった。
内心ちょっとホッとする。しかし、問題はそこではない。
「圭織は、どーしてここにいんの?」

一瞬、空気が凍りついたかのように動かなくなったが、それはほんとに一瞬だった。
「カオリは…」
決心したように、口を開く。

「カオリは、石川を追いかけてきたんだ……」


深刻なムードの矢口&飯田とは違い、かなりいいムードが漂っている市井&石川。
どうしてこーなったかわからない。気がついたら相手が変わっていた。
しかも市井&石川は、自分達を見ている矢口&飯田には気づいてない。
のんびりと、石川が泣き止むのを待っていた。

シュッシュッシュッシュ。
軽い摩擦音が隣から聞こえる。
石川が潤んだ目のまま市井の方を見ると、市井は腕を振っていた。
「……何してるんですか?」
疑問に思って問う。
「ん? いや、運動運動」
腕を振っとかなきゃ、仕事に戻った時にツライしね。
そんな見えすいた嘘をついてみる。
実際は、寒くてちょっとでもあったかくなろうと思って腕を振っているのだ。
石川にカッコつけて上着を貸したのはいいが、このままでは自分も風邪をひいてしまいそうだ。
でも、まさか「返して」なんか言えない。
だから、体を動かして寒さをちょっとでも防いでいるのだ。


「矢口も腕振ろうかな……」
四人の中で一番の薄着の矢口。市井の真似を試みようとする。
「ダメだよ。音聞こえたらどうすんの」
それを止める飯田。
「んなこと言ったって寒いんだもん! 圭織いっぱい着てるんだからちょっとは貸してよ!」
上着、マフラー、手袋。装備はばっちりの飯田。
それに比べて、旅館の浴衣一枚の矢口。
「やだよ。圭織も寒い。それに矢口がいけないんじゃん、そんな格好で外出るから」
「うっ」
それを言われちゃもう終わり。
だって、急いでたんだもん……。
誰に聞かせることもなく、小さく呟いた。


一方、ほのぼのモードの二人は。

「市井さん……」
「ん?」
「市井さんって、優しいですよね…」
「ああ、よく言われます」
「あははっ」

とーってもいい雰囲気。先程まで泣いていた石川も、だんだん泣き止んできた。
その顔からは、笑みがこぼれる。市井は思った。
「石川ってさ〜、かわいい顔してるよね」
「ええっ!?」
突然言われて驚く石川。
「彼女にしたくなるよ、ほんと」
そんな事をにっこり笑顔で言われると、市井の事を好きじゃなくてもドキドキする。
体温が上昇していくのを止められない。
「純だよね〜。やぐっちゃんにも見習ってもらいたいくらいだ」
カッカッカッと笑って、石川の頭を撫でる。そこに矢口と飯田がいることも知らずに。


「……あんたにも見習ってもらいたいくらいだよ、紗耶香!」
眉をつり上げ、拳を振りかざし、矢口は呟く。
その時、不意に後ろからガタッと音がして、矢口は悲鳴をあげてしまった。


「ん?」
その悲鳴に市井が気づく。
(やぐっちゃん……?)


「シーッ! 猫だよ、猫!!」
隣にいた飯田が矢口の口を押さえる。その時は慌てていたので気づかなかった。
市井がこっちを見ていたことも、実は矢口の頭が隠れていなかったことも。
そう。市井にバレてしまったことも。


(……ふ〜ん)
声が聞こえたところから見える金パツの頭を眺めながら市井は思った。
(後ついてきたんだ。しかも、あの感じじゃ一人じゃないな)
矢口と一諸にいる誰かを考える。すると、一つの面白い事が頭に浮かんできた。

「ねえ石川?」
「…はい?」
何かを含んだような笑み。

「………キスしよっか?」

市井のその言葉に、三人は同時に聞き返してしまった。

「「「はいぃっ!?」」」


「だからぁ、キスしよっかって言ったの。別に驚くこたぁない」
「いや、驚きますよ普通は。……っていうか、冗談ですよね?」
その石川の問いは、陰に隠れている二人の問いでもある。
息を呑んで、市井の答えを待つ三人。

「え? 本気も本気。大マジだけど」
しかしその答えを当たり前のように言う市井。
「だから早くしようよ。せっかく邪魔者もいなくて二人っきりなのに」
「えっ…ちょ……」
石川の後ろに左手を回し、頭に手を添える。
右手は石川の手を握って、ゆっくりと顔を近づけた。

「やっ…!」
顔を反らして抵抗しても、市井は離してくれない。
「じっとしといた方が身のためだよ…」
そう言って市井は腕に力を込めて石川を動けないようにした。
そうして唇が触れる1cm手前。
事件が起こった。

「「さやかぁ!!」」

怒鳴り声と同時に飛んで来る蹴り。市井はものの見事に吹っ飛ばされる。
さっきまで1cmの近さにあった顔が、今は3mも先。

「ほ、ほらね…じっとしといた方が身のためだっただろ……?
動いててへたすりゃ、市井と同じようになってたよ……」
それだけ言って、市井は事切れた。
石川はしばらくボーゼンとしてたが、目の前に差し出された手に顔をあげた。


「いいださん…?」
それは決して見間違いじゃない。見間違えるはずない。
だって、いつも見てたんだから。


何となく通ってた高校。
退屈だった。おもしろくなかった。
そんな時、いつも何となく見てた景色にあなたを見つけたんです。
いつもどこか不機嫌そうで。でも時に市井さんと歩いてると笑顔を見せて。
二人のあとをつけたこともあった。
それで、レストランの従業員だという事を知った。
ついでに、ウェイトレスの募集をしてることも。

話したかったんです。あなたと。
笑顔を近くで見てみたかったんです。あなたの。
好きなんです。あなたが。


「いいださん……」

あなたは、私のこと、ちょっとでも好きですか?


ドスドスドスドス!
まるで鬼が歩いているかのような足音。矢口だ。

「もう絶対許さん! 紗耶香! 矢口怒ってんだからね!!」
服の襟を掴み、激しく揺らす。
しばらくそれを繰り返していたら、市井が息を吹き返した。
「や、やぐっちゃん苦しい…」
「うるさい! 紗耶香が悪いんだから!……ぅ…っ…」
「げ、ちょ、ちょっとやぐっちゃん…」
泣かせるつもりはなかった。
ただ、あの二人にきっかけを与えたかっただけで、そりゃちょっとは悪いかなとは思ったけど。
「な、泣くなよ〜、さっきのは本気じゃないって! 市井はやぐっちゃんだけだって!」
キスしたいと思うのも、抱きたいと思うのも。
「わかってるよ、わかってるけど……」
飯田を仕掛けようと思ってやった事も、市井がどれだけ想ってくれてるかという事も。

「でも、ほんとにキスしようとするかぁ!?」
「だ、だからそれは…」
「だからじゃないよ! 少しは矢口の気持ちも考えろぉ!!」

この二人の喧嘩は、朝まで終わりそうにもない。


「はい」
「あ、ありがとうございます…」
飯田に連れられ旅館に戻った二人。
石川は、飯田に奢ってもらった熱いコーヒーを一口飲んだ。
「あつっ」
口を押さえる。
「……バーカ」
飯田にあきれられる。
石川は、また泣きそうになった。

「……ごめんなさい……」
ついいつものクセで謝ってしまう。
別に、飯田に何かして迷惑をかけたわけではないのに。
自分が勝手にヤケドしただけなのに。

飯田さんといると、謝ってばっかり…

石川は、溢れてきた涙を手の甲で拭った。

初めて面と向かって話した時から、ずっとこんな調子。
ほとんど空回り。
楽しくお喋りしたことなんて、片手で数えるくらいしかない。
それも、二人っきりでじゃなく、市井やら後藤やらが一緒にいる時しか。

でも、それでも私は、飯田さんが好きなんです。


「飯田さん……」
涙目の上目使いで、飯田を見つめる。
「な、何」
飯田の顔に、少し朱色が入った。石川は続ける。
「私、飯田さんのこと、好きです。飯田さんは私のこと、どう思ってますか?」


「え…」
何回か間接的には聞いていた石川の自分に対する気持ち。
でも、後藤や中澤達からそんな事を聞いても、絶対ウソだと思っていた。
でも、本当だった。
それを、直接的に聞くのは、初めてだった。

「カ、カオリは…石川のこと……」

好きだよ。好きで好きでどうしようもないよ。
入りたてで、料理運ぶ時失敗して、お客さんに怒鳴なれて、店長…裕ちゃんにも怒られたその後、
陰で声を押し殺しながら泣いてる所を見た時から好きだった。
守ってあげたいと思ったんだよ。石川を。

嫌いだったら、アトなんかつけないよ。
一人じゃ外危ないと思って、アトなんかつけない。今ごろ眠ってる。
紗耶香とのキスだって、ジャマなんかしなかった。

好きだから。
好きなのに。
不安にさせるような態度を取ってしまう自分。
素直じゃないから。

どうしたらこの気持ちが伝わるのか。
どうしたらこの気持ちが伝わってくれるのか。
それを、勇気を出して、今日だけでも態度にだせばいいんだ。
素直な自分に。

「カオリも……カオリも石川のこと――」


「わーーっ!!」

『好き』と言おうとした飯田のセリフは、どこからともなく聞こえてきた
吉澤の絶叫で遠くに消え去った。

 ・br>
「ごっち〜ん、もういーかげんにしてよぉ!
ほら見てみなよ! ごっちんにしっぺされたとこ、メッチャ腫れてんじゃん!」
「泣き落とししたってダメ。負けたんだから、文句言いっこナシ」
「や、や、や、やめてくれ〜!」
「ハーイ、手ぇ出して〜」
「わ、わ、わ、わーーっ!!」

市井と矢口の甘い時間も邪魔し、今度は飯田と石川の愛の告白も邪魔した吉澤。

「うっさいなぁ、この子ら」
「ま、しょうがないべ。まだ子供だし」


 +++++++++

(吉澤……絶対ブッ殺してやる!!)
人がせっかく勇気を出して素直になろうとしたのに。
それをジャマされた。
石川には悪いけど、またいつもの素直じゃないカオリに戻っちゃったよ。

「……部屋戻ろう。裕ちゃん達起きてるかもしんないし」
またいつもの仏頂面に戻り、石川に言う。
「え? え?」
まだ返事も何も聞いてない石川は、話を反らされてどうしようも出来ない。
「……あ〜〜もう!! ほんとにトロいなぁ!!」
グイッと石川の手を掴んで、歩き出す。
繋いだその手は、なぜかとても熱かった。
それに、横顔もなぜか、とても赤かった。

返事はちゃんと聞いてない。
でも、さっき言いかけた時、『カオリも…』と言った。
そう。『カオリ“も”』と。

なぜか熱い手。なぜか真っ赤な顔。
『“も”』という言葉。
それだけで、鈍い石川でも判った。


「あははっ」
斜め後ろから聞こえる笑い声。
「な、何よ…」
どもりながら、飯田は聞いた。

「……私、素直じゃない人、大好きです。
飯田さんは、トロい人、大好きですか?」

聞かれた飯田は、真っ赤な顔を更に赤くして。

「ま、まあ、嫌いではないね」

斜め後ろから、また笑い声が聞こヲたのは言うまでもない。



夜は明け、一泊二日の旅行も終わり。
残り二日はゆっくり家で休んで、一月の十五日から店を開けるとのことだった。
しかしその帰り道、飯田と石川の険悪ムードは消えたのに、
新たに違う険悪なムードがいくつも漂っているのに気づいた。

まず一つ目の険悪ムードは、市井と矢口。
市井の左頬には、誰かに付けられた手のひらのアト。
いつもならくだらない話なんかをしたりしているのに、今日はお互いそっぽを向いてしまっている。
一番最悪なムードが漂っている。

二つ目。市井と飯田。
まあこれは飯田が一方的に睨んでいるのだが。
市井は、飯田と目を合わさないよう、何度も視線を泳がしている。

三つ目は、飯田と吉澤。
これも、飯田が一方的に睨んでいる。
吉澤の左目はパンダみたいになっていて、後藤に心配されている。

四つ目。市井と吉澤。
飯田と矢口と目を合わせないよう試行錯誤しながら、ヒマがあったら吉澤を睨む。
元はといえば、矢口と険悪なムードになったのも、吉澤のせい。
吉澤の右目はパンダみたいになっていて、後藤に心配されている。

最後、吉澤と後藤。
両目をパンダにし、さっきから感じる強い睨みに耐えながら吉澤は思う。
パンダになったのは、ごっちんのせいだ。
うちは、市井さんと飯田さんの邪魔をしたくて叫び声をあげたんじゃないんだ。
ごっちんの、手加減なしの、馬鹿力のせいだ。


車は、行きより重い空気を感じながら、快速に戻って行った。


++++

「ヒマ」
「うん。ヒマだね〜」

旅行から帰って次の日。仲直り(?)もしていつも通りの後藤と吉澤。
ゲームをしてみたものの、長く続かない。
話をしてみたものの、どちらもマイペースな二人の間は非常に長く、途中で打ち切り。
キスをしてみたものの、その続きをする気分が乗らない。
………ヒマだった。

「………ん〜」
ゴロンとベッドに横になり、何か会話になるような事を探す。
「あ、そーだ!」
ポンと手を打ち、後藤はこう言った。

「よっすぃ〜さぁ、こないだバイトしたいって言ってたじゃん?
ねえ、娘。レスで働かない?」
「はい?」
まあ、確かにバイトしたいとは言った。でも、話が急すぎないか?
「あのね、ホールは間に合ってんだけど、厨房、小湊さんが辞めちゃって、人探してんだよ。
洗い物とか、仕込みの手伝いとかが主な仕事なんだけど」
「え、でもあたし経験ないよ」
「経験なんていいんだよ。やりたいって気持ちがあれば!」
なんだか、妙に張り切っている後藤。
「…なんでごっちんそんなに勧誘してんの?」
疑問に思って聞いてみた。
「えぇ? だってさ、よっすぃ〜が一緒の職場にいたら、どこでもイチャつけるし」
「あ、ああそう……」
やっぱり、そう言うと思ったよ。吉澤は、苦笑しながら言った。


「一応、面接受けてみようかな」
「えっ、ホントに!?」
長いこと説得したかいがあった。吉澤は、乗り気になってくれたみたいだ。
「じゃあさ明日店長に言っとくから、よっすぃ〜店来てよ!」
「きゅ、急だね、明日って…」
「何言ってんの! こーゆうのは善は急げってね!」
「は、はあ……」

いやに張り切っている後藤。
それを、ちょっとあきれながらもニヤニヤし、ついていっている吉澤。
付き合って三ヶ月。
そろそろ、そんな二人に危機が迫っていた。


ふと思った。
今自分は娘。レストランの前にいる。
学校は休み。娘。レストランも休み。
じゃあ、なぜ自分は娘。レストランの前にいるのだろうか。


「店来てよって言われて来たけど、店閉まってんじゃん……」
張り紙を見ると、明日十五日から再開とのこと。
今日は十四日。
「もちろん、店長の中澤さんもいるわけないし…。あ、でもごっちんが連絡して
くれてるはずだから、ここで待ってたらその内来るのかな?」
しかし、待っても待っても中澤は来ない。かれこれ、一時間半程過ぎた。

しびれを切らした吉澤は携帯をカバンから取り出し、後藤に電話をかける。
プルルル…プルルル…
三回目のコールの前で、後藤が電話に出た。

『はいもしもしー? よっすぃ〜どーしたの?』
「……どーしたもこーしたもないよ! 中澤さん来ないじゃんか!」
『え? 店長? 店長がどーかしたー?』

この寒い中、一人で待ってたのに。
どうやら後藤は、昨日自分が言ったことをすっかり忘れていたらしい。

『あ、店長に言うの忘れてた…。娘。レストラン開いてないのも…』
「………はぁ」

体から力が抜けていく。脱力。

「もういいよ…、判った。とりあえず今日は帰るよ。
待ってても中澤さん来ないんじゃ、娘。レスの前にいても意味ないしね……」
『ご、ごめんね? よっすぃ〜怒っちゃわないでよ?』
「うん……じゃあね」
『じゃ、じゃあ…ホントごめんね?』

最後は、返事もせずに電話を切った。
「……はぁ」
ため息をついて、携帯を見つめる。
「………なんか、なんか、……なんだよね〜……」

相手への、不満と信頼は薄れていくばかり。


次の日。
吉澤は、途中矢口と会い、一緒に娘。レスに向かった。
昨日あれから後藤から電話がかかって来て、今度はちゃんと話をしたから
明日来てくれと言われたのだ。
「にしても、今日は市井さんと一緒じゃないんですか?」
「紗耶香? ああ、だってアイツは朝からだから。一緒にいる方が珍しいよ」
「あ、そーなんですか。じゃあもう今働いてるんスか」
「うん」
そーいえば、社員だもんね。
すっかり忘れてた。


「おはよーございまーす」
「あ、おはよーございます」
娘。レスの裏口から入った途端、矢口が挨拶をしたので、自分も同じように。
そして、矢口に誘導されて更衣室にも案内された。

「じゃあ矢口は着替えなきゃいけないからここで。あ、裕ちゃん……でなくて、店長は事務室にいるから。
事務室は、右曲がって、左側のドア」
「わかりました。ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして。じゃあね〜」
「あ、はい」
軽く頭を下げる。矢口は手を振って更衣室に消えた。
と、同時に、矢口と入れ替わるように出てきた保田。
「あれ? 吉澤どーしたの?」
ここにいる事に疑問を感じて、吉澤に問い掛けた。

保田にも面接に来たと説明し終え、ドキドキしながら事務室に向かう。
別に会ったり喋ったりするのは初めてじゃないのに、面接だというと緊張する。
スーッと息を吸って、意を決してドアのノックをした。

「誰〜? 入っていいで〜」
軽い返事。
中澤らしいといっちゃあ中澤らしいが。少なくても吉澤は少し力が抜けた。
「失礼します…」
「あ、その声は吉澤か。どうぞ」
迎えてくれたのは、タバコを口にくわえて、えらくにやけた顔の中澤店長。


「いや〜、ほんま助かったわ。マジで人手が足らんかってん。
ごっちんに感謝やで、ほんまに。あ、もちろん吉澤にもな」
「あ、はあ……」
「ひゃっひゃっひゃっひゃっ」
恐いくらいに笑顔。一体何があったというのだ。
「ど、どーしたんですか、店長」
慣れない店長という言葉に照れながら吉澤が言う。
「え? いや、あんな―」
顔をにんまりさせながら、言おうとした時、

「店長! 今お客さんからクレームきたから早く来て!」
中澤と正反対に不機嫌極まりない顔で乱入して来た飯田。
中澤はバツの悪そうな顔をして、
「はーい! 今行きます今! あ、吉澤は明日からよろしくなー」
それだけ言って、そそくさと事務室を出て行った。
残った飯田と吉澤。

「……店長から何聞いた?」
「えっ?」
「だから、店長から何聞いたって言ったの!」
何故だか自分にも怒っている飯田。
「い、いや、別に何も……」
それは本当だ。言う前に飯田に乱入されたから。
「嘘だ。あなたは嘘をついている」
でも飯田には通じない。
「だーかーらぁ、……何があったんスか。何怒ってんですか」
「けっ、しらばっくれてさ。店長に全部聞いたくせに」
「だから何を」

「……カオリと石川が、手を繋ごうとしてたこと!!」

………はい?
「いえ、全然、初耳ですけど…」
一瞬、あっけにとられた。
そうか。それを中澤さんに目撃され、それを自分に言われたと思い込んだのか。
しかし、手を繋ごうとした所を見ただけで、そんなに怒る飯田さんって……。
キスしようとしてたんだったら判るけど……。
ウブなんだね、この人は。

「あ、そ、そう。じゃ、じゃあカオリ行くわ。い、今の忘れて」
顔を真っ赤にして。動きがギクシャクしている飯田。
「あ、はあ」
吉澤は、矢口にしたように軽く頭を下げ、飯田を見送った。
一人残った吉澤。

「ここは、変わった人達の集まりだな……」
一人頷いて納得して、事務室を出た。


「………これからどうしよう」
想像していた時間よりも、面接が早くに終わってしまった為、時間が狂ってしまった。
家に帰るのもなんだし、かといって一人でどこかに寄って行くというのも虚しい気がする。
じゃあどうしようか。
考えた結果、こうすることにした。

――

「お待たせしましたぁ。エビグラタンのお客様」
「あ、はい」
目の前においしい匂いを漂わせ、運ばれてくる料理。
「お手元熱くなっておりますので、お気をつけ下さい」
「あははっ、うぃーす」
慣れた様子で接客する矢口を前にして、吉澤は笑ってしまった。

「あー、なんでそこで笑うかなぁ」
「いや、なんか、……はい」
「なんだよ〜」
矢口もつられて笑い、吉澤の頭を軽く小突く。
そして、吉澤と向かい合わせになるようにして座った。
「へへへ。ちょっとサボってやる」


回りを見ると、そんなにお客は入っていない。
ちょっと頭を動かして厨房の方を見てみても、そこもヒマそうだった。

「ね、よっすぃ〜、ジュース飲んでいい?」
そんな矢口の声に、頭を矢口の方に戻す。
「あ、どーぞどーぞ。……でも、市井さんに怒られませんか?」
「へ? なんで」
そう言いながらも、もうすでにジュースを口に含んでいる矢口。
吉澤は、ヒヤヒヤと厨房と矢口を交互に見ながら言った。
「だって、それって間接キスじゃないっスか。ストロー」
人差し指を、ストローの方に向ける。つられて矢口もストローを見た。
でも、それもすぐに終わり、目尻が下がった目を吉澤に向けた。

「キャハハッ、いくらなんでも、それで怒るようなヤツじゃないよぉ。
たかが間接キスくらいで……」
「『たかが』じゃない! 『たかが』じゃ!!」

しかし、矢口の思いも虚しく、それで怒るようなヤツだった。
血相を変えて、こっちに向かってくる。

「つーかさぁ、なんで吉澤といるんだよ! 仕事しろよ仕事!
こんなとこでサボってんなよな!」
ヤキモチ妬いてます丸出しで、そう怒鳴る市井。
そして素早くコップからストローを取り出し、おしぼりで口の所を拭いた。
しかもそのストローをごみ箱に捨て、ご丁寧に新しいストローを持ってくる。
矢口は、あきれて市井を見ている。
「…………別に、そこまでしなくてもいいと思うんだけど」
「………うっさいな。やぐっちゃんにはカンケーないだろ」
「いや、カンケー大アリだって。別に、間接じゃん。直接じゃないじゃん」
「どっちも一緒だ!………やぐっちゃんは、それでいいのかもしんないけど、市井はヤなんだよ。
……早く仕事戻れよ」
「……………」
しばらく下を向き、黙って唇を尖らせ、キッと顔を上げ市井をじっと見て。

「……一生怒ってろ! バーカ!!」
子供みたいにそう言い残し、矢口は中に消えて行った。


「怒ってんのはそっちじゃんか……」
矢口の後ろ姿を見ながら、ポツリと呟く。
吉澤は、そんな市井がなんだかひどく小さく見えた。
「あ、あの〜……」
とりあえず話し掛けてみる。
「うっさい!」
でも市井の一言で、それはすぐに終わった。

(なんだよ…別に、怒鳴ることないじゃんか)
ブチブチと心の中で文句を言う。
声に出したら十倍にして返ってきそうなので。

「はぁ…誕生日どうしよ……」
そんな市井の呟きがまたしても聞こえたが、口を挟むとまた黙れと言われそうなので、
チラッと見るだけで話し掛けるのは止めておいた。


「なんだよ、あんな怒っちゃってさ!」
辺り構わず文句を撒き散らし、一旦更衣室に戻る矢口。
こんな気分で仕事できるハズがない。
だから、ちょっと落ち着かせてからホールに戻ることにした。

ちょっと涙を堪えながら、更衣室のドアを開ける。
したら、そこから「あいたっ!」と言う声が聞こえてきた。
中からは「ごっちん大丈夫?」と言う甲高い声も聞こえてくる。
石川と後藤だ。

「やぐっつぁん! 何すんのさぁ、痛いじゃん!」
「わ、ごめん。わざとじゃないんだ、ほんとに」
オデコを押さえて涙目で矢口を見ている後藤に謝る。
「…………」
それでもジト目で矢口を見る後藤。
矢口は、やばいと察し、とっさに後藤の注意を反らす作戦に出た。
「そ、そういやよっすぃ〜がいたよ。面接も終わって、今4番テーブルでご飯食べてる」
「え、うっそ! マジで? 帰ったんじゃなかったんだ!
あ〜、あたし待っててくれたんだね〜。ありがとやぐっつぁん!」
そうお礼を言ってすぐ、更衣室を飛び出して行く後藤。
単純だ。
矢口はホッと胸を撫で下ろした。………のもつかの間、石川にこう聞かれたのだ。
「矢口さん、なんで涙目なんですか?」


「あ、いや……」
さっきホールにいなかった石川は、市井と矢口の喧嘩を知らない。
ましてや、間接キスがどうとかでモメて、涙目になってるなんてのも言いたくない。
「市井さんですか?」
でも大抵矢口が泣くのは市井絡みなので、それは石川も判っている。
「……まだ喧嘩してるんですか? 仲直りとかも……」
「してないよ。だって、喋りかけてこないし」
ホッペにビンタされたことを根に持っているのか、エッチの最中でストップをかけた
ことをまだ怒っているのかは判らない。
二人の喧嘩は、今だ続いていた。
それが今日、更に悪化。またしても吉澤絡み。

「梨華ちゃんはいいよね、ラブラブそうで」
ちょっと皮肉を込めて、矢口は言う。
「ええっ、そんな! 全然ラブラブなんかじゃないですぅ!」
それを顔を真っ赤にして全面否定する石川。
でもその真っ赤な顔と明るい声は、嘘をつけない正直者。
「いいなぁ、マジで。矢口も付き合いたての時、そんなだったかな〜……」
若かりし頃の二年前。
懐かしそうな目で、遠くを見る。
そして、ふと現実に戻り、こんなことを呟いた。

「誕生日、今年は一人かも……」


矢口の誕生日まで、あと五日。
ついでに、石川の誕生日まであと四日。
それまでに、矢口と市井は仲直りできるのだろうか?
それまでに、石川と飯田は進展するのだろうか?
そして、後藤に不信感を抱き始めた吉澤はどうなるのか?

三組のカップルが、徐々に変化してゆく……。


「でもな、市井は思うんだよ。あの人あー見えて小心者でさ〜。
こないだなんか、雷鳴っただけで泣いてたんだよ! めっさカワイクない?」
「か、かわいいっすね〜……」
「だろぉ? あとさ、その雷鳴った後とか………」
「…………」

延々と続く、市井の「矢口可愛い」発言。
なんでこうなってしまったんだろう。ちゃんと言う通り黙っていたのに。
ホントなら、ご飯を食べたらすぐ帰ろうと思っていた。なのに。
ちょうど仕事が終わったのか、市井と入り口で会ってしまったのだ。
さっきのこともあるので、挨拶だけして帰ろうと思ったのに、なぜか今に至る。
それでなくても、会計を払う前に後藤が来て、自分にまとわりついて仕事しようとしないのを
なだめたばかりなのに、その後また、今度は市井に絡まれて。
でも、それを突き放すことの出来ない吉澤は、優しいんだと思う。

「………それなのに、矢口のヤツあんなことみんなの前で言いやがって。
くっそ〜……こっちだって傷つくんだっつーの。なぁ、どー思う?」
「え? あ、ああそうっすね〜……」
あんまり話を聞いていなかったので、言葉を濁す。
「なんだよぉ、ちゃんと聞いてくれよな〜」
「………すいません」
「ま、いいや。そんな細かいこと気にしてたら、またやぐっちゃんに何か言われるしな」
一人うんうん頷きながら、市井はまた話を戻した。

そんな話になんとなく耳を傾けながら、吉澤は今何時か気になり、携帯のディスプレイに
出ている時計に目を落とした。
その時計によると、ただいまの時間午後8時。
思えば、市井につかまってから1時間半が経とうとしていた。
さすがにもう限界を感じ、市井に同意を求めることに。
「ねえ市井さん。もうそろそろ帰りません? もう8時っすよ……」
「あ? ああ、ほんとだ。………そだね、帰るかなそろそろ……」
吉澤の言葉に、よいしょっと腰を持ち上げる。
言う事を聞いてくれた市井に、吉澤はホッと胸を撫で下ろした。


「あ〜……ごめんなぁ、吉澤。なんか遅い時間までつき合わせちゃってさ」
「い、いえいえ。とんでもないです!」
まさか謝ってもらうなんてことを考えていなかった吉澤は、慌てて否定する。
「ってか、喧嘩が悪化したのも、またウチが原因なんすよね……」
「そうだ」
ビシッと吉澤を指差し、ちょっと不機嫌そうな顔でそう答える。
「………ウッソだよ〜ん♪」
と思ったら、瞬時におちゃらけた顔になり、差していた腕を下ろした。
そのことに罪悪感を感じていた吉澤も、そんな市井を見てつられて笑った。

「さぁーて帰るかぁ」
荷物を肩にぶらさげ、のらりくらりと歩いている市井の後をついて行こうとした。
が、前にいる市井が突然止まったので、吉澤も一緒に止まることに。
「? どうしたんですか?」
一点を凝視して動かない市井に、こっそりと声をかける。
「………あそこにいるの、」
「あそこ?」
市井の視線の先を追ってみる。
すると、見慣れた三人組が目に入った。
自分は目は悪くないと思う。でも、1月の午後8時といったら、辺りはもう真っ暗だ。
イマイチ自信がない。だから、市井にも聞いてみる。
「あそこにいるのって、やっぱり……」
「そう。矢口と後藤と石川だよ」


たぶん、離れている距離は100mくらいだ。
しかもあっちの三人は、こちらには気づいていない。楽しそうに何か喋っている。
市井は、なぜだがその楽しそうに喋っている矢口がムカついて、その三人のあとをついていくように歩く。
吉澤も一緒について行った。

50m付近まで接近。すると、会話も聞こえてくる。
その時ちょうど三人は、それぞれの想い人のグチを言い合っていたようだ。
特に、矢口の市井に対するグチが一番多く聞こえる。
「くっそ、やぐっちゃんめ。市井がいないと思って……」
「ははは…」
横でブツクサ文句を言っている市井に苦笑い。
吉澤も後藤がどんなグチを言ってるか聞こうとしたが、聞く前に話題が変わってしまった。
今は、後藤がつけている指輪の話。

「ごっちんそれどこで買ったの? 可愛いね〜」
「でしょぉ? なんか高かったらしいんだけど」
自分の付けている指輪を石川に褒められ、上機嫌の後藤。
「え、『らしい』ってことは、ごっちんが買ったんじゃないの?」
矢口も会話に入ってくる。
「うん。貰い物〜」
「よっすぃ〜から?」
当然の質問。同じ頃、市井も直接吉澤に聞いていた。
「ん〜ん。イトコから。だいぶ遅れた誕生日プレゼントってやつ。
よっすぃ〜からだったら、真っ先に自慢してるよぉ〜」
「そっかぁ、イトコからかぁ」
「矢口も指輪もらいたいよ〜」
羨ましそうに後藤の指輪を見て矢口が口を尖らせる。
「じゃあいちーちゃんにもらえばいいじゃん。仕事してるし、金持ってるじゃんか」
「そうですよぉ。じゃあ私だって飯田さんから………キャッ
「「…………」」
オカシクなってしまった石川をとりあえず放置し、矢口は後藤の指輪を指から外し、
自分の指にはめた。
「あっ、ピッタリだ! ごっちんと指の細さ一緒みたいだから、
この指輪矢口にくれよ〜! 矢口も指輪欲しいよ〜!」
「あ、ダメだよ! それお気に入りなんだからぁ!!」
指輪をはめたまま逃げる矢口を、後藤が追いかける。
「ああっ、待って下さいよぉ! ごっちん、矢口さぁ〜ん!!」
そのあとに続いて、石川も二人を追いかけた。


市井は、三人を追いかけず、何か考え込んでいる。
しばらく吉澤が黙って待っていたら、いきなり市井が顔を上げこう言った。
「……市井、決めたよ」
だが、何を決めたのか教えてもらえず、吉澤は煮え切らないまま家に帰った。


―――

「吉澤ぁ、水道の蛇口ひねって。ちょっと冷ますから」
「よっすぃ〜、それは味見しなくていいべ。なっちがするから」
「吉澤! 悪いけどこれお客さんに持ってって!」

さっきから自分の名前を呼ばれてばかり。
吉澤は、誰の命令を先に聞いたらいいのか判らず、その場をウロチョロするばかり。
アルバイト初日は、目が回るような体験だった。


「疲れた………」
休憩部屋にあるソファにドカンと横になり、死んだような声を出す。
慣れない洗い物や立ち仕事で、早1日目でもうダウン。
しかも、今日は市井が休みの為、一気に二人分の頼み事があったのだ。
「しっかし市井さんって凄いわ……」
あんないっぺんに言われる命令を、毎日聞いてるんだもんね。
ちょっと、いやかなり感心。

そんなことを思いながら、残り15分の休憩時間で睡眠をとろうとした時。
バン!という音と共に、今の吉澤の気分を悪化させる声が聞こえた。
「よっすぃ〜! へへ、やぐっつぁんに休憩交代してもらっちゃった〜♪」
無邪気にそう言い、いつもの様に抱きつく。
疲れている吉澤は、なんだかそれがすっごく鬱陶しかった。

「離れてくんないかな…」
不機嫌極まりない顔で、後藤の身体を押しのける。
「え〜? せっかく二人っきりなんだから、イチャイチャしようよぉ」
「二人っきりったって、ここは仕事場じゃん…」
もう、突っ込みを入れるのもメンドクサクなってきた。
「帰りにしようよ、帰り。帰りにイチャつけばいーじゃん」
とりあえず今この状況から逃げ出したい吉澤は、早く後藤をどこかへやろうと適当な理由をつける。
でも後藤からは思いもがけない言葉。
「あ〜……今日、帰り一緒に帰れないんだよね……」


意外だった。というか、かなり驚いた。
「は?」
まさか後藤の口から、そんな言葉が返ってくるなんて。

後藤はいつも、吉澤中心。
吉澤に用事がある日は、友達と遊びに行ったりするが、吉澤に用事が無い日はいつも後藤が一緒。
大抵どんなことがあっても、吉澤の傍にいる後藤なのに。
付き合って3ヶ月で、初めてだ。

「え、なんで?」
思わず聞き返す。今の吉澤だったら、そっちの方が有り難いのだけど。
「ん〜?………えっと、……今日、おばあちゃんが来るの。
だから、お母さんに早く帰って来いって……」
明らかに嘘と丸判りの理由。
絶対何か隠してる。吉澤は悟った。
「ふーん」
内心動揺しているのを後藤に気づかないように、いつもの様に答えを返した。

――

「あ、梨華ちゃん」
洗い物も仕込みの手伝いもすべて終わり、帰り支度を整えていた吉澤の前に
梨華ちゃん……石川が横切った。
「ん?」
掛けられた声に、石川が振り向く。
「あ、よっすぃ〜。今から帰るの?」
「うん。梨華ちゃんも?」
首を縦に動かす。
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろうか?」
そんな吉澤の問い掛けに、また首を縦に動かした。


楽しくお喋りをしながら、二人は歩く。
なんだか、後藤以外の人とこうやって帰るのは久し振りだった。
でも、心配事が一つ。
「ねえ、梨華ちゃんとこんな風に帰ってたら、飯田さんに怒られないかな。
なんかすっごい恐いんですけど……」
前回、殴られた覚えもあるし。
「え〜? 大丈夫だよ〜。それに、なんで飯田さんが怒るの?」
「え、だって、付き合って何日も経ってない彼女が、違うヤツと一緒にいるんだよ?」
「………う〜ん。でも、絶対気にしないと思う。
だって、もうすぐ私の誕生日なのに、それすらも気にしてないみたいだしさ……」
「あ……」
自分が振った話題で、石川を暗くしてしまった。
ここ最近ずっと空回りしている気がしている。


何か石川のテンションがあがる会話はないか、必死で考える。
でも、こうゆう時に限ってなかなか出て来ない。
それでもなんとか会話を探そうとして、近くの建物に目を向けた時だった。
「はぁ?」
おかしい事に気づく。
ある建物から、よく知っている人物二人が出てきた。
そのうちの一人は、さきほどおばあちゃんが来るからと行って、仕事を早目にあがった人。
後藤真希。
その後藤が、なんでここにいるんだろう。
しかし最大の疑問は。

一緒にいる人は、市井紗耶香なのだ。

おばあちゃんが来るっていうのは、自分も嘘だと思った。
しかし、なぜ市井と遊ぶというのなら嘘をつくのか。
湧き上がってくる怒り、嫉妬。
自分勝手だなと判っていたが、止めることはできなかった。


―1月17日―

「紗耶香、早くオーブンからピザ出して!」
「あ〜! そこに置いたらダメだべ!」
「ちょっと店長呼んで来て〜。たぶん外にいるから」

夜が明けて、次の日の娘。レストラン。
今日は市井も出てきているので、吉澤に対しての集中攻撃はない。
市井も慣れた様子で、保田、安倍、飯田の言う事を順に聞いている。
そう、別に市井はいつもと何ら変わりもない。
ただ一つ違うことは、矢口と喋っていないことだけ。
お互い(というか矢口が)目を合わせようともしない。
それを除けば、いつものちょっとおちゃらけた市井だった。
しかし、吉澤はそんな市井が気になって仕方がない。
原因は昨日。


実はあのあと、後藤の携帯に電話したのだ。
もしかしたら、おばあちゃんが来なくなって、そ黷ナ市井とどこかに出かけたかも
というのを聞きたかったからかもしれない。
でも返ってきた言葉は。

『え? 今ドコにいるかって? 家だよ、家。うん。おばあちゃんと話してたの』

そんなこと、雑音が目一杯聴こえる道路で言われても。
家の中なら、車の音やギャル達の話し声なんて聴こえない。
市井と遊ぶのを、なぜ自分に隠すのか、吉澤には判らなかった。


「ん?」
市井が振り向く。
後ろから、吉澤の視線を感じたからだ。
「なんだぁ? 何か判んないことでもあんのか? 紳士の市井が教えてあげるぞ」
市井はどうやら、『紳士』というのがお気に入りらしい。(かおりか編参照)
吉澤も直接何回か聞いたし、他の人にも言っているのを聞いた。
いつもならそう言われて笑ってしまうのだが、今日は笑う気分じゃない。
「判んないこと? ありますよ」
だから真顔でそう返した。
「じゃあ言ってみろよ」
「……言いますよ、言われなくても」
またムカムカしてきた。そのせいか口調がキツイ。
でも構わず続けることにした。
「昨日市井さん、休みだったんですよね、仕事。
その仕事休みの日、ごっちんと―」
「いっちいちゃーん! ちょっと来てぇー?」
『遊びに行ってましたよね?』と続けようとしたのに、
後藤の声にシャットアウトされた。

「あぁ? 何、今ちょっと…」
「アレのことだよ。今じゃないとさ〜休憩もう取れないんだよ」
『アレ』? アレって何だ?
思考を後藤が言った『アレ』についてチェンジする。
しかし、思いつかない。
「ああ、……判った。吉澤、質問あとでいい?
ちょっと後藤と話あるからさ…」
吉澤に思いつかなかったことが、市井には思いつくらしい。
それが余計吉澤の心をムカつかせた。
でも、平静を装って、笑顔を作る。
「……別にいいっすよ。あとでも。気にしません」
「ごめんなぁ」
「ごめんよっすぃ〜! あ、今日は一緒に帰ろうね!」
「はは……」
笑顔で吉澤に手を振って、飯田に休憩してくると伝えた市井を、「早く」と引っ張る後藤。
二人は、外に出て行った。

「…………」
口ではあんなことをやっぱり気にする。
心では後藤を少し迷惑に思いながらも、やっぱり気にする。
言ってる事と考えてる事がメチャクチャだ。
誰にも聞こえないようそう呟いて。
「すいません、ちょっとトイレ行ってきていいですか?」
最低だ、と思いながらも、二人の後を追った。



外に出るとすぐに話し声が聞こえたので、二人がいる場所はすぐ判った。
見つからないよう、こっそりと近づく。

「………でぇ、やっぱ同じだったよ。んで……」
「げっ、そんなしたっけ!……う〜」

「……でも大丈夫かな……」
「大丈夫だって! あたし付いてるし!」
「それが一番心配なんだよ……」
「おい!」

楽しそうに喋っている二人。
大事な会話の部分は、ちょうどその時車が通って聞こえなかった。
結局何の成果もなく、戻ろうと背を向けた時、市井の声が。

「………なぁ、ちょっと目ぇ瞑って」

慌てて振り返る。
したら、市井の背中越しに、言う通りに目を瞑っている後藤が見えた。
(なんで……? なんでごっちん目ぇ瞑ってんの……?)

ゆっくりと、市井の顔が後藤のそれに被さってゆく。
吉澤は目の前が真っ暗になった。
それと同時に身体が勝手に動き、気づけば怒鳴っていた。

「何やってんだよ二人とも! 何でキスなんかしてんだよぉ!!」
その声に驚いて、二人は吉澤を見る。
「………サイテーだよ。………くそっ!」
柱にドン!と拳をぶつける。
「ちょ、な、何してんのさよっすぃ〜! 血ぃ出てるよ!!」
そんな吉澤の行動に、当然止めに入る後藤。
「うるさいっ!」
しかし吉澤は、そんな後藤を振りほどく。尻餅をつく後藤。
「おい」
いいかげんにしろよ、と言わんばかりの迫力で、市井が割って入る。
吉澤はひるまず、しばらく市井を睨みつけ、
「…………みんな、大嫌いだ」
と言って、走ってどこかに行ってしまった。

「ま、待ってよよっすぃ〜!」
走り去ってしまった吉澤を、後藤が泣きながら追いかける。
その場に一人残された市井。

「……なぁ〜にを怒ってんだ、アイツは」
二人が走って行った方向を眺めながら。
「………しっかし、睫毛に付いてたゴミを取ろうとしただけなのに、
キスしてたのと間違われるとはね………」
こりゃ悪いことしちゃったな…。

少し長い前髪を掻きあげて、市井は仕事場に戻った。


―――

「でさ、そん時後ろからこうやって……」
「あっはっは! え〜、それウソっぽくない?」
「ウソじゃないよ。カオリ見たもん」
「ふ〜ん」
今日の仕事のノルマも終わり、更衣室で着替えを済ました保田と飯田が出てくる。
それと同時に、入れ替わるようにして更衣室に入って行こうとする矢口と石川。
「お疲れ〜」
「お、お疲れ…」
お決まりの挨拶。矢口達もそれに応じる。
でも、そんなお決まりの挨拶なのに、飯田の声がどもっているのは気のせいか。
たぶん、石川と顔を合わすのが恥ずかしいんだろう。
飯田の性格をよく知っている保田と矢口は思った。
そんな飯田が可愛くておもしろかったので、もう少し会話を続けてみる。

「でも矢口達、ほんとお疲れだよね。
ごっちんの分も余計働かなきゃいけなかったんだし」
「そぉなんだよ〜! もう今日は死ぬかと思った。ね、梨華ちゃん」
「あ、はい。死ぬかと思いました〜」
会話に花が咲く三人。
その中で、一人会話に参加できない人、飯田圭織。
いや、正確に言うとできないんじゃなくて、しないのか。
なぜなら、石川の顔をじっと見ながら、考え事をしてたから。

(………明後日だよね、誕生日。……明後日……)

明後日19日は、飯田の大好きなトロい人の誕生日。
なのに、もう明後日まで迫ってきているのに、「一緒に過ごそう」と誘ってもなけりゃ、
誕生日プレゼントも何も買っていない。
お金はある。でも、何を買ったら石川が喜ぶのか判らないのだ。


(どうしよう……今聞いてみようか。いや、それはダメ。
圭ちゃん達いるし、石川の顔直接見て聞くなんて、絶対できないよ……)

色々考えてはみるものの、これといった方法が思い付かない。
そうやって悩んでいる内に、保田達の話も終わったようだ。

「じゃあそろそろ帰るわ、あたし達」
「うん。お疲れさま〜」
「お疲れさまです」
手を振って、更衣室へ入ろうと背を向けた二人。
すると保田は矢口を呼び、
「あ、矢口。紗耶香が矢口のこと愛してるって言ってたよ」
笑いながらそう言った。
「う、ウソつけぇっ! そんなん言ってないぃ!」
真っ赤にさせながら思いっきりドアを閉める矢口。
それを微笑ましく見る保田。
「あんな顔赤くさせちゃって……。いいかげん意地張るのやめたらいいのにね」
今度は飯田に微笑むと、帰ろうか、と一言言い裏口から出て行く。
飯田も駆け足で保田の後を追った。


保田にあんなことを言われた矢口はというと。

「……言うハズないよ、絶対。だって紗耶香、矢口のこと怒ってんだから……」
そういう風に思っても、今だドキドキいっている心臓の音と、
普段より何倍も赤くなっている顔は治まらない。
石川は、その矢口の独り言を聞こえないフリして、着替えを続けた。
そして一つ、ため息を吐く。

(飯田さん、今日も誕生日のこと何も言ってくれなかったな……)


―――

ウィーン。
自動ドアが開いたと共に一斉に聞こえてくる雑音、うるさい会話。
夜のゲームセンターは、ガラの悪い奴らや女子高生が目立つ。
でもそんなことはあまり気にせず、とりあえず周りに誰もいなかった
ユーフォーキャッチャーに近づき、お金を入れた。

自分には不釣合いの明るい音楽が流れ、手元のボタンが光る。
どうでもいいや、と思いながら、適当に押して離した。
今度はもう一つのボタンが光る。
何気なしに、ぬいぐるみがいっぱい入っているボックスに目を移す。
あるぬいぐるみが目に入った。
あんまり見かけない、魚のぬいぐるみ。
ちょうどさっき動かしたボタンの一直線上にある。
無意識の内に、その魚の上にキャッチャーを合わせていた。


――― 『よっすぃ〜よっすぃ〜、聞いてよぉ。あのね、またいちーちゃんに
『黙れ魚!』とか言われたんだよ。しかも『今度余計なこと言ったら、裕ちゃんに言って
後藤焼いてもらうからな。あの人魚焼くの得意だから』とか言うんだよ!
そんなに言われる程、あたしって魚に似てるかなぁ?』
『え、う〜ん……。似てるといっちゃあ似てるかな。うん』
『うっそぉ!………でもま、いっか。別に魚好きだし』
『あたしも魚好きだよ。あ、そーだ。今度魚のぬいぐるみ見つけたら、ごっちんに買ってあげる』
『ア八ッ、でもあんま嬉しくない……』 ―――


キャッチャーの動きをじっと見ながら、ボーッとそんな事を思い出す。
思い出したくて思い出したんじゃない。勝手に思い出したんだ。
それを振り払うかのように頭を振り、掻き消す。
そして、再びキャッチャーに目を向ける。
だがそのキャッチャーにはその魚は引っかかっていなかった。

「なんだよ……」
不満を感じながら、ユーフォーキャッチャーに対し背を向けた。



「あ〜もう! あとちょっとだったのに!」
ドン、と台を叩く。
そして、すぐさまポケットから百円を取り出し、またボタンを押し始めた。

一度は背を向けて帰ろうとした。はずなのに。
なぜかまたやっている。
しかも、これで3千円近くものお金を使って。

「くそっ、またかよ。あのキリンのやつが邪魔なんだよな」
横から見て、前後左右合わせてみたりするものの、中々苦労は報われない。
でも何回もやっているため、一番最初より大分取りやすくはなった。
「よし」
気を取り直してもう一度。
ポケットの中にあった小銭は全部使ってしまったので、財布の中を探る。
「あれ?」
千円札がもうない。小銭入れを見て見る。
「………あと百円か」

コインを入れる前に大きく深呼吸をして、この最後の百円に望みを賭けた。


―――

「ねえ圭織、いつまでそこで鈴なんか見てるのよ。
あんたがカラオケ行こうって言い出したのよ? なのに……」
小物屋に売ってる、小さなピンク色の鈴を見ている飯田の隣で、保田がぼやく。
でも飯田はそんな保田のぼやきに耳も貸さず、鈴を眺めたり、音を鳴らしてみたり。
いいかげん、保田も頭にきはじめた。

「ねえ圭織……」
眉をより一層つり上げ、いざ文句を言おうとした保田の大きな瞳に、意外な人物が飛び込んできた。
「圭織あれって…」
その声に、飯田も鈴から目を離し、保田の見ている方向に視線を向ける。
あいつが、こんなトコにいんの珍しいね。
飯田のそんな言葉に、保田も頷いた。
そして、声を掛ける。
「よっすぃ〜、あんた何してんさ。ここで」


そう声を掛けられたと同時に、身体の心配をされた。
どうやら市井が、吉澤は体調悪くて帰ったと保田達に言ったらしい。
さすがにバイト2日目でどこかいなくなるなんて、やばいだろうと心配したんだろう。
それとも勘違いさせてしまったお詫びなのか。
どちらにせよ、吉澤は助かったと思った。

「で、なんでしょう」
「え?」
「だから、呼び止めたワケです」
そう言われた保田は困ってしまう。
だって、特にワケなんてなくて呼び止めたワケだから。
でも何かワケを作った方がいいと考え、とりあえず気になったことを聞いてみた。
「いや、その、よっすぃ〜にしちゃ珍しいもの持ってるなぁ〜って思って」
右手に大事そうに抱えてる、珍しいもの。
「これですか? これ、ユーフォーキャッチャーで取ったんですよ」
ちょっと声を弾ませながら言う。
そんなに嬉しかったのだろうか。


「あ、もう11時なんですか…。そろそろ帰んなきゃ」
しばらく雑談しながら過ごしていると、吉澤が言った。
そして、じゃあ、と言って身体の向きを変えて歩き出す。
「それじゃ、あたし達も行こうか、カラオケ……」
吉澤に小さく手を振って、吉澤へ向けてた視線を飯田に移す。
しかし飯田は、吉澤を見ていた。
そして、もうすぐ見えなくなる吉澤に向け叫んだ。

「ねえ! 石川って、何もらったら喜ぶと思う!?
カオリ、一生懸命考えたけど、全然判らないんだ! ねえ吉澤ぁ!」
呼ばれた吉澤は、ゆっくりと振り向き、
「飯田さんなら、梨華ちゃんは何もらっても喜びますよ」
何故かいつもの笑顔でそう答えた。
「そっか! ありがとー!」
石川と仲の良い吉澤にそう言ってもらい、安心したのか、
「圭ちゃんゴメンッ! 今日カラオケなしね!」
嬉しそうに謝りながら小物屋の中に入って行った。


「何なのよ、一体……」
そんな飯田の態度に少し怒りを覚えたが、ワケは判ったので納得した。
「恋っていいなぁ。あたしにも、そーゆう相手が欲しいっつーの」
本気とも冗談ともとれることを呟きながら、保田は携帯のメモリーに入っている
友達を誘い、カラオケ屋に向かって行った。


同じ頃、吉澤の後を追ってどこかに行った後藤はというと……

「……ぅ……ぅっく…よっすぃ〜……」

実は、まだ吉澤のことを探していた。

涙は止まることなく、時間が経つにつれ余計ひどさを増してゆく。
その度に服や手の甲で拭うので、目の回りは真っ赤。
もちろん、服の裾も涙でビチャビチャだった。

「………ん……?」
そんな後藤を更にドン底に突き落とすかのように、頬に冷たいものが触れる。
雨だ。しかも、だんだん強くなっていく。
「………サイアク」
空を見上げ、吐き捨てるように呟いた。


―1月18日―

それでも後藤は諦めず、傘も差さずに吉澤を探す。
その内に、日付も変わってしまった。でも探す。
「んっはぁ……ヒック……ック……」
泣きながら、探す。
「よっすぃ〜……っ…」
名を呼びながら、探す。
途中、何度も人にぶつかったり転びかけたりしながら、探す。
「……ねえ」
呼び掛けられても、無視して探す。
「ちょ、ちょっと」
さすがに腕を引っ張られたら、探すのを中断しなければならなくて。
身体の向きを変えて、腕を引っ張った人を見る。
それと同時に、雨が止んだ。

いや、止んだんじゃなくて、差してくれたんだ。
傘を。あの人が。

「風邪ひくよ、ごっちん」


優しい、後藤が大好きな声。
「ごめん」
困ったような顔も、好き。
「……ごっちんが風邪ひいたら、あたしのせいだよね」
溢れてくる涙を拭き取ってくれる、大きい手も、好き。
「あたしって、ほんとガキだ」
抱きしめてくれた時に感じる、あたたかい体温も、好き。
「こんなにごっちんが好きなのに……あたしって、ほんとガキだ……」
あたしも、よっすぃ〜が大好きです。
ガキでも餓鬼でも、よっすぃ〜が、好き。

―――

「………そっか。だから市井さんとあの日いたんだね」
「うん。……んで、細かい事相談してたの。だから、キスなんか絶対してないよ」
「ははっ……あん時は、あたしオカシかったからね……」
公園の屋根のあるベンチで一休み。
そこで、色々話している内に、誤解は解けた。
ちゃんと聞けば、それでよかったんだ。今考えれば、思い当たるフシもいくつかあった。
ただ自分の勇気がなかっただけ。
思い通りに行かなくて拗ねて、勝手に勘違い。
それも、今日ですっきりオシマイ。

「ねぇよっすぃ〜、それ、何?」
真っ赤にさせた目を、それに向ける。
「ん〜?……へへ、はい」
そう聞いてくれるのを待ってました、と言わんばかりの嬉しそうな顔。
ずっと雨に濡れないように守っていたそれを後藤に渡す。
「………?」
「約束したじゃん、前。魚のぬいぐるみ見つけたらあげるって。だから、はい」
言葉を付け足す。
それで?マークを浮かべていた後藤も、やっと理解したようだ。
愛おしそうに、ぬいぐるみを抱きかかえる。
それを、嬉しそうに眺める吉澤。


「………なんかさ、それを取ることに熱中してたら、
怒ってたことも全部バカらしくなって、どうでもよくなったんだ。
ぬいぐるみ一つ取るだけで、3千円も使ってムキになってたら、自分一人で
不満感じてムカついてるのとか全部どうでもよくなった」
「………そっか」
「うん、そう」
「……へへ」
「何笑ってんの」
「ん〜ん。何でもない」
何でもなくないじゃんか〜、と、しばらくじゃれ合う。
こうやってじゃれ合うのは、久し振りのような気がした。

「……帰ろうか?」
「うん」

まだ、雨は降っているけど。

「でもあたし、こんなズブ濡れじゃ家帰れないよぉ」
「あ、じゃあ、あたしん家泊まりなよ」

二人なら、もう大丈夫。

「………よっすぃ〜、実はエッチが目的だったり……」
「……バレた?」

一本の傘を二人で入って。

「今日は、燃える夜になりそうだねぇ」
「今日は、やる気いっぱいあるよ」

仲良く手を繋いで、帰路へと就く。




―――
――


シーンと静まり返っている、更衣室。
なんとなく、居心地が悪い。石川は思った。
だって、ちょっと話があるからと入って来たのはいいけど、それから一言も口にしないのだ。
目の前にいる、飯田圭織は。

時折何かを言おうとして顔をあげては、石川と目が合ってまた下を向く。
「あの、私戻らなきゃいけないんですけど…」
と言っても、
「ちょっと待って。すぐ用件言ったら終わるから…」
しかしなかなか終わらない。
一言言えばいいだけなのに、それが言えない照れ屋な人。
まあ、そんな人を好きになったんだから、こうやって待つのも許してあげよう。
戻るのが遅い!と後で保田に怒られても、構わない。
それに、こうやって二人きりっているのも悪くないような気がする。
居心地が悪いと感じた気持ちも、そう思い直すことで消えた。

ニコニコしながら、飯田を見つめる。
楽しいのだ。飯田の困っている姿を見るのが。
「……笑うなっ」
頬を赤くさせながら、吐き出すように言う。
でも石川は笑うのを止めない。

(ナメられてる……)

そんなことを思ってしまった。
でも悪い気がしないのは、きっと石川だからだろう。

(……よし!)

心の中でカツを入れ、いざ言わん。

「い、石川、明日仕事が終わったら……渡したい物があるんだけど……」


……言った。
恐る恐るといった感じで、石川の反応を見る。
これで無反応だったら終わりだ。

「………はいっ

しかしその返事を聞き、一安心。
全身張り詰めていた力が一気に抜ける。
「そ、それだけっ。じゃ、じゃあねっ!」
それと同時に湧き上がってくる嬉しさを石川に気づかれないよう、
早々にその場から立ち去る飯田。
石川は笑顔で飯田を見送った。

「えへへっ……」
いつ言ってくれるか、もしかしたら言ってくれないかもしれないと言う不安も消え、
笑みが耐えない。さっき飯田が言った言葉をずっとリフレイン。
周りから見たら、すごく不気味に見えるが、本人はそんなこと気にしない。
だって今は、幸せいっぱいなんだから。


―1月19日―

今日も気分が乗らないまま、矢口はいつもの様に出勤。
学校が終わって、ダッシュで更衣室に。
本当はまだ20分程時間に余裕があるのだが、ついクセで早く来てしまった。
市井と喧嘩していなければ、いつもはその時間厨房に遊びに行き、バカな事を喋っているのに。
それが日課みたいなものだったので、20分早く出勤はもうクセなのだ。

「紗耶香のバカ」
市井のロッカーに向かって呟く。
もちろん、更衣室には矢口しかいない。それを確かめて言った。
「明日、矢口の誕生日なんだぞぉ……?」
なのに、明日の約束どころか、言葉さえも交わしていない。
まあそれはちょこっと、自分のせいでもあるかもしれないのだが。

―――『……一生怒ってろ! バーカ!!』―――

そんなことを言ってみたりしたが、実際、一生怒っていられたら困る。
困るっていうより、大問題だ。
こんなにも人を好きになったことがないくらい、愛しているのに。
2年も付き合ってても、その想いは変わることはないのに。
今頃になって、そんなことを言ってしまったのを後悔してきた。

「………話したいよ……紗耶香と……」
でも今度話した時は、別れ話かもしれない。
そんなのは嫌だ。でも話したい。
一向にまとまりがつかないまま、20分が過ぎる。
「あ…行かなきゃ」
行く前に髪を後ろに一つに縛って、取っ手に手をかける。
そして自分が廻したと同時に、扉の向こう側からも取っ手が廻った。


「あれ? あ、おはようございまーす」
「……おっは〜」
一瞬市井かと思い、心臓が高鳴ったのだが、声を聴いてすぐに違うと判った。
だってその声は、高かったから。
「……梨華ちゃん、なんか元気そうだね」
普段より少し高い声での挨拶に不審に思い、聞いてみる。
「えぇ? そうですかぁ? そんなことないですよぉ!」

(いや、そんなことあります)

冷静に心の中で突っ込みを返すものの、それは口には出せなかった。
だってあんな嬉しそうな顔を目の前で見たら、そんなの言えるはずないじゃないか。
「……とりあえず、よかったね」
「え?」
「圭織と、今日約束かなんかしたんでしょ? よかったじゃん」
「あ……」
カァーッとなっていく石川の身体。
「何て言われたの? 圭織に」
「じ、実は今日仕事終わってから、渡したいものがあるって飯田さんが…」
「ふぅ〜ん。じゃあ、その時に誕生日プレゼントもらうんだぁ」
「…………」
また更にカァーッとさせ、俯く石川。
そんな石川を微笑ましく思いながらも、羨ましく思う矢口。

(…………紗耶香)



―――

ドキドキドキ……

さっきからずっと、心臓の音が速く聴こえる。
もちろんその原因は判っているんだけど。

―――『もうすぐで終わるから、更衣室で待ってて』―――

厨房から呼び出しがかかって、料理を受け取る時に飯田にボソッと言われた。
耳まで赤くして、顔を伏せながら。

「まだかなぁ……飯田さん…」
石川があがる時は、市井と一緒に、明日仕込む何かを切っていた。
見た感じ、そんな時間がかかりそうではなかった。
だから、今に来るだろうと思い、心臓の鼓動は速くなるばかりなのに。
なぜか、なかなか来ない。
もう一度厨房を見に行こうとしてドアの方に向きを変えると、それと同時に
市井が更衣室の中に入ってきた。
「あ、お疲れ〜。カオはあと5分くらいで来るよ」
石川が飯田を待っていることなんてお見通し。
石川が「あと飯田さんは?」と聞く前に、先に言ってやった。

「なあ、やぐっちゃんは?」
二人に気を使ってか、いつもより早く着替えている市井。
「え、矢口さんなら帰りましたよ?」
「………そう」
こうやって会話しながらも、着々と着替えは進む。
「………よし、と」
着替えた娘。レスの制服をカバンに詰め込んで、それを肩に下げる。
「あれ、なんで制服持って帰るんですか? 明日仕事あるんじゃ…」
「ああ、ちょっと休みもらったんだ。取りに行かなきゃいけないとこあるから」
「………矢口さん関係のもの?」
「さあ?」
肩をすかして、いつものお調子者の笑い。
「じゃ、がんばって」
それだけ言って市井は、足早にそこから消えて行った。


「あれ? 紗耶香は?」
市井が去ってすぐ、入れ違いに飯田がやって来た。
「今さっき帰りました」
石川は答える。
「だから、今は二人っきりです」
と、聞いてもみないことまで。

「なっ、何言ってんの? この人…」
想像してた通りの反応。判り易い。
「えー? だってそうじゃないですかぁ。二人っきりですよ」
「ま、まあそりゃそうだけど……」
広くもない更衣室。まさか誰かが隠れているなんて有り得ない。
市井が帰ってしまったという事実上、この部屋には飯田と石川しかいない。
「……石川、キャラ変わった?」
突然、「二人っきりです」なんて言うような人じゃなかったはず。
前はもうちょっと何て言うか、自分に対してはオドオドしてた気が。
「変わってませんよぉ。飯田さんに対してだけ、ポジティブになっただけです!」
「………」
全然答えになってない気がめちゃくちゃしたが、突拍子もない事を突然言い出すのは石川のキャラ。
そうやって思い直すことで納得した。


着替えも終わり、後はプレゼントを渡すだけ。
カバンの中から、例のあれを取り出し、自分の右手に握らせる。
「石川、コレ……」
握った右手を恐る恐る石川に差し出す。
恐いのだ。こんなのいりません、と言われたらどうしようと思ってしまう。
好きな人にプレゼントするのなんか初めてだし、石川の好きなものなんて全然判らなかったから。
だから、もう、自分で決めた。
ただ一つ、自分が知っている石川の好きなものを組み合わせて。

開けてもいいですか? という問いに、コクンと頷く。
カサッと包みを開ける音がする。
そして、チリリンという音も。

「………あ、ピンク色の鈴だ」
嬉しそうな石川の声。
「かわいー……」
またチリリンと音を鳴らし、飯田からもらった鈴をじっと見やる。
「………でもそれ、安物……」
感動してくれるのはすごく嬉しかったのだが、それと同時に、もう少し高くて
気の利いたものでも買ってあげればよかったと罪悪感が走る。
「なんでですか? 値段なんか、関係ないです。
だって飯田さんが私の為に選んでくれたんだから」
でもその罪悪感を、石川はたった一言で消し去ってくれる。
胸がいっぱいになった。
ここは、素直に気持ちに従おう。


「石川」
「……はい?」

ちゅ。

ほんのちょっとだけの、キス。
軽く唇を合わせただけの、軽いキス。
お互いの顔は、トマトより赤い。

「………じゃ、帰ろっか」
照れ隠しなのか、石川に背を向けて右手を出す。
それを見て、ポーッとしてた石川もやっと元に戻る。
「………はいっ

仲良くお手々を繋いで、二人は歩く。

「あ、飯田さん、言うの忘れてましたけど、プレゼントありがとうございました!」
「う、うるさいな。隣でそんなおっきい声出されたら、耳痛いんだけど」
「ええっ、だ、大丈夫ですか!? 飯田さん!」
「………だから、おっきい声出すなって……」


夜の街には、飯田さんと石川さんの声と、
時折風に吹かれて、チリリン、という鈴の音が聴こえてましたとさ。




―1月20日―

18歳の誕生日。
どうやら今日は、一人で過ごすみたいです……。


「ヒぇ、メール来た?」
友達の問いに、フルフルと首を横に振る。
誰の、どんなメールが来たことは、聞かなくても判る。
市井の、今日の誘いのメールのこと。

「……やっぱり、嫌われちゃったんだよ……」
時刻はもうすぐ昼の1時。市井の休憩時間も終わる。
それなのに今になってもメールも電話もないってことは、そういうことだ。
嫌われた。怒ってる。呆れられた。
「……でも、まだ判んないじゃん。今日バイト行った時に言うかも」
「今日矢口バイト休み」
「………」
返す言葉がない。
「あ〜……」
慰めの言葉を探すが、なかなか思い付かない。
それに、今の矢口に何を言っても無駄なような気がする。
だから、頭を少し撫でてやって、声をかけずに席に戻った。
そんな友達に感謝と寂しさを感じながら、矢口は残りの昼休み時間を携帯を眺めながら過ごした。


5限目が始まっても、携帯を眺め続けることは止めない。
時に震えるメールのバイブ音にドキドキしながら読んでみるが、待っている人からのメールじゃない。
後藤や、違う学校の友達からだ。
その度に悲しくなる、自分の心。しかも同時に虚しさも襲ってくる。
それが嫌で、気分転換に窓に顔を向けた時だった。

「……うそ……」
一瞬、我が目を疑った。
だってまさか、そんな事考えもつかなかったから。
と、同時に震える携帯電話。
先生に気づかれないよう慌てて未読メッセージを読む。

“市井は今、やぐっちゃんの高校の正門にいるッス”

見た直後、一気に脱力。
今まで張り詰めていたものが、スゥーッと解けていった。
そして、また窓の外を見る。
そこには、寒そうにコートのポケットに手を突っ込んで、キョロキョロと
矢口が何処にいるのか探している市井がいた。

「………バーカ」
矢口はここだよ、もっと右。
そう。……あ、行き過ぎ。もちょっと左。
「………紗耶香」
小さく、周りに怪しまれないように、そっと呟く。
その矢口の声が聴こえたのか、市井の視線が、矢口と合った。
合った瞬間、にぃーっと笑う市井。久し振りに見た笑顔。
あんな優しい顔で見られたら、自分が取る行動は一つしかない。

「センセー! 矢口、体調悪いんで早退します!」


はぁはぁはぁ……
息を弾ませながら、正門へと向かう。その顔は笑顔だ。
「紗耶香っ」
「おわわわっ」
走ってきた勢いをつけたまま、矢口と同じ様に笑顔で待っていた市井に飛びつく。
それを支えきれずに、よろける市井。
「紗耶香ぁ〜」
でも矢口はお構いナシに、市井の胸に顔を埋めてくる。
完全に甘えモードだ。こんな矢口は久し振り。
最近の矢口は、ずっと拗ねていたからだ。

「……ゴメンね? 矢口、ひどいこと言って……」
少し落ち着いて、まずは謝ることから。
「いや、市井こそゴメン。ほんとは早く謝りたかったんだけど、時間合わなかったし…」
お互いに謝りあって、とりあえず仲直り。
でもまだ解決してない問題がある。
「やぐっちゃん、これから時間ある?」
「あるけど…紗耶香仕事は? 今真っ最中じゃないの?」
「休んだんだ。やぐっちゃんに、渡したい物があったから」
「渡したいもの?」
「そう。誕生日プレゼントさ」
え…、と戸惑っている矢口を立たせ、乗ってきたバイクの後ろへ乗せる。
そして、矢口には大分でかいヘルメットをかぶせ、自分もバイクへ乗った。



―――

着いたそこは、市井の下宿先、中澤のマンションの部屋。
「入って」
市井の部屋のドアを開けて、矢口を誘導する。
「適当に座ってていーよ」
そう言われた矢口は、慣れた様子でベットに腰掛ける。
もう何十回と来た部屋だから、勝手も判る。
市井が何処かに行って戻ってくる間、漫画を読んで待つことにした。

「お待たせ〜い」
いつものおちゃらけた口調で、ドアを開けて入ってくる。
その市井の右手には、小さい箱が握られていた。
「これが、市井の気持ち」
そう言って箱を開け、矢口の左手を取り薬指に箱の中身をはめる。
「これって……」
「うん。婚約指輪?ってやつ。後藤に付いて来てもらって、やぐっちゃんのサイズ
教えてもらったんだよ。そのせいで吉澤に誤解されちゃったみたいだけど」
あはは、と一人で笑う。矢口は反応ナシ。
「…………」
薬指にはめられた指輪を愛おしそうに見て、涙を流す。
「な、なんで泣くのっ? あ、もしかして嫌だったとか!?
わ、ごっごめん。こんなん押し付けたりされたら困るよね!」
矢口に泣かれると、ひどくあせってしまう。今もそうだ。
冷静な判断や分析ができない。
「違う。嫌じゃない……嬉しいの…」
その上、泣かれたまま抱きつかれたりしたら、それでこそオカシクなる。
「やぐっちゃん……」
「んっ……」

もう絶対にやめられない。そう思った。


反り返った首の喉元に口付けると、艶めかしい息を吐く。
抵抗するような気は見えない。なので、そのまま少し強くアトを付けるかのように吸う。
もっとも、抵抗してももうやめる気はないのだけれども。
「……ん…」
身体をゆっくりとベットに押し倒し、制服のブレザーを脱がし、シャツのボタンを外す。
右手は矢口の左手と繋ぎ、左手でブラもシャツも脱がしていく。
「や…だぁ……」
露わになった上半身の胸を隠すように空いた右手を置くが、それも市井の左手が矢口の右手を掴み、
隠さないように腕を固定する。
「キレイなんだから、隠したりしたらダメだよ…」
優しくそう言って、胸の先端、乳頭を口に含む。
「んっ」
ピクリと反応する身体。いやいや、と動く首。
それを無視して、舌で転がし軽く噛む。
「……ぅあっ…んん」
そうやって何度も舐めていると、それだけじゃ物足りなくなり、繋がれていた手を離し、
ゆっくりともう一方の胸を包み込むようにして揉む。
前に触った時よりも、少し大きくなっているような気がした。

行き場を失った矢口の両手は、市井の頭に。
抱え込むようにして、快感にじっと耐える。
「んっんっ……ぅん…」
チュッチュッと胸を吸う音と一緒に交じり合う矢口の喘ぎ声。
手はもう胸にはなくて、太腿をつたってスカートの中へ。
もう一方の手は、矢口が足を閉じたりしないようにしっかりと押さえている。
「……あっ…やぁ……」
下着越しに感じる、市井の指。
濡れていることを市井に感じられたくないのに、足を押さえられているので抵抗できない。
どうしようもできなくなった矢口は、抱えた頭にギュッと力を込めた。


「脱ごっか」
胸から顔を離し、耳元にそっと囁く。
それに対し、真っ赤になりながらもコクンと頷く矢口。
やがて、ゆっくりと脱がされていくびっしょり濡れた下着。
今矢口が着ているのは、スカートだけになった。
でも市井はスカートを脱がさず、今度は下着という隔たりがなくなったソコに、そっと指を這わせる。
「ふあっ!…っ……くぅ…」
冷たい市井の指が、矢口の愛液でいっぱいになったソコをかき回す。

クチュ……ヌチャッ…

聞こえたくないのに聞こえる厭らしい音。
恥ずかしさに耐えられなくなって、左手で顔を覆った。



―1月20日―

18歳の誕生日。
どうやら今日は、一人で過ごすみたいです……。


「ねぇ、メール来た?」
友達の問いに、フルフルと首を横に振る。
誰の、どんなメールが来たことは、聞かなくても判る。
市井の、今日の誘いのメールのこと。

「……やっぱり、嫌われちゃったんだよ……」
時刻はもうすぐ昼の1時。市井の休憩時間も終わる。
それなのに今になってもメールも電話もないってことは、そういうことだ。
嫌われた。怒ってる。呆れられた。
「……でも、まだ判んないじゃん。今日バイト行った時に言うかも」
「今日矢口バイト休み」
「………」
返す言葉がない。
「あ〜……」
慰めの言葉を探すが、なかなか思い付かない。
それに、今の矢口に何を言っても無駄なような気がする。
だから、頭を少し撫でてやって、声をかけずに席に戻った。
そんな友達に感謝と寂しさを感じながら、矢口は残りの昼休み時間を携帯を眺めながら過ごした。


5限目が始まっても、携帯を眺め続けることは止めない。
時に震えるメールのバイブ音にドキドキしながら読んでみるが、待っている人からのメールじゃない。
後藤や、違う学校の友達からだ。
その度に悲しくなる、自分の心。しかも同時に虚しさも襲ってくる。
それが嫌で、気分転換に窓に顔を向けた時だった。

「……うそ……」
一瞬、我が目を疑った。
だってまさか、そんな事考えもつかなかったから。
と、同時に震える携帯電話。
先生に気づかれないよう慌てて未読メッセージを読む。

“市井は今、やぐっちゃんの高校の正門にいるッス”

見た直後、一気に脱力。
今まで張り詰めていたものが、スゥーッと解けていった。
そして、また窓の外を見る。
そこには、寒そうにコートのポケットに手を突っ込んで、キョロキョロと
矢口が何処にいるのか探している市井がいた。

「………バーカ」
矢口はここだよ、もっと右。
そう。……あ、行き過ぎ。もちょっと左。
「………紗耶香」
小さく、周りに怪しまれないように、そっと呟く。
その矢口の声が聴こえたのか、市井の視線が、矢口と合った。
合った瞬間、にぃーっと笑う市井。久し振りに見た笑顔。
あんな優しい顔で見られたら、自分が取る行動は一つしかない。

「センセー! 矢口、体調悪いんで早退します!」


はぁはぁはぁ……
息を弾ませながら、正門へと向かう。その顔は笑顔だ。
「紗耶香っ」
「おわわわっ」
走ってきた勢いをつけたまま、矢口と同じ様に笑顔で待っていた市井に飛びつく。
それを支えきれずに、よろける市井。
「紗耶香ぁ〜」
でも矢口はお構いナシに、市井の胸に顔を埋めてくる。
完全に甘えモードだ。こんな矢口は久し振り。
最近の矢口は、ずっと拗ねていたからだ。

「……ゴメンね? 矢口、ひどいこと言って……」
少し落ち着いて、まずは謝ることから。
「いや、市井こそゴメン。ほんとは早く謝りたかったんだけど、時間合わなかったし…」
お互いに謝りあって、とりあえず仲直り。
でもまだ解決してない問題がある。
「やぐっちゃん、これから時間ある?」
「あるけど…紗耶香仕事は? 今真っ最中じゃないの?」
「休んだんだ。やぐっちゃんに、渡したい物があったから」
「渡したいもの?」
「そう。誕生日プレゼントさ」
え…、と戸惑っている矢口を立たせ、乗ってきたバイクの後ろへ乗せる。
そして、矢口には大分でかいヘルメットをかぶせ、自分もバイクへ乗った。


―――

着いたそこは、市井の下宿先、中澤のマンションの部屋。
「入って」
市井の部屋のドアを開けて、矢口を誘導する。
「適当に座ってていーよ」
そう言われた矢口は、慣れた様子でベットに腰掛ける。
もう何十回と来た部屋だから、勝手も判る。
市井が何処かに行って戻ってくる間、漫画を読んで待つことにした。

「お待たせ〜い」
いつものおちゃらけた口調で、ドアを開けて入ってくる。
その市井の右手には、小さい箱が握られていた。
「これが、市井の気持ち」
そう言って箱を開け、矢口の左手を取り薬指に箱の中身をはめる。
「これって……」
「うん。婚約指輪?ってやつ。後藤に付いて来てもらって、やぐっちゃんのサイズ
教えてもらったんだよ。そのせいで吉澤に誤解されちゃったみたいだけど」
あはは、と一人で笑う。矢口は反応ナシ。
「…………」
薬指にはめられた指輪を愛おしそうに見て、涙を流す。
「な、なんで泣くのっ? あ、もしかして嫌だったとか!?
わ、ごっごめん。こんなん押し付けたりされたら困るよね!」
矢口に泣かれると、ひどくあせってしまう。今もそうだ。
冷静な判断や分析ができない。
「違う。嫌じゃない……嬉しいの…」
その上、泣かれたまま抱きつかれたりしたら、それでこそオカシクなる。
「やぐっちゃん……」
「んっ……」

もう絶対にやめられない。そう思った。


反り返った首の喉元に口付けると、艶めかしい息を吐く。
抵抗するような気は見えない。なので、そのまま少し強くアトを付けるかのように吸う。
もっとも、抵抗してももうやめる気はないのだけれども。
「……ん…」
身体をゆっくりとベットに押し倒し、制服のブレザーを脱がし、シャツのボタンを外す。
右手は矢口の左手と繋ぎ、左手でブラもシャツも脱がしていく。
「や…だぁ……」
露わになった上半身の胸を隠すように空いた右手を置くが、それも市井の左手が矢口の右手を掴み、
隠さないように腕を固定する。
「キレイなんだから、隠したりしたらダメだよ…」
優しくそう言って、胸の先端、乳頭を口に含む。
「んっ」
ピクリと反応する身体。いやいや、と動く首。
それを無視して、舌で転がし軽く噛む。
「……ぅあっ…んん」
そうやって何度も舐めていると、それだけじゃ物足りなくなり、繋がれていた手を離し、
ゆっくりともう一方の胸を包み込むようにして揉む。
前に触った時よりも、少し大きくなっているような気がした。

行き場を失った矢口の両手は、市井の頭に。
抱え込むようにして、快感にじっと耐える。
「んっんっ……ぅん…」
チュッチュッと胸を吸う音と一緒に交じり合う矢口の喘ぎ声。
手はもう胸にはなくて、太腿をつたってスカートの中へ。
もう一方の手は、矢口が足を閉じたりしないようにしっかりと押さえている。
「……あっ…やぁ……」
下着越しに感じる、市井の指。
濡れていることを市井に感じられたくないのに、足を押さえられているので抵抗できない。
どうしようもできなくなった矢口は、抱えた頭にギュッと力を込めた。


「脱ごっか」
胸から顔を離し、耳元にそっと囁く。
それに対し、真っ赤になりながらもコクンと頷く矢口。
やがて、ゆっくりと脱がされていくびっしょり濡れた下着。
今矢口が着ているのは、スカートだけになった。
でも市井はスカートを脱がさず、今度は下着という隔たりがなくなったソコに、そっと指を這わせる。
「ふあっ!…っ……くぅ…」
冷たい市井の指が、矢口の愛液でいっぱいになったソコをかき回す。

クチュ……ヌチャッ…

聞こえたくないのに聞こえる厭らしい音。
恥ずかしさに耐えられなくなって、左手で顔を覆った。


「ぁ……ん、んっ…っ……」
できるだけ声を出さずに、必死で耐える。
でもそうやって声を出さないのが気に入らないのか、一番感じる小さく尖ったクリトリスを
執拗に攻めて、声を出さす。
「やっ、あっ、ぁ……んっ!」
とうとう矢口も我慢ならずに、市井の思い通りに。
その声を聞いて、市井は満足気に笑った。
「…さ…やかのバ…カぁっ…うぁ…」
「へへへ…」
批難の言葉にまたしても笑顔で返し、少し濡れている唇にキス。
右手の核への攻撃は止めずに、しばし矢口の口内を味わう。
「…っ……ふっ…」
時折漏れる息が、より一層市井の理性を崩す。
頭の奥がシビれるような感覚が全身を襲い、キスの激しさも増す。
矢口はあまりの激しさに息ができなくなり、市井の背中をドンドンと叩く。
「あ、ごめん」
気づいた市井は、慌てて顔を離した。
そして、
「………いい?」
2年間ずっと言いたかった一言を言った。


やっと、やっと結ばれるんだ。
この前はちょっと邪魔があって、これからって時に終わっちゃったけど。
今日は違う。
誰にも絶対邪魔させない。
市井は、ヤる時はヤるんだからな!

「う、うん…」
その市井の気持ちに応えようと、矢口も決心したように頷く。
やっぱりまだ恐いけど、たぶん大丈夫。
市井を信頼して、任せることに。

「………よいしょっと…」
矢口の了解を得た市井は、どうしたことか矢口を抱き起こし、向かい合うようして座る。
「え…?」
「こうした方が、落ち着く」
まだ戸惑っている矢口の両手を自分の首に廻し、自分の左手は矢口の背中に。
そして、右手は愛液で潤っているソコに指を一本当て、一気に挿入した。
「っぁ!!」
今まで一番身体を大きく反応する。

二人の初めてのエッチは、まだ始まったばかり。


「つぅ……ん…んっ」
「ダイジョーブ…?」
肩に顔を埋めて痛がっている矢口を見かねて、市井が声をかける。
指は動かさず、そのままで。
「ど、どうしよ…。指抜いた方がいい?」
「……っ…だ、い…じょーぶっ…」
「で、でもさ……うぅ」
まさか、こんなに痛がるなんて思ってなかった。
自分が“したい”という気持ちだけで、押し倒すんじゃなかった。
罪悪感が募る。

どうしよう、やっぱ抜いた方がいいのかな?と自分の中で葛藤していると、
さっきまでじっと痛みに耐えていた矢口が口を開く。
「紗耶香……」
「ん…んん?」
「………動かして、いーよ…」
「え……」
でも、と言いたげな市井に、もう一度『大丈夫だから』と返す。
少しは慣れたのだろうか。さっきよりも大分苦しそうな声も聞こえなくなった。
「じゃ、じゃあ……」
市井も矢口の言葉に甘え、ゆっくりと動かし始めた。


「…ふぅんっ…あ、あっあっ…んぁっ……」
「やぐち…」
矢口の苦痛に耐えるような喘ぎも消え、指の動きも激しさを増す。
愛液がたくさん出ているので、矢口のナカの滑りもよい。
指を出し入れする度に嫌でも聞こえてくる厭らしい音も、矢口にはどうでもよくなってきた。
「んんっんっ…は……ぁ…あぅっ!」
より一層市井を感じる為に、身体を密着させる。
恥ずかしいなんて言葉は、もうどこかに消え去ってしまっていた。

「……ん…っ……ぅ、ぁ…」
舌を思いっきり絡め合う、濃厚なディープキス。
虚ろなまま、市井の舌の動きに合わせ、自分も顔を動かす。
腰も、市井の指の動きに合わせ、激しく揺れる。
「っ……ん、ん……はぁっあっ…」
「……はぁ…矢口……」
「ん…紗耶…香ぁ…っ」
唇を離し、二人見つめ合う。
そして、今度は触れるだけのキスをして、市井は一旦指を抜いた。
「はぅぅ…」
息をつく矢口。
「いくよ」
「ん。…うあぁっっ!」
ちょっとの休息を与えた後、市井は一気に指を二本挿入した。

「あっ、んっ、んっ、ん…っ……」
先程の動きの倍くらいも速く動く指と、もう一本増えた指にオカシクなる。
「い…やぁっ、……も…ダ……メぇ!…はっ」
「……うし」
市井もそんな矢口の限界に気づき、更に動きを速めた。
「やっ、あっ……んんっ、…っ……うあぁっ!」
短く叫び、ガクンと全身の力が抜ける。
市井はそれを上手く支え、左手は矢口の頭を撫で、右手はゆっくりとナカから引き抜いた。
と同時に溢れてくる愛液。
市井はその右手を口元まで持って行き、ぺロッと手についた愛液を舐めた。
「……矢口の味がする」
「………バカぁ……」
力なく肩に頭突きする矢口に対してへへへと笑い、矢口を抱いたままベッドに寝転がる。
達成感と絶頂感を感じていた二人は、そのまま眠りに就いてしまった。


―――
――


ピンポンピンポンピンポーン!

けたたましいインターホンの音で、矢口がムクッと身体を起こす。
隣には、まだスヤスヤと寝息を立てて眠っている市井。
そんな市井を柔らかい目で見て、目にかかっている前髪を横に流してやる。
「えへへ。なんか、すっごい幸せ…
と、余韻に浸りたいのに、休まることなく鳴り続けるインターホン。
どうせ裕ちゃんだろうと思っている矢口は、なんで鳴らし続けるばかりで
中に入って来ないんだろうと不思議がる。
そして、このまま鳴り続ければ、せっかく可愛い顔して眠っている市井が
起きてしまうということも考えられる。
仕方がなしに矢口は、出ることにした。
だがその前に。
「うわ、スカート濡れてる……。どうしよう……」
行為中脱がされることもなくずっと着用していたため、自らの愛液で濡れているスカートを
なんとかしなければならない。
あとは、どこかに脱がされたまま放置されている下着や衣類を探して、市井のタンスから
適当なジャージを取り出し、履く。
そして、眠っている市井を残し、気だるい身体を起こして玄関に向かった。


「…………」
ドアにある、穴を覗いてみる。
が、そこに中澤の姿はない。
「…ん〜?」
じゃあ誰なんだろうと思ってドアを開けてみると、そこには矢口と同じくらいの背。
でも、どう考えてみても小、中学生。
「……だ―」
「アンタ誰?」
自分が言おうとしていたセリフを、先にその子に言われる。
「や、矢口真里」
なぜかそれに対し、答えてしまう矢口。
気のせいか、睨まれているような気もしてきた。
「あっそ」
「なっ」
せっかく人が答えたのに、その気のない返事。
自分から聞いてきたクセに! 矢口の怒りのボルテージは上がる。
でも少女はそんな矢口を無視して、大きな荷物と一緒に勝手に部屋へと上がって行く。
「ちょっ、何勝手に入って…」
矢口も他人の家なので、あまり強くは言えないが、市井の同伴で入って来たので、
少なくともこの少女よりかはマシだ。
腕を掴んで、家に入って行くのを引き止める。

「わっ、何すんねん! 危ないやろが!」
あれ……関西弁。誰かと一緒。
「……ねえ、ここ中澤裕子ん家」
「そうや、知ってるちゅーねん。そんなこと」
やっぱり。
どう聞いても関西弁。しかも、中澤を知っているときている。
「つーか、なんで自分がおるん? ここは、二人暮らしのハズやで」
「や、矢口は…」
「やぐっちゃぁ〜ん、ドコいんのぉ〜?」
紗耶香の彼女だから、と続けようとした時、その本人がやって来た。
起きた時隣にいなかった矢口を探しに来たんだろう。
矢口の名を呼びながら、ウロウロとこっちにやって来る。
そして、問題の少女と目が合った。

「あ、いちーや!」
「あれ。なんでボンがここに…」
「そんなんどーでもいーやん!…にしてもいちー、逢いたかったぁ
ボケーッとしている市井の胸に飛び込み、再会の喜びを露わにする『ボン』と呼ばれた少女。
それを、ぽかんとして見つめる矢口。
「あ、やぐっちゃん、紹介するよ」
見つめれらていることに気づいた市井は、身体から少女を引き離し、矢口の方へと向けさせる。
そして
「この子の名前は加護亜依。裕ちゃんの妹なんだ」
とんでもないことを言い出した。


正確に言うと、中澤の母親と加護の父親が再婚して、その連れ子だったのが加護。
再婚しているのに名字が違うのは、今流行りの夫婦別姓ってやつだ。
市井と面識があるのはなぜかと言うと、ちょくちょく加護が中澤の家に邪魔をしに行き、
その時に居候している市井と仲良くなったというワケだ。
でもまだ市井の彼女の矢口とは会ったこともなく、市井に彼女がいるというのも知らなかった。

――

「なあいちー、お腹空いたぁ。なんか作ってぇ
とっておきの甘えた声。
市井に後ろから抱き付いて、夕ご飯の催促。
そういえば、時計を見るともう8時だった。
あれから、かなり時間が経ったんだと、今気づく。
「はいはい」
その加護のお願いにニコニコしながら、市井は頷く。
「………」
それを見た矢口は、黙ったまま口を尖らせ市井の服の袖を引っ張る。
「……ん?」
振り向くと、矢口の拗ねた顔。
加護が市井に甘えてるのを見て、妬いたみたいだ。
そんな子供みたいな矢口が可愛くて、クシャッと頭を撫でる。
「やぐっちゃん、シャワー浴びてきなよ」
「え、なんで?」
「………ボンが帰ったら、もう一回………」
最後の方は市井が矢口の耳元で言ったので、聞き取りにくかったが、
聞いた瞬間矢口の顔が真っ赤に染まったので、容易に想像できるだろう。
その赤い顔のまま、タタタと走ってお風呂場に入って行った。
それをにこやかな顔で見送って、加護の方に向き直る。
「さて…」


「なんで、ボンはこんな時間にここにいるのかな?」
「ぅ…」
たぶん市井は、加護の事情を大体判ったんだろう。
おっきな荷物を持って、しかもこんな遅い時間に。
いつもは加護がここに来る前に、中澤の母親から電話がかかってくるはずなのに。
それが、今日はなかった。
それじゃあ、考えられることは一つ。

「………家出?」
「………ふぇっ……いちー……うわぁーーん!」

さっきまで笑顔だった加護の顔が、どんどん崩れてゆく。
ずっと我慢してたのだろうか。ずっと強がっていたのだろうか。
まだ加護は、中学1年生なんだ。

(………やぐっちゃんゴメン。今日もう一回出来そうにない……)

大泣きして市井の胸に飛び込んでくる加護を優しく抱いて、
市井は心の中で矢口に謝っていた……。


そうこうしている内に矢口もお風呂から上がってき、事情を話す。
少し残念そうな顔をしていたが、許してくれた。
そして、そろそろ帰らなきゃやばいと市井に別れを告げ、家に帰って行く。
それとほぼ同時刻、中澤が帰宅。
部屋に入ってくるなり加護がいてびっくり。
しかもその加護が泣いているのを見て、二度びっくり。

――

「チビ助、どーしてん」
「………」
「こら、ねーちゃんを無視すんなや」
「………」
中澤がそう言っても、市井からまったく離れようとしない加護。
「……ねぇちゃんに言うても、うちの気持ちなんて判らんもん」
グリグリと頭を市井に押し付けて、ボソッと言う。
ムッとなる中澤。
「そんなん言わな判らんやろ。なんや、誰かにイジメられたんか?」
「………」
答えない。
思い沈黙が続く。

「もういい。知らん。好きにせぇや」
とうとう我慢しきれなくなった中澤が、切れたように言う。
そしたらやっと加護が顔をあげた。
「…………怒ってる?」
市井を盾にするかのように、こっそりと覗き込みながら。
「知らんっちゅーてるやん。喋りかけんな」
拒絶するような言葉に、加護の身体がビクッとなる。
恐いんだ、中澤が。お姉ちゃんが。


「…うぃっく……な、なんで? やっぱ、血ぃ繋がってないから……?」
そんなことを言われるのは、本当の姉妹じゃないから?
うちのことが嫌いやから?
せっかく泣き止みそうだったのに、また泣く。
「なんでそーゆうこと言うんだよっ。んなワケないじゃん!」
市井は乱暴に涙を拭き取り、軽く頭を小突く。
「だってっ…だって、みんなそーゆうねんもん! お前んトコのお母さんと
ねぇちゃんは血ぃ繋がってないから、お前仲間外れなんじゃって!」
「………誰がそんなバカなこと言うねん」
「…………学校のヤツ」
許せん、そう市井が言おうとした時、先に中澤が口を開く。
「だから、もうそこに居りたなくて家出して来たんか?」
「…………うん」
「お母さんとかお父さんに黙って?」
「…………うん」
「………そーか」
納得したように一人で頷いて、どこかに電話をかけ始める中澤。
それを、不思議そうにみる市井と加護。

「あ、もしもし。そう、うん。
ああ、おんで。………え、マジで? 判った。オッケーオッケー。
おう。んじゃそっちも頑張って、はい」
ピッと通話ボタンを切って、こっちに向き直る。
そして。
「……チビ助は、しばらくこの家に預かることにしたから」


突然の、予想しなかった言葉。
「マ、マジっすか!?」
「マジや。母さんも父さんもいいって言ってた」
「ウソ……」
信じられない加護。
「そんなにねーちゃん信用ないんかい。ちゃんと言うてたって。
向こうもさっきの話、先生からなんか聞いたらしくて、それやったらまだ中1やし、
違うトコで学校通わせてみるのもいいやろ、やって。
………わしらと同じで、適当な両親やで、ほんま」
「血は争えないないってやつですか……」
「うっさいハゲ!」
ゴツンと頭に一発。
「いってぇ! 何すんだよ」
「あんたの両親から言われてんねん! 変なこと言うたら殴ってくれって」
「ウソだ! 作り話だ!」
「あ、あんたも裕ちゃんの言うことが信用できひんのかい!」
「できるかバカ!」
ギャーギャーと暴れ出す大人げないお二人さん。
「…………」
置いてけぼりにされた加護は…

「………うちも混ぜろ〜!!」

そう言って嬉しそうに、二人の間に入ってゆく。

「うわ、ボン危ないっ」
「何やチビ助、やるんかっ!」
「うちの新しい技、見せたるわ!」

そうや。
別に、血なんか繋がっていなくたって。
心の中が繋がってれば。
絶対に壊れたりしーひんもんね。

三人でワイワイ騒ぎながら、加護はそんなことを思っていた。




―1月21日―

「いいかチビ助。大人しくしてんねんぞ、絶対」
「うっさいなぁ、もうそれ何回も聞いたって」
「何回言っても判らんから言うてんねんやろが!」
姉妹喧嘩。
といっても、一方的にお姉ちゃんが怒っているだけだが。
それを、軽くあしらうようにしている、15歳下の妹。
「早く仕事行って来ぃや。もう戻って来んでもええから」
「なんやとー!? こ、ここ、あたしん家やぞ!」
「あーはいはい。ストップストップ。裕ちゃんそろそろ行かなきゃ、昼に出す角煮が…」
「………くそっ」
キレる寸前、間に入った市井に止められ、怒りの行き場を失う。
でも市井の言う通りで、今から昨日煮込んでいた角煮を再度煮込まなければ昼には出せない。
なので、この怒りは家に帰って来た時に。
「クソ亜依! 覚えてろよ!」
子どもに向かって大人気ないことを叫びながら、大慌てでエスカレーターに乗り、
娘。レストランに向かう。

「はぁ……ねぇちゃんの相手も疲れるわ……」
見送った後、大きなため息。
それを隣で見た市井は、

(キミ達姉妹の相手の方が疲れるよ……)

そう思いもしたが、口に出したら命が無くなりそうだったので、やめておいた。


「じゃ、市井もそろそろ……」
市井の出勤時間は、午前8時45分。
家を出て行く時間は、午前7時50分。
通勤は中澤は車で、市井は自転車。
だからと言って、自転車で1時間かかるワケじゃない。
途中、矢口の家に寄って、矢口の学校まで送って娘。レスに行くのだ。
これをもう2年間も続けてきた。今日もそう。
「ボン、プレステとか勝手にやってていいから、大人しくしてるんだぞ?
2月になったら、こっちの学校にも通えるしさ。その間だけ、部屋で大人しく、ね?」
「うんっ! いちーがそう言うねんやったら、うちもそーする」
「よしっ」
ナデナデと頭を撫でてやり、肩にカバンを提げ部屋を出て行く。
でも出て行く前に、「大人しく!」と繰り返すのは忘れない。
それを中澤の時とは違い、笑顔で「うんっ」と返す加護。
この差は一体何なんだ。


朝だけで何十回言われただろう『大人しく』。
いたずら好きでやんちゃな加護。
当然その性格を知っている中澤と市井。
だから、最初に言っておいたんだ、『娘。レストランには来るな』と。
加護が遊びになんか来たら、どうなるか想像出来る。
だったらなおさら、縄で縛っておくべきだったんだ。
注意されて、言う事を聞くようなヤツじゃない、判ってたハズだ。

「くくくっ……さぁ、娘。レスにでも遊びに行こかな〜」

判ってた、ハズだったんだ………。


――

ピンポーン

『はい』
「あ、市井っす」
『今行く〜』

インターホン越しの矢口の声。
いつ聞いても可愛いよなぁ、抱きしめたくなる。
そんな妄想をしている内に、制服姿の矢口がやって来た。
「……なに?」
でもいつまで経っても矢口をじっと見るだけで、自転車に跨ろうともしない市井。
不審に思い、声をかける。
「へ?……いや、別に」
声をかけた途端、急に表情を変え、自転車に乗る。
そして矢口が後ろに乗ったのを確認し、発車。

「なんか、隠してる…」
「え、べ、別になんもないよっ」
明らかに動揺した声。一体何だというんだ。
「ウソだぁ、矢口が出て来てからオカシかったじゃん!」
「だ、だからそれは……」
「なに?」
信号で止まったのを利用して、市井を後ろに振り向かせる。
市井の目は、泳いでいる。
でも時々矢口の第二ボタンまで開けたシャツの胸元を見ては顔を赤らめ、また泳がす。
「?………あっ!」
最初その市井の思いに気づかなかった矢口だが、視線が胸元を見たりしているのを見て気づいた。
すぐさま、胸元を押さえる。

「エロオヤジッ!」
げしっとお腹に一発。
「な、何すんだよっ、いくら市井でも外でプレイは考えてな…」
「うっさい! 早く出発しろ!」
もう一度蹴りを加え、信号が変わったことを乱暴に伝える。
「……くそぅ、ちょっと昨日のこと思い出して、いらぬこと考えてただけなのに…」
「何か言った!?」
「いえ…何も……」
「じゃあ早く漕いで。遅れちゃうじゃん!」
「はいはい、判りましたよ。ったく、ワガママなんだから…」
「聞こえてるよ」
「はうぅぅっ」
後ろから廻された腕に力が込められる。
これ以上余計な事を口走ったら命に関わるだろうと考えた市井は、
素直に矢口の言う通り自転車を漕ぐことに専念した。


もうすぐ嵐が来るとは考えもせずに……。


――

昨日いきなり現れた嵐は、ただいま娘。レストランに向かっている模様。
もうすぐ上陸です。
娘。レストランの皆様、嵐に備えての準備と、覚悟を決めて置いた方がよいかと思われます。


そんなアナウンサーの言葉が聞こえてきそうだ。
でも実際には聞こえるワケがない。だから、準備も覚悟も出来るワケがない。
嵐は、着々と歩を進め、娘。レスに到着した。

カランカラン

お客が来た、という鐘の音。
石川は案内をしに入り口の方へ向かう。
「いらっしゃいませ」
と言ってスマイルをしたのはいいが、肝心のお客様がいない。
「あれっ?」
外を見てみる。でもいない。
フロアを見渡してみる。それらしいお客様はいない。
その代わり、小さな、150cmに満たない子どもが、まさに厨房の中にへと侵入しようとしている。
「ちょっ」
慌てた石川が咄嗟に出した手をヒラリと交わし、たたたっと中に入って行く。
まさか交わされると思ってもみなかった石川は、前に転びそうになる。
「きゃっ」

ガッシャーン!

悲鳴と共に、皿が割れる音。
ソロリと目を開けてみる。どうやら自分はコケてないことだけは判った。
「ちょっと大丈夫!?」
じゃあそれを支えてくれた人は誰か、それは簡単。
石川がピンチの時には、必ず助けにくる素直じゃない貴公子飯田。
「あ、ありがとうございます…」
腕の中に抱かれて、このまま幸せに浸るのもいいのだが、先に大事なお知らせ。
「飯田さんっ、中に、中に小さな子が入って行ったんです!」


「ふっふっふっ。なっち会心の一作、杏仁豆腐だべ」
妙に自信満々な安倍。それを不審気に見ている市井。
「ちょっと味見させてよ」
「まあまあ、食がそそるのは判るけど、まずは作ったなっちからっしょ。
………いただきまー」
「…うえっ、これ杏仁豆腐なんかとちゃうやん!寒天と牛乳の味しかせーへんぞ!」
下から聞こえてくる関西弁。
一斉に二人、下を向く。
「ボンッ!?」
市井の声に「ヤベ」と反応し、そこから逃げる。
「な、なっちの会心の一作を、寒天と牛乳って……」
「お、おいなっち…」
「絶対許さないべ!」
「うわ、なんか迫ってくる!」
「ちょお二人ともやめろって!!」
加護と安倍の追いかけっこを追う市井。
「あ、あの子です飯田さんっ!」
「あんた、石川に謝りなさいっ! ついでに落とした料理にも!」
それに石川と飯田も参戦。

厨房は鬼ごっこと化した……。


「おいおい、お前ら何やってんねん! うっさいぞ!」
「石川、入り口にお客さん待たせてるよ」
その騒ぎを聞きつけ、事務室から中澤と石黒がやって来る。
でも店長とマネージャーの二人が来ても、怒声と皿の割れる音は鳴り止まない。
それどころか、もっと酷くなるばかり。

「お、おい、お前ら………って、チビ助ぇ!!」
「チビ助?」
「あ、ああ…あたしの妹……って、説明しとる場合ちゃうわ!」
これ以上喋っていても、どうしようもない。
それどころか商売どころじゃなくなってしまう。
「いーかげんにしろよお前ら!!」
その一言に、一瞬静まり返る。
カッコよく決まった……と浸っていると、隣から同情するような声。
「カッコよく決まったのも、一瞬だけだよ裕ちゃん……」
石黒だ。
「………」
店長の面目、まるでナシ。

でもこのままじゃ不味いと思い、もう一度声を張り上げる。
でも今度は一瞬も静まらない。
こうなったら、全員一発殴ってやろうと考えた時だった。

「あんた達、いーかげんにしなさいよ!!」

シーン。
静まる厨房。
今度は一瞬どころか、まるで永遠のよう。

声の主は、保田だった。



――

「ほらチビ助、圭坊に謝って来い」
「…………」
中澤にそう言われて背中を押されても、加護は動こうとしない。
ホッペタを膨らませ、顔を下に向けて拗ねている。

保田に「あんた達、いーかげんにしなさいよ!!」と言われて、もうすぐ2時間。
他のみんなは、その保田の一言でショボンとして持ち場に戻ったものの、加護は今の様な状態。
事務室で売上げの計算をしている中澤の横で、体育座りをして拗ねているのだ。
だからさっきから保田に謝って来いと言っているものの、どうやら自分は加護に甘いらしく強く言えない。
かといって、このまま放っておくワケにはいかない。
悪い事をしたんだから、当然その事を詫びさせなければならない。
さあ、どうしよう。そう思った時だった。

「ねぇちゃん、さっきの人今ドコにおんの…?」
下を向いたまま、さっきから黙ったままだった加護が口を開いた。
「え、厨房ちゃうか?……謝りに行くん?」
「……」
ゆっくり頷く。
「……だから、ねぇちゃんも付いて来てくれる……?」
上目使い+涙声。

(こんなんされて断われるヤツっておんのか…?)

「しょ、しょーがないなぁ、付いてったるわ」
「やったぁ! だからねぇちゃん好きやねん
無理して面倒くさそうな顔を作ったけれど、それはすぐ崩れる。
なぜなら、加護に抱き付かれたから。
シスコンの中澤にはたまらない。
それを隣で見ていた石黒は「ハァ」とため息を吐いて、再びパソコンに目を向けた。


「あ、ボン」
厨房に二人で行くと、真っ先に市井に声をかけられる。
それに対し加護は曖昧な笑みを見せ、目的の人を探す。
「………あれ?」
クイクイ、と中澤の服の裾を引っ張る。
「圭坊は?」
加護の意図している事を判った中澤は、その事を市井に問う。
「圭ちゃん? ああ、外行ったよ外」
「まだ怒ってた?」
「いや、普通だったと思うけど……」
それを聞いてちょこっと安心。
中澤の手を握って保田のいる外に出ようとしたのだが、タイミング悪く中澤の携帯に電話がかかってきた。
すぐ終わるから、と言ったが、どうやら会話の内容を聞いていると、ちょっとトラブっているらしく、
なかなか終わりそうにもない。
仕方がなしに中澤はあきらめ市井に付いて来てもらおうとしたが、飯田に指導を受けていて無理っぽい。

「………大丈夫やんな」
小さく気合を入れて、一人で外に向かった。


「いややなぁ……やっぱねぇちゃん待っとけばよかった…」
弱気な言葉が次々出てくる。
こうやって謝る時間が迫ってくるにつれて、人は弱気になるもの。
加護もそうだった。

ソーッと、見つからないようこっそり覗いてみる。
今日は娘。レスで作られる昼飯を食べず、コンビ二でパンのようだ。
たまにはパンだって食べたい。それは判る。
しかも今日は天気が良いうえ、気温も低くない。
外で食べる昼飯は、とてもおいしかった。
「……ふう」
一息ついて、コンビ二で買った残り少ないコーヒー牛乳を飲み干す。
そしてそれを軽く握り潰し、加護の方に(正確には後ろ)向く。
急に振り向かれて驚いた加護は、瞬時に近くにあったゴミ箱に隠れる。
が、それが失敗だった。

「………よっ」

降ってくるパック。
向かってくるパック。
そのパックは狙いのごみ箱には入らず、

「……アダッ」

加護の頭にシュートしたのだ。


(しもた!)

そう思った時にはもう遅い。
逃げようとして足を動かすも、首ねっこを掴まれてしまって動けない。
観念してバツの悪そうに後ろを向いた。

「………ごめんなさいぃ」
殴られる、そう覚悟もしていた。
だから目もつぶって、泣きそうな声で謝った。
こんなことなら、いたずらをしたその場で謝っておけばよかった。後悔。
「……………」
しかし、いくら待ってもゲンコツは降ってこない。
ましてや返事も返ってこない。
不審に思っていると、さっきまで掴まれていた首ねっこが下ろされた。
身体が自由になる。逃げれる。
でも最後に相手がどんな顔してるのか確かめなければ。
逃げる準備万端で目を開けるとそこには、意外、という顔をした保田がいた。

「なんだ。あんた、ちゃんと謝れるんじゃない」
「なっ!」
「てっきり仕返しに来たのかと思ったわ。あービックリした」
胸を押さえて、一安心の顔。
「な、なんやねん、うちだって、悪いて思った事は謝るんや」
「そう。それが当然。よく出来ました」
ポンポンと頭に手を置き、弾ませる。
加護はそんな保田の行為に、なぜだか反抗できなかった。
加護の頭を触って撫でていいのは、両親と中澤と市井だけ。
それ以外の人が触ったら、絶対に怒ってたのに。

(なんでやろ……)

加護が市井を想うキモチと似たようなキモチを保田にも覚える。
恋は、いつだって突然だ。


「名前は?」
「……加護、亜依」
「加護、ね。あんた裕ちゃんの妹なんだって?」
「………そうや」
「うん。似てるわ、やっぱ」
頭から手を外し、今度はじーっと加護を見やる。
どぎまぎしてしまう加護。
「ど、どこが似てるねん。ねぇちゃんと一緒にしてもらったら困るわ」
見られてるのが恥ずかしくて、目を反らしてしまう。
でも言葉とかとは裏腹に、ちょっとどこが似ているのか期待してしまう。
少女の淡い期待は、すぐさま消え去るが。

「その、生意気な態度」

怒りと、期待していた自分が恥ずかしくて、加護の顔は真っ赤に染まる。
そんな加護を気にもせず、厨房に戻って行こうとする保田。
ムカついて、飛び蹴りをしてしまった。

「いたっ」

見事に命中して、よろける保田。逃げる加護。

「あんたっ、ちょっと待ちなさい!」
「いやや! 待ったら殺されるもん!」

さっきみんなに注意した事もすっかり忘れて、保田は加護を追いかける。
さっきと同じように追いかけられる加護。

そんな二人の様子を、中澤は笑って見守っていた。
………最初の五分だけは。
そして、その後はというと……

「お前ら二人とも、いいかげんにしろー!!」




―1月31日―

加護の都内の中学の転入も明日に控えた夜。
娘。レスのバイトが終わってから、矢口は中澤のマンションに向かっていた。
娘。レスの本店、『Hello!!レストラン』の人に中澤が呼ばれて遅くなるので、家には市井と加護だけ。
ここ一週間の間に、加護が市井のことを好きというのが判った矢口は、二人っきりにさせて
おけないという理由で、走ってマンションに向かう。
そしてインターホンを押した。

「ねぇちゃんや!!」
声と共に、勢いよくドアが開かれる。
予想していなかった矢口は、額にドガンと接触。
「わわっ、やぐっちゃんダイジョーブ!? 血ぃ出てない?」
「わはは、ごめんなさ〜い」
心配そうな声と、全然心配してない声。
額を押さえてうずくまった矢口でも、誰が心配してないかは判る。
「加護ぉ! マジぶっ殺す!」
涙ながらに加護に襲いかかろうとする矢口を、後ろで必死に市井が抑える。
それを、「キャー」とか言いながらおもしろそうにはしゃいでいる加護。

18歳になっても、12歳の中学1年生と遊んでいても違和感のない矢口。
それでいいのだろうか。


――

ペタペタ。
ゆっくり優しい手つきで、丁寧に矢口の額にシップを貼っていく。
始めは「シップなんかいらないよぅ」と言っていたのだが、真正面から市井の顔が近くで
見れることに嬉しさを感じ、大人しくされるがままに。
でもやっぱり見つめられると恥ずかしいので、どうしても頬は赤くなってしまうが。

(くぅーっ! なんでこんな可愛いんだ、やぐっちゃん!!
ボンがいなけりゃ今ごろ、押し倒して××して×××してやるのに!!)

とても口に出しては言えない内容。市井にしか判らない。
平静を装って、そんなヘンなこと考えてないよと顔を作る。
「……うし、出来た」
仕上げに上げていた矢口の前髪を下ろし、手を離す。
「アリガト」
笑顔で、市井に感謝の言葉。
本気で襲いたくなってくるのだが、なんとか自制し、加護に目を向ける。
そしてちょっと怒った顔になり、加護に言った。
「ボン、ドアの周りに人がいるか確かめもせずに、思いっきり開けちゃダメだよ。
前何回か言ったじゃんか市井。ちょっとは落ち着けって」
「だって…ねぇちゃんが帰ってきたと思って……。ごめん」
「え」
「だから、ごめん」
「え……いや、あの……」
まさか加護の口から、すぐに謝りの言葉が出てくるなんて。
以外な言葉に、市井は驚きを隠せない。
前、ここに遊びに来た時、中澤のお気に入りの服にジュースをこぼしてしまった時も、
1時間ほど経ってから謝ったのだ。怒られてすぐ、謝ったことなんて今まででない。


「ど、どーしたんだよボン。な、何かあった?」
「別になんもないよ。そんなにうちが謝ったらオカシイか?」
「い、いやいや。とんでもない」
ただ以外だっただけ。
誰がボンをこんな風に変えたんだろう……市井は思った。

「………頭」
「えっ?」
「いちー、頭撫でて?」
上目使いで、自分を見てくる。
一瞬市井はチラっと矢口の方を見たが、矢口は自分の額に手を当てて幸せそうな表情をしていたので、
頭くらい矢口の前で撫でても怒らないよな、と考え、加護の言う事を聞く。
「うしっ、えらいぞボン」
くしゃくしゃっと撫でる。
加護もいつものように目を細めて喜んでいたのだが、一ついつもと違うことに気づいた。

(なんでやろ……前まではいちーに頭撫でられたら一番気持ちよかったのに、
今は、そんなことない。前一回だけ撫でられた保田さんが一番気持ちいい……)

ただの気のせい。
この時はそう思っていた。
でも本当は、気づいてたのかもしれない。
自分が、市井じゃなくて保田に恋をしているって。

しかしまだ12歳には、少々難しすぎるのかもしれない。
恋が、どうゆうものなのか………。




―2月1日―

今日は、加護の学校初登校の日。
姉の中澤は、かわいい妹の為に仕事を遅らせて、学校まで付いて行ってやることに

「チビ助ー、早よ来い。置いてくぞ」
中澤が珍しくスーツを着て、20m程後ろを歩いてる加護を呼ぶ。
加護は、真新しい制服に身を包んで、渋々と駆け足で中澤の元に。
「なんやねん、恐いんか?」
「………」
冗談めいた問いには答えず、ギュッと手を握る。
「大丈夫やって。友達なんかすぐ出来るって」
「でも、うちだけやん、関西弁」
「アホ。だからカッコええねやん。今関西弁人気あんねんで?」
「…………」
少し見て、顔を反らす。
「な、なんか返してや。寂しいやん」
「…………」
そう中澤に言われても言葉を返すことなく、繋いだ手に力を込めるだけ。

………まあえっか。
喋りたくない時もあるしな。

仕方がない、といった感じで、中澤も話掛けるのをやめ、
「今日は快晴やなぁ」
と、雲ばかりの空を見ながら、意味の判らないことを呟いた。


――

時刻は午後4時。
中学校の授業はもう終わっている。
しかし、中澤と市井の心配はまだ終わらない。

「チビ助大丈夫かな〜……」
「ボン大丈夫かな〜……」
仕事もそっちのけで、二人休憩室のソファに座り、ボーッとしている。
まだフロアに入っていない後藤もお菓子を頬張りながら隣にいたのだが、後藤の存在まるで無視。
「ねえ裕ちゃん」
と話掛けても、
「ねえいちーちゃん」
と話掛けてもまったく無視。
なんだか虚しくなってきた。

「おはよーございまーす」
そんな後藤に天の声。吉澤だ。
「よっすぃ〜
一刻も早くそこから逃げるかのように、吉澤の元に走って行く。
それでも二人は気づかない。

頭の中は、加護のことだけ。


「紗耶香、そろそろ厨房戻って欲しいんだけど」
市井の頭上から飯田の声。その声は、かなり怒っている模様。
「裕ちゃ、じゃなくて店長も手伝ってよ! いいかげん目を覚ませ!」
頭部にグーパンチ。
「……暴力女〜。石川にチクんぞ」
「は?」
「……そうだ。カオは、ほんとはこうゆう奴なんだってチクってやるぞ」
「ちょ、ちょっと…」
石川の名を出されちゃ、こちらに分が悪い。
それを二人は判っているから、わざと名を出すのだ。
「チクって欲しなかったら、アタシらの邪魔せんといてくれ」
「右に同じ」
紗耶香の右は、観葉植物だよ。
裕ちゃんは左だよ。
そう突っ込んでやりたかったが、やめておいた。

「じゃ、じゃあなるべく早く戻ってよね…」
この二人の今の精神状態なら、本当に石川にチクりそうだと感じとった飯田は、
スゴスゴと退散せざるを得ない。
でもその時にホールから客が来たという鈴の音が鳴り、
「店長、市井さーん、あいぼん来ましたよー」
というアニメ声が聞こえた。
すぐさま飯田を押しのけ、ホールに向かう二人。
突然のことによけることも出来ず、壁に激突する飯田。

「……カオリが何したっていうんだよー!!」

飯田の叫びはもっともだった。


「チビ助っ!」「ボンっ!」
二人同時に加護に駆け寄る。
「な、なあ、どうだった?」
「もし誰かが文句とか言ったって言うんやったら、ねーちゃんソイツどついたるからな?」
「大丈夫やって。そんな心配してくれんでも」
学校からの行きと帰りでこうも違うものなのか。
行きは黙って中澤の手をギュッと握り締めていただけなのに、
帰りの加護の顔は、なんだか笑顔が絶えない。

「ののー、入って来ぃや」
不意に加護が、外に向かってそう言った。
二人+そばにいた石川が一斉に外に目を向ける。
そこにいたのは、加護と同じくらいの身長で、加護と同じくらいの年齢の女の子。
しかも、加護と同じ学校の制服を着ている。
「辻希美ちゃんっていうねん。うちの、友達」
嬉しそうに加護がそう言った。
「辻希美れす、よろしくおねがいします」
辻がぺコリと頭を下げて笑う。
笑うと八重歯が見えて、なんだかとても可愛らしかった。


それから3日ほど経ち、辻も娘。レスに溶け込んで、
加護と二人でイタズラばっかりやらかしていたある日。

「いちーのバカ! うちとの約束の方が早かったやんか!」
「い、いや、だからあん時断わったじゃん?」
「だからそんなん聞いてない! 絶対『うん』って言ったもん!」
困ったように頭を掻いている市井と、人目も気にせず怒鳴っている加護。
こんな風に加護が市井に怒っているのは初めてかもしれない。
市井の隣で座っていた安倍と、加護の隣で座っていた辻は、二人顔を見合わせて困った顔。
「嘘つきや、いちー」
「いや、だからぁ……」
言葉が出て来ない。加護が泣き出す。
もうお手上げだった。

「ボン〜、泣くなよ〜。ごめんって」
撫でようとした手を振り解かれる。
「いちーなんか、ダイッキライや!!」
ガーン。
頭の上に、雷が落ちたような、そんな感じ。
全身の力が抜け、ガクッとうな垂れる。
「ちょ、ちょっと紗耶香」
「あいちゃんまってよぉー!」

去って行く加護と辻。心配して市井の顔を覗いている安倍。
市井と加護のケンカの原因。
それは、些細なことだった。


「なあいちー、5日の日のこと覚えてる?」
「5日? あれ、市井なんか約束してたっけ」
「は? してたやん。1日の日の夜に、友達ちゃんと出来たからデートしてって」
「ああ。でも、市井5日やぐっちゃんと約束あるから無理だって…」
「え? そんなん言ってないで」
「いやぁ、言ったよ。だから、今度また違う日にでもって」
「言ってない。うち聞いてないもん」
「ええっ、そう言われましてもですね……」
「……なんなん? うちより、矢口さんの方が大事なん?」
「はあっ!?」
「いちー、うちより、矢口さんを取るんや…」
「取るとか取らないの問題でなくて、約束してたのやぐっちゃんの方が早かったし…」
「いちーのバカ! うちとの約束の方が早かったやんか!」

「いちーなんか、ダイッキライや!!」

そして、現在に至る。


――

「いちーのバカ、いちーのバカ、いちーのバカ……」
何回言っても言い足りない。何回言っても気持ちは治まらない。
でも言わずにはいられない。
楽しみにしてたんだ、5日のデート。
一生懸命考えて、計画立てて。
何より、気持ちを再確認したかった。市井のことが好きって気持ち。
最近ちょっと違う人にときめいたりして、戸惑っていたから。
1日付き合ってもらって、再確認したかったのに。
勘違いだったって、気のせいだったって思いたかったのに。
保田のことが気になるってことを。

気づけば、市井を見ているつもりが保田を見ていたことが何度かある。
市井や中澤に頭を撫でられている時、二人が保田に見えたことも何度かある。
たぶん、あの時、イタズラを謝りに行った時、保田に頭を撫でられてからオカシクなったんだ。
『なんだ。あんた、ちゃんと謝れるんじゃない』
うっすらと開かれた瞳に見えた、笑顔の保田。
怒ってると思われた顔からは、想像出来ないような。

「…うちは、いちーが好きやねん。矢口さんがおっても、いちーが好きやもん」
そんな想いを振り切るかのように、首を思いっきり横に振る。
「いちーの、いちーが……好き……やのにっ……」
この想いは叶わない。
市井を見てて判った。市井が自分を見つめる以上に、優しい目で矢口を見ていることに。
答えてはくれなかったけど、判ってた。
矢口の方を取るって。


聞こえてた。うちの方が嘘ついてたよ。
無理って、ちゃんと聞こえてた。
でもどっかで矢口さんとの約束断わってくれるかも…、って。
最低や。最悪や。
こんなヤツ、いちーどころか保田さんだって嫌やって言うよな。
ウソついて、一人で怒って、いちーのことが好きって言うてんのに違う人気になるヤツ。
でもな。でもな。

「一人はいややぁ………」

いちーには、矢口さんがおる。
ねぇちゃんには、石黒さんがおる。
飯田さんには、梨華ちゃんがおる。
後藤さんには、よっすぃ〜がおる。
ののには、最近妙に仲いい安倍さんがおる。
…………じゃあうちは?
うちは、誰かおる?

ドンッ

下を向いて歩いていたため、目の前に人がいることに気づかず、ぶつかる。
「あ、ごめんね。ってあれ?」
「……?」
聞いたことのある声に顔を上げる。
そういえば今日、休みだと飯田が言っていた。
それを聞いた時、ちょっと寂しかったのを覚えている。

「加護? あんたなんで泣いてんの?」
「………や、すださん……」

加護にダイッキライと言われた市井でもなく。
現場にいた安倍でもなく。
加護の後を追いかけた辻でもなく。

泣いている加護の頭を優しく撫でてくれたのは、保田だった。


一方、その頃の娘。レストランはというと。


「おっはよーございまーす」
いつも通り、バイト開始の20分前に出勤の矢口。
今日もそのまま制服に着替えずに、市井のいる厨房へと向かう。
が、厨房を覗いてみると、市井の姿はなく妙に忙しそうな飯田と安倍。
それに、珍しく厨房に入っている中澤の三人だけ。
「圭織ぃ、紗耶香知らない?」
隣で慌てた様子で皿洗いをしている飯田に声をかけてみる。
しかし、
「今忙しいから話かけないで!」
機嫌が悪いのか取り合ってくれる気はないらしい。
でもめげずに今度は中澤に聞こうとするが、途中安倍とぶつかって皿を割ってしまい、聞くどころか怒られてしまった。
今はここには近づかない方がいい、悟った矢口は、仕方なしに更衣室に行くことにした。

「なんだよなんだよ、なんかムカツクなぁ」
頬を膨らませ、先程の厨房でのみんなの態度に苛立ちを抑え切れない。
ただ、市井がドコにいるのか聞きたかっただけなのに、なぜ怒られなければならないんだ。
「あーもうっ、なんで紗耶香はいないんだっ」
苛立ちは、すべて市井に。


「ハックシュ!」
2月の風は寒い。その上今の自分の心も寒い。
くしゃみが出てしまうのもしょうがないといえよう。

どこぞの誰かに苛立ちをぶつけられていることも知らず、市井は旅に出ていた。
加護にダイッキライと言われて、傷心旅行に。
あの後、加護にダイッキライと言われた後、仮死状態になりながらもなんとか生還。
しかし心の傷は癒えることなく、仕事も手につかない為、フラフラッと旅へ。
黙って旅に行かれた厨房の面々はたまったもんじゃない。
今日は、保田は休みなのだ。吉澤は、4時過ぎてからしか来ない。
そんな時に旅に出られても困る。それでなくても人手不足なのに。
なので、厨房は二人じゃ出来ない為、中澤がヘルプに。

しかしそんなことを気にする気力もなく、大きいため息を吐きながらトボトボと旅を続ける市井。
風に流されるまま、傷心旅行。
電車に揺られる傷心旅行ではなく、風に流される傷心旅行。
しかし風は意地悪で、どうやら癒してはくれないらしい。
風は、加護が泣きながら歩いて行った方向へと流れてゆく。
そんなことまったく知る由もない市井は、流されるまま。


フラフラと、どれほど風に流されていただろう。
ふと風が止み、市井の意識もやっと戻った。
ここは何処だ、と辺りを見渡す。
「………知らんぞ、ほんとに」
まったくもって見覚えがない。
今いる所は、どうやらおっきな公園らしいことは判った。
が、何処の何という公園かは判らない。
辺りの景色や建物も全然知らない。
だんだん焦ってきた。

そんな中、少し遠目に見える自販機の前に、唯一見覚えのある後ろ姿。
お金を入れて、ジュースを選んでいる。
間違いない。あれは、圭ちゃんだ。
「圭ちゃ―」
ん、と言おうとする前に、保田が言うのが早かった。
「加護」
と。

(なぬっ!?)

咄嗟に身を隠す。
悪いことをしているわけじゃないのに、なぜか隠れてしまった。
しかしやっぱり気になるわけで、こっそりと近づいて話を聴いてみることにした。


「加護、オレンジジュース飲める?」
「……はい」
ベンチに腰を下ろし、さっき買ったジュースを隣にいる加護に渡す。
自分の分は買わなかった。別に、お金がなかったわけではないが。
「………飲みます?」
自分だけが飲んでるのはまずいと思ったんだろう、加護が聞く。
「あぁ、いやいいよ。実はお腹痛いんだよね」
しかし保田はそれを丁寧に断わり、少しバツの悪そうな顔をして笑う。
加護もひきつりながらも、真似して笑った。

どれくらい保田と会ってから泣いていたんだろう。
涙は治まりはしたが、泣きすぎで目が痛い。
保田がジュースを買いに行っている間、鏡を取り出して見たら目が腫れていた。
こんなんじゃ顔を見られるの恥ずかしい、そう考えてずっと下を向いていた。
「…………ふぅ」
保田の息を吐く声が、すぐ隣で聞こえる。
その度に、付き合わせて申し訳ない、そんな気持ちが表れる。
しかし、「一人で大丈夫です」とは言えない。
言ったら、ほんとに帰ってしまうかもしれないから。
一人は嫌なんだ。
誰かに傍にいて欲しい。
でも、誰でもいいってワケじゃない。


「……加護は、ほんと泣き虫だね」
クスッと小さく笑って、俯いている加護の頭を優しく撫でる。
責めることもなく、嫌な顔もせず。
そんな風に優しくされると、治まった涙がまた出てきてしまう。
「……ぅ…ッく……ふぇっ」
それでも頭を撫でる手は止まらない。
反対に、撫でる手が更に優しくなっていく。
嬉しかった。


誰でもいいってワケじゃない。

「じゃあ、誰がいいんですか?」

こう聞かれたら、加護はきっと答えるだろう。

「保田さんに傍にいて欲しい」

………と。


(…………ふーん)

そんな二人の数メートル後ろから、木にへばりついて見ている怪しい人物。
市井だ。
時折通る人に変な目で見られようが、知ったこっちゃない。
二人の何やらイイ関係そうな光景に、一人聞いて微笑んでいる。

(市井が、心配することもなかったか)

加護の自分に対する気持ちは前から知っていた。
だけど、自分には矢口がいる。
ずっと考えていた。だけど、それも心配はないみたいだ。

(ボンは、あー見えても寂しがり屋だから、誰かが傍にいてやらないと。
…………圭ちゃんだったら、大丈夫だね)

(…………でもやっぱ、少し寂しいかも)

言葉とは裏腹に心は正直で。
苦笑いしながらも、先程までの死に顔じゃなく穏やかな顔で、市井は二人を見ていた。


――

それからまた時間は過ぎて、午後6時。
2月初旬じゃ、6時はもう辺りは真っ黒に近い。
まだ二人(と市井)がいた公園は電灯が点いていたからそんな暗くはなかったのだが、
そろそろ加護を帰らさなけりゃヤバイな、と保田は思い腰をあげた。
加護ももうさすがに泣き止んでいて、約2時間前に買ってあげたジュースの中身は空っぽ。
「もう暗いし、帰ろうか」
ジュースをゴミ箱に捨て、加護を立たす。
立った加護は、なんだか拗ねているようにも見えた。

「どした?」
人差し指で、膨らんでいる頬をつつく。
プシュ、という軽い音が聞こえて、頬の形は元に戻った。
しかし戻ったのは頬だけで、名残惜しそうに立たせる時に握った手は戻らない。
振ってみても、離す様子はなく、余計力を込める。
「何、どーしたのって」
文字にしてみれば冷たそうな口調でも、その中には何かが込められていて。

今判った。
うちは、保田さんが好きなんや。
やっと判った。


「なあ保田さん」
「ん?」
「保田さんって、好きな人おる?」
「はぁ? 何、突然」
「いいから答えてーや」
「…………いないよ」
「ほ、ほんま!? じゃあうちリッコウホしていい?」
「あんた、紗耶香はどーしたの」
「いちーも好きやけど、いちーには矢口さんがおるやん。やっぱ、人のもの奪るのはよくないと思って」
「えらい切り替えの早さね…。まあいいけど…」
「なな、いい?」
「………どうしようかな。それにあたし、好きな人はいないけど、気になる人はいるんだけどね」
「………ま、負けへんように頑張る」
「………バーカ」
「な、なんでバカやねん! うちはバカって言われたらめっちゃムカツクんや!
関西人にはアホって言ってくれ、アホって!」
「じゃあアホ」
「………………やっぱ、どっちも言わんといて。凹むわ」
「めちゃくちゃね」
「め、めちゃくちゃでえーねん!」

あれだけ泣いていた加護は何処へ行ったのか。
いつもの元気な加護、いつもの生意気な加護に元通り。
けど、そっちの方がらしくていい。
加護は、やっぱり元気でないと。


「…………なぁ、気になる人って、どんな人?」
「そーだねぇ。まず口が悪い」
「ふむ」
「その上生意気で、いたずらっ子で」
「………そんな子のどこがいいん? うちの方がえーやん」
「あはは、そうだね」

自分の発言に対して、何だか妙に受けている保田。

「でもね、可愛いとこもあるの」
「……どこ?」
「それはね……」

その続きは言わずに、乱暴に加護の頭を撫でる。
撫でてもらったのはすっごい嬉しかったのだが、もちろん加護は納得いかない。
続きを教えろ、と何度も問うが、保田は笑っているだけ。
そんな風にじゃれながら、二人は暗い道を手を繋いで帰った。


――それはね、こうやって頭を撫でると、すっごい幸せそうな顔をして笑っている所。
   
そこが、すっごい可愛い。気になる人はアンタだよ――


いつか、言えたらいいね。



「いいじゃないか、いいじゃないか」
腕を組んで、うんうん頷きながら、二人を見守っているつもりの市井。
じゃれて帰って行く二人を、まだ頷きながら見守っている。
そしてそれから何分かして、二人の姿が夜の闇で見えなくなった時、ある事に気づいた。
「市井、帰り道知らない……」
サァーッと全身から血が引いていく。
急いで二人の後を追うものの、どこに向かって行ったのかさっぱり判らない。
「全然いいくないじゃないか…」

――

さんざん迷って迷って、やっとこさ辿り着いた、マンションの前。
涙目になりながら、早く部屋に行こうと駆け出した時、背後から自分を呼ぶ声。
「おお、やぐっちゃんじゃないか!」
嬉しさを全開にする市井とは対照的に、何やら怒っているやぐっちゃん。
「今日仕事サボって何処行ってたの。あたし、すっごく寂しかったんだよ」
口調が冷たい。その上、自分のことを「矢口」じゃなく「あたし」と言っている。
「あ、あの、ちょっと旅に…」
冷や汗が出てきた。
「ふーん」
額に怒りのマークが現れる。
それに、右手に握られた三叉槍。
覚悟して、目を瞑った。


――

なんとかマンションの階まで傷ついた身体をひきずって上がる。
そしてやっとの思いで部屋の前へ。感動で泣きそうになった刹那だった。
開けた扉の前に、三人の恐い顔をした鬼が立っていたのは。

「紗耶香お帰り。遅かったね」
「うちら、今日すっごく頑張ったんだよ」
「誰かがどっか行ってしもたからな」

市井を取り囲み、三人の鬼が口々に口を開く。
「は、は、は……」
矢口に続いて、三人の鬼にも殺られたことは言うまでもない。

――

もう動けない。
明日起きたら死んでいるかもしらない。
ベッドの上で市井はそんなことを真剣に考えていた。
そんな市井の所に、コンコンとノックの音。
ビクッとなる身体。
返事もいない内に、相手は入ってくる。
見なくても判ってる、加護だ。
またダイッキライと言われるのだろうか。
今度ダイッキライと言われたら、もう終わりだ。
本当に覚悟した。
しかし……。

「いちー、今日は、ダイッキライなんか言ってごめんな」
「……へっ?」
慌てて身体を起こす。
でももうそこには加護はいない。
言うだけ言って自分の部屋に戻って行ってしまった。
ポツン、と部屋に一人。

「……ま、いっか」

さっきまでの気分も一新。
加護の言葉を何度も頭にリフレインさせて、笑ってしまった。

たった「ごめん」という一言なんだけど、それだけで、傷も癒えてしまった。
開けていた窓から、風が吹き抜ける。

風も、まんざら意地悪ではないのかもしれない。




桜が咲く季節、春。
ここ、娘。レストランにも春が訪れていた。

いつも通り朝から仕事の厨房4人と、ホールの石川。
そのホールに、高校を卒業した矢口も社員に加わって、ホール担当の社員は石川と矢口の二人になった。
高校1年生だった二人、吉澤はともかく、後藤もなんとか2年に進級でき、
加護と辻も、上がってもまたどうやら同じクラスになったらしい。
順風満帆、そう言いたかったのだが、そうはいかなかった。


「なー彩っぺ、どーしたらいいと思う?」
「ん〜…」
真剣な顔をして悩んでいる、中澤と石黒。
シフト表を見ては、ため息をつくばかり。
「やっぱり、柴田と大谷が新店に取られたのが痛いよなぁ」
「新店、メロンレストランっていうんだっけ?」
「うん。ほんま作りすぎやっちゅーねんな」
しかしここでグチグチ文句を言っていても始まらない。
「本店に呼び出された2月の時点で、柴田と大谷もらうって聞いてたんでしょ?
だからバイト探してたのに…」
「ハイハイ、アタシが悪いんです」
少々選り好みし過ぎてしまった。
面接に来た子を自分の顔の好みで選んでしまって、結局気に入る子がおらず、
ホールのバイトは今後藤一人しかいない。
社員とバイトを合わせて3人しかいないということは、一人休んだら2人になるわけで。
必然的に厨房の誰かもホールに出て行かなければならない。
人手不足なのだ。

「どう考えても1ヶ月、休み3回は可哀想だよね。矢口と石川」
「でも、それくらいせんと、マジで間に合わんもんな」
「ん〜………」
「困ったなぁ、ほんま。どっかに即戦力になるやつおらんかな〜……って!」

「「いた!!」」


昔は、人気も今みたいにはなく、社員、バイト合わせて8人だった娘。レストラン。
ホールには安倍と矢口、そしてもう一人、今は辞めてしまったある人を合わせ、3人いた。
最初の頃は3人でも足りていたのだが、その内だんだんと来る人の数が増え、娘。レスも名が知れてきた時だった。
安倍とツートップで、人気を2分していた彼女が、突然辞めると言い出したのだ。
理由は、忙しくて休みが取れなくなり、勉強する暇がない。
あまりに突然のことだったので、みんな驚いた。
しかし彼女の決意は固く、周りがどんなに止めても無駄だった。
愛想こそ良くはないが、慌てることなく冷静に周りを見回し、判断できる。
頭の良い、よく出来た子だった。

その彼女が辞めてから、力こそ大幅に落ちてしまったものの、新しいバイト、高校生になったばかりの
後藤真希を雇い、なんとか持ち直す。
そして、その雇った後藤が何故か客に受け、いつの間にか人気NO1の店に。
そして現在に至るのだ。


「でもあの子は…」
「大丈夫。あいつは、戻ってくる。いや、戻ってこなアカンねん」
「………そうだね」
中澤の想いを聞いて、石黒はふっと微笑む。
「じゃあ、あの子の説得は任せたよ?」
「あったり前じゃ、よぉーしやったんでぇ〜」
「頑張って。あの子は強情だから」
「そんなもん、とうの昔から知ってるって」
今度は二人で微笑んだ。



――

都内にある、私立銀杏女子学園。
下校時間なのか、楽しくお喋りをしながら上品な制服を身に包み、校門を出て行く生徒達。
その校門の目の前に車を止め、太陽の光対策のためサングラスをかけて立っている中澤。
そんな中澤が怪しいと思ったのか、通る生徒がヒソヒソと隣の子と何やら話している。

(なんやねん、アタシはヤクザかっちゅーねん)

さすがに口に出す事は出来ないため、心の中で突っ込み。
そしてさっきコソコソ言っていた生徒から目を離し、再び目を校門に向ける。
すると、一人の少女が視界に入ってきた。
落ち着いた感じで、友達の会話を微笑みながら聞いている、少女。
しばらく声もかけず静かに見ていると、彼女も視線に気づいたようだ。
立ち止まり、中澤を見つめる。
そして……

「裕ちゃん…」

「……久しぶり、明日香」

サングラスを外して、彼女――福田明日香の名を言った。


「で、何?」
ここじゃなんだから、と言われて校門の前から移動した二人。
近くの喫茶店に入ってメニューの中から飲み物を頼んだ直後にそう言われる。
「ま、まあ待てや。とりあえず久しぶりに会ってんから、話は後にでも…」
どうせ自分が来たワケを今言っても、福田は断わるに決まっている。
そりゃ断わられてもめげずに頑張るつもりだが、やっぱり凹んでしまうわけで。
それならもうちょっと色んな話をしてからでもいいじゃないか。
しかし、何を話せばいいのか思い浮かばない。

(どんな話しよ……あ、そや)

「……圭織おるやん? あいつ、好きな子できたんや」
「えっ、ほんとに?」
「おお。ちょっと前に入った社員の子でな、石川っちゅーねんけど。
もうその二人なんかめっちゃウブでな、見ててめっさおもろいねん」
「そっかぁ」
勝手に飯田達のことを言ってしまったのは悪いと思ったが、この際しょうがない。
会話を途切れささないためには、少し犠牲になってもらおう。
「なんかな、石川の前ではすっごい顔とか赤くしてな〜。
もういっぱいいっぱいって感じやな」
「ふーん」
福田は相槌を打つだけだが、顔は嬉しそうに聞いている。
中澤は話を続ける。
「んでな、紗耶香と矢口とかは相変わらず続いてんねんけど、なんか最近更に仲良くなったみたいで、
裏で何かあったんちゃうかなーってみんな言ってんねん」
「何かって何?」
直接二人から聞いてはいないものの、雰囲気で。
「あれは、やっとエッチしたんじゃないかと」
「あははっ」
コソコソと会話を他の人に聞こえないように話し、真剣な顔で言う中澤につい笑ってしまった。
当然むっとなる中澤。
「なんやねん! これは絶対やで、裕ちゃんがそう言ってんねんから!」
「うんそうだね。たぶんそうだと思うよ」
「くっ…」
どっちが年上なんだか判らない。
福田といると、時々こんなことを思ってしまう。


「まあカップルは圭織と紗耶香達だけじゃないけどな。
でもそん中で1番のバカップルが吉澤と後藤や。あいつら最強やで」
「……なんで?」
「吉澤は厨房で後藤がホールやねんけど、あいつら暇あったら所構わずイチャイチャして。
前なんか矢口がトイレ入ろうとドア開けたら、あいつらヤってる最中やったって
顔真っ赤にしながら言うてたわ」
その時の光景を思い出して、一人笑ってしまう。
福田も笑っているか確かめてみると、笑ってはいたものの、その笑顔は少し寂しそうだった。
「……どした?」
中澤が問う。
「ん? 別に何もないよ?」
「え、でも」
さっき寂しそうやったやん、そう言おうとしたが、福田が席を立ったことで遮られた。

「あたし、そろそろ帰るね」
テーブルの上に千円札一枚を置き、何事かと見上げてる中澤に言う。
「ちょ、ちょお待ってや。まだ本題入ってない…」
「本題?……そんなの、裕ちゃんが来た時点で判ってたよ。
大丈夫だって、あたしがいなくても、なんとかやってけるって」
「なんで、明日香がおらな…」
「……新しい仲間がいるじゃない。話聞いてる限り、すっごい楽しそうだったよ。
裕ちゃん、顔すっごい嬉しそうだったもん」
「明日香……」
「それにあたし言ったじゃない。『もう戻るつもりはない』って」
「……けど、それやったらアタシも言うたで。
『サヨナラは言わないよ』って」
「…………」
「……なあ、明日香。みんな、明日香を待ってんねん。
お客さんだって、明日香を待ってる。そりゃ、最近来始めたお客さんは明日香のこと
知らんかもしれんけど、最初からずっと来てくれてるお客さんは、明日香のこと待ってんで?」
「…………」
黙ったままの福田。
中澤は、ふぅと少し息を吐き、伝票を持ってレジに向かった。
そして会計を済まし、福田に千円を返す。
「いくらなんでも、年下にワリカンしろって言う程アタシ貧乏ちゃうから」
「………」
笑って千円札を差し出す中澤を一瞬見て、福田は黙ってそれを受け取る。
受け取ったのを確認すると、
「さ、帰ろか。明日香ん家って何処? 送るわ」
さっきの続きを言うでもなく、福田の手を取り外に出る。
福田も黙ってそれに従った。


「さぁ、乗った乗った」
助手席のドアを開け、福田を招き入れる。
が、福田は入ろうとはしない。
「………やっぱいいよ裕ちゃん。一人で帰るよ…」
「……そうか? それやったらいいけど…」
「ごめん」
「あ、謝らんでもいいよ。裕ちゃんが強引すぎた」
「うん」
「いや、『うん』って。そんなことないよ、とか言ってくれるの期待しとったのに…」
半分冗談、半分本気。
「じゃ」
けど福田は気にすることなく、小さく手を振って帰り道の方に歩いて行く。
中澤は、思い切って言ってみた。

「来週の日曜、バイトの面接があんねん! 1時から!
アタシ、待ってるから! 明日香来るの待ってるからなー!!」

福田は一度も振り返ることなく、角を曲がった。




―問題の日曜の前日=土曜日―

午後4時半、休憩室にいるのは市井と後藤。
珍しく喧嘩をせずに、会話をしている。
「ねね、明日、終わったらご飯食べ行こうよ。市井ちゃん午前まででしょ?」
「そうだけど……何か裏あるだろ」
「ないって。ただ、久しぶりに市井ちゃんとご飯食べたいなぁ〜ってさ」
疑いの眼差しで後藤を見ている市井の腕を組んで、後藤は腕を自分の胸に押しつける。
胸に腕が押し付けられてることを知りながらも、市井は振りほどけない。
「うぅ…」
スケベは損だ。

「よぉし、じゃあ決まりだね。明日は市井ちゃんのオゴリ♪」
「はあ!?」
確かに否定はしてないものの、背定もしていない。
なのに行く事に決まっていて、しかもその上奢りときている。
「なんで市井が後藤に奢らなきゃならないんだ! そんなの吉澤に奢ってもらえよ!
奢ってもらえなきゃ、家で食え!」
「だぁってよっすぃ〜、明日ラストまでバイトだし。家、誰もいないんだよね〜」
「じゃあ一食くらい我慢しろ、大食漢!」
後藤に奢るとなると、財布の中が空っぽになること必須。
以前、後藤が入って来たばかりの時、先輩としてのメンツを保とうと格好つけて、焼肉へ連れて行った事がある。
その時、お金が全然足りなくて、一緒に行った矢口と保田にお金を借りたという恥ずかしい思いもした。
もうあんな思いは嫌なんだ。
「………グスッ…」
「え……?」
「いちー…ちゃん、ごとーのこと、嫌いなんだ……」
「ええっ!? ちょ、おい…」
いきなりの急展開。
頭がついていかない。
「ごとーはぁ……いちーちゃんのこと、好きなのに、いちーちゃんはごとーのこと…うっ」
「な、何言ってんだよ、嫌いじゃないって!」
「じゃあ、なんで連れてってくれないのさ…」
「それは……」
お前が食いすぎるからだ!………なんて、言えるハズがない。


ヒックヒックと、俯いてしゃくりあげる後藤の隙を見て、自分の財布の中身をチェック。
財布には、福沢さん4枚と、夏目さん2枚があった。
今は4月の上旬、残り約20日、食費は別にして(中澤から出るから)、デート代、雑費代、その他を
4万2千円で過ごさねばならないのだ。
もし食事を奢るとなると、後藤は、ファーストフードじゃ満足しない。
値段が高ければ高いほどいいのだ。
すると、おそらく1万以上は余裕でかかる。
けれど、市井には選択肢は一つしかなかった。

「………判ったよ。明日ね」
自ら紳士を名乗るのだから、女の子が泣いてるのを見過ごすワケにはいかない。
「え、ウッソマジで!? やったー、嘘泣き大成功〜!!」
たとえ、それが嘘泣きだったとしても……。
「市井ちゃん大好き〜
「わっ」
頭を胸に押し付けられる。
瞬間、耳まで真っ赤になる。
「ご、後藤くんやめたまえっ!」
口ではそう言うものの、市井も満更ではない。
むしろ、喜んでるようにも見える。

が、しかし。

「ごっつぁん、休憩長すぎ!」
「市井さ〜ん、なかざ…店長呼んでましたよ〜」
そう言いながら休憩室に入ってきた二人の身体がビシッと固まる。
視線は、市井と後藤の二人に。
さすがに後藤もヤバイと感じたのだろうか。
すぐさま市井から身体を離し、とんでもないことを言い出した。
「……や、やぐっつぁんよっすぃ〜、市井ちゃんが無理やり抱き着いてきたぁ〜!」


何故自分はこんなに信用ないのだろうか。
後藤に助けを求められた二人の冷たく鋭い、殺意の篭った視線が市井に向けられる。
ちょっと待ってくれよ。市井は紳士なんだ。
紳士が無理やり襲うなんて、そんなことあるハズがないじゃないか。
そんな言い訳通じるハズがなく。
一瞬にしてボコボコにされる。

「どうせ矢口は、後藤みたいに胸おっきくないよ!
けど、だからって矢口と付き合ってのに、他の子襲うことないじゃんか紗耶香のバカ!!」
泣きながら、矢口のアッパーが顎に炸裂。
「矢口さんや梨華ちゃんだけでは飽き足らず、ごっちんにまで!
人の彼女に手ぇ出すなんて、市井さん最低ですよ!!」
吉澤渾身の右ストレートが、市井の顔面に。
矢口・吉澤VS市井。
市井のKO負け。

「い、市井ちゃんごめんね。や、やっぱ、明日の話ナシにしよ」
冷や汗を大量に掻きながら、後藤が謝る。
「明日!? ま、まさかごっちん市井さんにホテルに誘われたの!?」
「え、いや…」
「エロオヤジ! エッチなのもいいかげんにしてよね!!」
「ほ、ほんとごめん市井ちゃん…」
ひたすら謝る後藤に、「謝らなくていいよ」とか何とか言いながら消えて行く三人。
部屋には、瀕死の市井一人だけ。

「……な、なんでいっつもこんな目に……」

瀕死になりながらも、愚痴る市井。
そこに、三人と入れ違いに入ってきた中澤店長。
「なんや紗耶香おるんやないかい。よっすぃ〜に呼んで来いって頼んだのに、
呼んで来てないからおらんかと思ったわ」
しかし、瀕死状態の市井を見ても、何食わぬ顔。
救急車を呼ぶどころか、「大丈夫?」という心配した一言もない。
もう慣れているのだ。
構わずここに来た用件を告げる。
「あんな、あんた明日午前までやん? けど、やっぱラストまで残って欲しいねん。
もしかしたら、新しい子入るかもしれんから」
新しい子、それが誰かは言わない。
それに、まだ入るかどうかも判らないし、来るかどうかも危ういのだ。
けれど一応念の為。
「あ、それと。いくら怪我して瀕死の状態やからって、家帰ってご飯作るのだけはサボったらアカンぞ。
サボったりするようなら、家帰って巨大鉄板でお好み焼きならぬ紗耶香焼きにしたるからな」
カッカッカッと一人笑って、事務室に戻っていく中澤店長。
またしても部屋には市井一人。

「……ここにはマトモな奴一人もいない………」

今頃になって気づく、市井でありました。



―問題の日曜の前日=土曜日―

午後4時半、休憩室にいるのは市井と後藤。
珍しく喧嘩をせずに、会話をしている。
「ねね、明日、終わったらご飯食べ行こうよ。市井ちゃん午前まででしょ?」
「そうだけど……何か裏あるだろ」
「ないって。ただ、久しぶりに市井ちゃんとご飯食べたいなぁ〜ってさ」
疑いの眼差しで後藤を見ている市井の腕を組んで、後藤は腕を自分の胸に押しつける。
胸に腕が押し付けられてることを知りながらも、市井は振りほどけない。
「うぅ…」
スケベは損だ。

「よぉし、じゃあ決まりだね。明日は市井ちゃんのオゴリ♪」
「はあ!?」
確かに否定はしてないものの、背定もしていない。
なのに行く事に決まっていて、しかもその上奢りときている。
「なんで市井が後藤に奢らなきゃならないんだ! そんなの吉澤に奢ってもらえよ!
奢ってもらえなきゃ、家で食え!」
「だぁってよっすぃ〜、明日ラストまでバイトだし。家、誰もいないんだよね〜」
「じゃあ一食くらい我慢しろ、大食漢!」
後藤に奢るとなると、財布の中が空っぽになること必須。
以前、後藤が入って来たばかりの時、先輩としてのメンツを保とうと格好つけて、焼肉へ連れて行った事がある。
その時、お金が全然足りなくて、一緒に行った矢口と保田にお金を借りたという恥ずかしい思いもした。
もうあんな思いは嫌なんだ。
「………グスッ…」
「え……?」
「いちー…ちゃん、ごとーのこと、嫌いなんだ……」
「ええっ!? ちょ、おい…」
いきなりの急展開。
頭がついていかない。
「ごとーはぁ……いちーちゃんのこと、好きなのに、いちーちゃんはごとーのこと…うっ」
「な、何言ってんだよ、嫌いじゃないって!」
「じゃあ、なんで連れてってくれないのさ…」
「それは……」
お前が食いすぎるからだ!………なんて、言えるハズがない。


ヒックヒックと、俯いてしゃくりあげる後藤の隙を見て、自分の財布の中身をチェック。
財布には、福沢さん4枚と、夏目さん2枚があった。
今は4月の上旬、残り約20日、食費は別にして(中澤から出るから)、デート代、雑費代、その他を
4万2千円で過ごさねばならないのだ。
もし食事を奢るとなると、後藤は、ファーストフードじゃ満足しない。
値段が高ければ高いほどいいのだ。
すると、おそらく1万以上は余裕でかかる。
けれど、市井には選択肢は一つしかなかった。

「………判ったよ。明日ね」
自ら紳士を名乗るのだから、女の子が泣いてるのを見過ごすワケにはいかない。
「え、ウッソマジで!? やったー、嘘泣き大成功〜!!」
たとえ、それが嘘泣きだったとしても……。
「市井ちゃん大好き〜」
「わっ」
頭を胸に押し付けられる。
瞬間、耳まで真っ赤になる。
「ご、後藤くんやめたまえっ!」
口ではそう言うものの、市井も満更ではない。
むしろ、喜んでるようにも見える。

が、しかし。

「ごっつぁん、休憩長すぎ!」
「市井さ〜ん、なかざ…店長呼んでましたよ〜」
そう言いながら休憩室に入ってきた二人の身体がビシッと固まる。
視線は、市井と後藤の二人に。
さすがに後藤もヤバイと感じたのだろうか。
すぐさま市井から身体を離し、とんでもないことを言い出した。
「……や、やぐっつぁんよっすぃ〜、市井ちゃんが無理やり抱き着いてきたぁ〜!」


何故自分はこんなに信用ないのだろうか。
後藤に助けを求められた二人の冷たく鋭い、殺意の篭った視線が市井に向けられる。
ちょっと待ってくれよ。市井は紳士なんだ。
紳士が無理やり襲うなんて、そんなことあるハズがないじゃないか。
そんな言い訳通じるハズがなく。
一瞬にしてボコボコにされる。

「どうせ矢口は、後藤みたいに胸おっきくないよ!
けど、だからって矢口と付き合ってのに、他の子襲うことないじゃんか紗耶香のバカ!!」
泣きながら、矢口のアッパーが顎に炸裂。
「矢口さんや梨華ちゃんだけでは飽き足らず、ごっちんにまで!
人の彼女に手ぇ出すなんて、市井さん最低ですよ!!」
吉澤渾身の右ストレートが、市井の顔面に。
矢口・吉澤VS市井。
市井のKO負け。

「い、市井ちゃんごめんね。や、やっぱ、明日の話ナシにしよ」
冷や汗を大量に掻きながら、後藤が謝る。
「明日!? ま、まさかごっちん市井さんにホテルに誘われたの!?」
「え、いや…」
「エロオヤジ! エッチなのもいいかげんにしてよね!!」
「ほ、ほんとごめん市井ちゃん…」
ひたすら謝る後藤に、「謝らなくていいよ」とか何とか言いながら消えて行く三人。
部屋には、瀕死の市井一人だけ。

「……な、なんでいっつもこんな目に……」

瀕死になりながらも、愚痴る市井。
そこに、三人と入れ違いに入ってきた中澤店長。
「なんや紗耶香おるんやないかい。よっすぃ〜に呼んで来いって頼んだのに、
呼んで来てないからおらんかと思ったわ」
しかし、瀕死状態の市井を見ても、何食わぬ顔。
救急車を呼ぶどころか、「大丈夫?」という心配した一言もない。
もう慣れているのだ。
構わずここに来た用件を告げる。
「あんな、あんた明日午前までやん? けど、やっぱラストまで残って欲しいねん。
もしかしたら、新しい子入るかもしれんから」
新しい子、それが誰かは言わない。
それに、まだ入るかどうかも判らないし、来るかどうかも危ういのだ。
けれど一応念の為。
「あ、それと。いくら怪我して瀕死の状態やからって、家帰ってご飯作るのだけはサボったらアカンぞ。
サボったりするようなら、家帰って巨大鉄板でお好み焼きならぬ紗耶香焼きにしたるからな」
カッカッカッと一人笑って、事務室に戻っていく中澤店長。
またしても部屋には市井一人。

「……ここにはマトモな奴一人もいない………」

今頃になって気づく、市井でありました。





―問題の日曜日―

厨房には、飯田、安倍、保田、市井。
ホールには、石川と矢口。
開店の準備に向けて、それぞれの持ち場で作業中。
吉澤と後藤は正午出勤なので、今はまだいない。
そして、オープンの時間となった。


ただ今午後2時少し前。
面接開始から、約1時間経過。
なのに、福田の姿はまだない。
「ねぇ裕ちゃん、ホントに来るの?」
中澤と一緒にホールを見ていた飯田が声をかける。
一応チーフである飯田には、福田にもう一度戻るように伝えたと言ってあったのだ。
だから、先程の「ホントに来るの?」とは、福田がホントに来るの?ということ。
もちろん中澤の返事は決まっている。
「アホか、来るっちゅーねん。…………たぶん」
「……はは…」
それに対して飯田は、渇いた笑いしか出来なかった。

「おいカオー、何サボってんだよぉ」
「あ、ごめん」
市井に呼ばれ、飯田は厨房に戻る。
中澤はそれを横目で見送って、また目をホールに戻した。
「明日香……来てくれるよな…」


――


「じゃあ、また雇うかどうかは後ほど連絡しますんで」
「はい! よろしくお願いします!」
やけに元気のいい少女。
年は、後藤と吉澤と同い年。

「…………あ〜あ」
その少女が帰ったのを確認し、履歴書をポイと机の上に。
「こらこら。何ため息ついてんの、裕ちゃん」
「だって、もうあの子で今日面接来た子30人目やで!?
本店で勝手に広告出してアルバイト募集すんのは勝手やけど、アタシんトコに何の連絡もナシに、
30人も面接来さしやがって。何回同じような事言わしたら気が済むんや」
来る度同じ説明をして、さすがにもう嫌になってくる。
「しかも、1番待ち焦がれてる奴は全然来る様子ないし。
店閉まるまで、あと2時間やで?」
「そうだね…」
「あ〜もう!」
無性にイライラしてくる。
自分的に、人を待つのはあまり好きじゃないんだ。
それなのにもうかれこれ、6時間以上は待っている。
娘。レストランの閉店は午後9時半。
それまでに、福田は来てくれるのか。
まったくもって、謎である。


「ほんと、謎だよね」
「は?」
急に隣に来たかと思うと、まったくワケの判らない言葉。
「何が謎? 後藤が謎なら判るけど」
「違うよ。市井ちゃんのケガが謎なの」
昨日、あれだけ瀕死の状態だったはずなのに、今はこうして料理を作れるほど回復している。
しかも目立ったアトすら見られない。
いくつか貼ってあるバンソーコーだけ。
「あぁ、その事? 市井の回復力は、ハンパじゃないんだ。あれくらいのケガ、なんてことはない」
えばってみせる。
その言葉を信じて、感心する後藤。
「どうやって治るの? 自然チユリョク?」
「チッチッチ。自然治癒力なんかじゃないよ。愛の力さ!」
「愛の力?」
「そう。愛の力で回復するのさ。たとえ、どんなに瀕死の状態だったとしてもね。
あの後、後藤がやぐっちゃん達に誤解を解いて、市井に謝りに来たやぐっちゃんに、
お詫びとしてキスしてもらったら治ったんだよ」
「おお、愛の力は偉大だねぇ」
「いやっはっはっはっ」
尊敬の眼差しの後藤。
鼻高々の市井。
そんな二人を怒りの目で見る凸凹コンビ。

ゴンッ!

「「くだらない話してないで、持ち場に戻れ」」
見事に揃い、ハモる二人の凸凹コンビ…もとい、飯田と矢口。
仕事放ったらかしでお喋りに興じていたそれぞれの職場の問題児を、それぞれの職場の
リーダーがゲンコツを落とし、持ち場に戻らせる。

1番謎なのは、こんなオカシな奴らばかりを雇っている娘。レストランである。


閉店時間まで、あと残り30分。
もうこれくらいになったら、お客さんは滅多にやって来ない。
最後に残ったお客さんが会計を終わるのを待って、厨房連中は掃除の開始。
ホール連中は楽しく雑談。

「結局、来なかったね」
「………」
「まああれだよ。まだチャンスはあるよ。ねっ」
落ち込んでいる中澤に元気を出してもらおうと背中を思いっきり叩いてみる。
が、反応ナシ。
「…圭織、はよ掃除しぃや」
「…………」
冷たくあしらう中澤に怒りを感じながらも、厨房に戻る。
飯田が厨房に戻ると、市井と安倍が吉澤審判の下、ホウキでチャンバラゴッコしているのが目に入る。
まあ、いつものことだ。
「あんた達最後、水流しといてよ」
「「はーい」」
保田の言葉に、3人同時に返事を返す。
そして、飯田と保田は床をブラシでこすって、後の水撒きは3人に任せて
保田は更衣室、飯田はホールへと向かう。

「あ、飯田さん
真っ先に飯田を見つけ、駆け寄る。
そんな石川を可愛いなぁと思いながらも、裕ちゃんの待ち人を探す。
どこかこの周りでウロウロしているんじゃないかという期待があったのだが、残念。
福田らしき人はいない。
「ねぇ圭織、紗耶香達ってまだ遊んでんの?」
「たぶんまだやってると思うよ」
「じゃあ矢口も混ざってこよー♪」
鼻歌を歌いながら厨房に向かう矢口。
いつもならそれに後藤や石川もついて行ったりするのだが、石川は目当ての人が
今は自分の横にいるため、ついて行く必要がない。
じゃあなぜ後藤は吉澤のいる厨房へ行かないのか。
飯田が後藤を見ると、後藤はいつになくボーッとしていて、目をゴシゴシ掻いている。
………眠いのだ。
閉店まで残り15分、必死に眠気と戦っている。

「………zzz……んっ、やべぇやべぇ…」

いや、もうすでに、戦いに負けているのかもしれない…。


閉店時間まで、あと残り10分。
そろそろホール連中も、拭き掃除やら片付け開始。
「ごっち〜ん、寝てないでテーブル拭いてってよぉ〜」
「ん〜……寝てない、寝てない……」
口ではそう言ってるものの、意識は寝ている。
「矢口さ〜ん、ごっちん起こしてくださいよ」
自分が言っても、たぶん、というか絶対無理だ。
言って起きてくれたためしがない。
「もう、ほらごっつぁん、帰りお好み焼き連れて行ってあげるから」
石川に言われ、矢口が面倒臭そうに後藤に声をかける。
「え、ウソ!? マッジ!?」
すぐさま意識が起き、矢口に抱きつく。
「……ウソだよ」
「なぁ〜んだ、起きて損した!」
答えが判った途端、抱き着いてた腕を放し、悪態をつく。
毎回のことなのに、一つも学習能力がないのはどうかと思うが、まあある意味扱い易くていい。
「梨華ちゃんもいいかげん、ごっちんの扱いに慣れてよね。
矢口も忙しいんだからさぁ」
「でもごっちん、私がいくら言っても、起きてくれないんですよぅ」
「梨華ちゃんの声はちょっと高いんだけど、いい子守唄になるんだよ」
「な、ごっちんヒドイよぉー!」
「なはは」
「二人共、早くテーブル拭けー!」
矢口の怒鳴り声。
それに交じって聞こえる、音。

カランカラン

「………あのー、もう終わりなんですけどぉ」
不機嫌そうに、来た人にそう告げる後藤。
当たり前だ。だってもう閉店まで5分を切っている。
今になって来られても、もう無理だ。
でもそのお客は何も言わず、懐かしそうに辺りを見やっている。
「あの」
「どした? ごっつぁん」
再度言おうとした後藤の横から、ひょいと矢口が現れる。
その矢口の目に映ったのは、懐かしい姿。

「久しぶり、矢口。………裕ちゃんいる?」

福田明日香だった。


「あ……明日香ぁ!!」
ビックリして、つい大声を出してしまった。
その大声で、厨房に戻っていた飯田が出て来る。
「明日香、来てくれたんだ」
「………遅くなっちゃったけどね」
二人軽く微笑みあい、飯田が中澤の元に案内をする。
その後ろをついて行く福田。
そして厨房の中へとさしかかった時、ちょうど着替えが終わった保田と対面。
「圭ちゃんお疲れさまー」
「圭織お疲れー……って、ええっ!?」
飯田の後ろ、福田の姿が目に入り、矢口に続いて保田も驚く。
まあ、来ると知らされてなかったから当然だ。

「圭織ー、掃除終わったよ」
後ろに福田がいることも知らず、掃除終了を飯田に告げる安倍。
その安倍の後ろには、市井と吉澤。
今度はその二人でチャンバラゴッコをしているらしい。
「カオ、聞いてよ。市井、なっちに3連勝したんだよ。
最近なんか強くなってない? 今度カオと勝負したいんだ」
そのチャンバラを途中で止め、今日の勝敗を飯田に報告する市井。
「ダメだよ。まだカオリと対戦するにはまだ早い」
この娘。レストランの中で1番チャンバラゴッコが強い飯田。
何回勝負しても、まだ誰にも負けたことがない。
そんな飯田に、安倍に3連勝したくらいじゃ、まだ足元にも及ばない。
「なんだよー、やろうよー……ん?」
拗ねるように口を尖らせ飯田に言うも、ある人物が目に入りやめる。
こっちを、おもしろそうに見ている。
「あー! 明日香ぁ!!」
安倍が先に気づいた。
「な、なんで明日香がここに!?」
市井も声を荒げ、福田に聞く。
「……相変わらずだねぇ二人共。そういう子どもっぽい所、変わってない」
けれど福田はそれには答えず、ただ笑ってそう言うだけ。
「「ぐっ…」」
言い返せない二人。
そういえば昔、いつも福田にそう言われてたような。
赤面して二人俯く。
「裕ちゃんまだいるよね?」
「え、あ、うん」
まだ横でボーッとしていた保田に問い掛け、二人は事務室の中に消えて行った。


事務室に消えて行ったと同時に、厨房に集まる従業員。
「ねね、明日香どうしたのかな?」
「っていうか、圭織はなんでビックリしてないわけ?」
「また福ちゃんに子どもっぽいって言われたー!」
「………明日香、しばらく見ない間に、綺麗になったよね……」
ギロッと1番背の低い人に睨まれる人約一名。
「い、いやぁ…にしても、ほんとどうしたんだろうね…」
すぐさま話を元に戻し、軌道修正。
なんとかケガを負わなくて済んだようだ。

そんな4人の話についていけない3人。
みんな福田と会ってビックリしていたのだが、自分達はビックリするどころか、
福田が何者かということも判っていない。
「ねぇ梨華ちゃん、さっきの人知ってる?」
「ん〜ん。知らない…」
知らなくて当然。
だって、福田がいた時は、まだみんなここで働いていなかったのだから。
「誰なんだろう…」
「うん…ごっちんも気になるよね?」
会話に参加してなかった一名。
石川が同意を求める。

「zzz……んっ? ああ気になるねぇ…」
「「………はぁ」」

なんだか気にしている自分達が、すっごくバカらしく思える石川と吉澤だった。


「……ごめん。ちょっと急な用事が入って、遅くなっちゃったんだ」
本当なら、もう少し早く来る筈だったんだけど。
少し俯きながら、福田が言う。
「いや、えーよ。来てくれただけで」
さっきまでの怒りは何処へいったのやら、中澤は笑顔。
そりゃそうだ。
だって、福田が来てくれたんだから。
口では来ると言っていても、やっぱりどこか不安だった。
が、福田は来てくれた。

「じゃあ、戻ってきてくれるの?」
そんな中澤とは正反対に、石黒の顔からは笑みは見えない。
真剣な顔で、福田を見つめている。
「アホか彩っぺ。そんな判りきってる質問してどないすんねん。
戻ってくるから来てくれてんな?」
なっ?と福田に同意を求める。
しかし福田は少し微笑んだだけで、頷こうとはしない。
「………明日香?」
頷いてくれることを期待していた中澤は拍子抜け。
そして、聞こえてなかったのかもしれない、ともう一度同じ事を言う。
けれど福田は、またしても頷くことなく、ごめんと一言。

「今日は、断わりに来たんだ……」


「えーーっ!?」
「バ、バカッ!!」
こんな所でそんな馬鹿デカい声を出されたら、見つかるに決まってる。
4人がかりで1人の口を押さえる。
「なっち! 今の状況を考えてよね、ほんとに!!」
「やばい、なんか彩っぺこっちの方見てるよ…」
「バレた?」
「………ん〜、大丈夫みたいッス」
よかったぁ、と胸を撫で下ろす4人。
安心したのか、押さえていた口から手が離れた。
「ちょっとみんな、酷すぎるべ! 何するんだべか!」
なまり丸出しで怒る、大きな声を出した安倍。
その安倍を、4人―飯田、保田、矢口、市井―が冷ややかな目で。
「覗き見してるってバレたら、どうなるかなっちも知ってるでしょ?」
「裕ちゃんはともかく、彩っぺは勘がいいんだから。バレたらどうなるか…」
「怒らせたら恐いのも、裕ちゃんより彩っぺだし」
「大人の色気があるのも、裕ちゃんより彩っぺだし……って、イテッ!」
「今大人の色気は関係ないでしょうが」
「ご、ごめんなさい…」
足を思いっきり踏まれ、その上また1番背の低い人に睨まれる人約一名。
ちょっと冗談で言ったつもりが、その冗談は矢口を怒らすのには充分だったらしく、いつも後悔する。
「どうせ、矢口は色気ないよっ」
「い、いや、そういう意味で言ったんじゃなくて…」
「紗耶香、ホントに矢口の事好きなの?」
「す、好きだよっ! それに、やぐっちゃんだって色気はたっぷりあるって!
やぐっちゃんが色気を出しまくるから、市井は我慢出来なくなって襲うワケで……」
「なっ…ちょ、紗耶香っ」
真っ赤になって、今度は市井の口を押さえる。
そんな二人を、恨めしそうに(本当は羨ましそうに)見ている3人。

「「「そんな話は二人っきりの時にしろ!!」」」

声は揃いに揃って、3つのハーモニーが醸し出される。
当然、3つ声が揃うもんだから、声が大きくなるのは当然で。
こっそりドアの開いていた隙間から見てた5人の存在は、中の3人に知らされる。


「………何やってんさ」
腕を組んで、ドアの前に仁王立ち。
「あ、あ、あ……」
みんなの先頭にいた飯田が固まる。
ドアの前に仁王立ちした石黒が、メデューサのようだ。
固まってしまった飯田を、その後ろに隠れていた4人がそこから逃げるようにして飯田を連れ、去って行く。
そんな5人達から、少し離れていた所にいた石川、吉澤、後藤の3人も、飯田達の後を追うように、
立ったまま寝ている後藤を二人がかりで担いで消えて行った。
「まったく、あの子達は…」
「まぁまぁ。あいつらも、気になるんやろ」
自分だってあの子達の立場だったら、絶対に覗いている。
みんな、福田のことが気になるんだから、しょうがない。

「………なぁ、なんで無理なん? やっぱり、勉強がしたいん?」
「…………うん」
せっかく来てくれたのに、返事はNO。
理由は、やっぱり勉強。
そんな事は承知していた。けれど、どこかで期待していた。
「そうか…」
無理、と言っている人を、強引にやらすことなんて出来ない。
個人的には納得出来ないのだが、納得せざるを得ない。
「じゃあ、あたしそろそろ…」
福田は立ち上がり、店の入り口へ。
中澤と石黒も、後をついて行く。
入り口の周りには、従業員全員いた。

「じゃ、失礼しました」
頭を下げて、ドアを押す。
みんな、複雑な顔で、福田を見つめている。
そんな中、市井が突然口を開いた。


「……明日香は、寂しいんだ。本当は、みんなと一緒に仕事したいのに。
ここには、石川や後藤や吉澤っていう新しい人もいて、自分にはもう居場所がないと思ってる。
それは、ただの自分の中の思い込みに過ぎないのに。
みんなは、明日香の居場所を空けてるのに。
明日香は、自分だけが一人だと思って、寂しいんだ」

突然の市井の言葉に、みんなの視線が市井に集まる。
もちろん、福田の視線も。

「そりゃ、明日香が辞めてから、やり方やメニューとかも変わったよ。
いや、変わらなきゃオカシイよね。
誰かが辞めたり、誰かが入ったりして、色んな事が変わる。これは、当たり前なんだよ。
何気負ってんだよ。何寂しがってんだよ。
明日香の居場所は、ちゃんとここにあるから。だから、意地張んないで、戻っておいでよ」

シーンと静まり返った店内。
市井と福田の視線が絡み合う。
その絡み合った視線を先に逸らしたのは福田だった。
そのまま誰とも目を合わさず、外に出て行く。
市井は、出て行った福田に対して軽く舌打ちし、右目にかかった前髪を掻きあげた。


「いちーちゃぁ〜ん
「うわあっ」
ガシッと後藤に抱きつかれる。
なぜだか、後藤の頬が、少しピンク色。
後藤の他にも、矢口や石川の頬もピンク色だった。
「なんかぁ、さっきいちーちゃんがすっごいカッコよく見えた〜
「ごごごごっちん!?」
そんな後藤の言葉に、慌てふためく吉澤。
「いやぁ〜」
市井は市井で、照れ隠しなのか頭を掻いている。
後藤の髪のいい匂いが鼻をかすめ、心臓の鼓動が早くなる。
矢口の言う通り、本当にエロオヤジだ。

が、今日のエロオヤジは、どうやら人気者らしい。

「なんか、ああいう真剣な顔してる市井さんて、すっごい凛々しいですよね…
「そうだね。紗耶香はダンディだし……って、石川ぁ!?」
まさか、石川からそんな発言とハートマークが飛び出すなんて。
石川が自分以外の人にときめいているのを見たことがなかった飯田は、初めての経験に動揺している。


「う〜ん。ありゃ、カッコよかったね」
「なっちも思った」
「そりゃときめくのも無理ないと思うな」
保田、安倍、石黒は納得。
確かにさっき福田に言っていた市井は格好よかった。
それは納得する。
「なんやねん紗耶香〜、お前いいトコ取りか〜」
後ろから首を絞め、市井をからかう中澤。
「た、たまたまだよ〜」
参った参った、と首を絞めている中澤の手を三回叩き、降参の合図。
それを確認した中澤は解放し、それと同時に吉澤が後藤を市井から引き剥がす。
ということで、今の市井はフリー。
フリーになった途端、今度は服の袖を誰かに引っ張られ、振り向く。
そこには、顔をさっきより真っ赤にした矢口。
「……? どした、やぐっちゃん」
様子がオカシイ。
矢口がこういう表情をするのは、ごくまれ。
今までに、2回あったかなかったか。
けれど、1回は覚えてる。
初めてこういう表情をした、矢口のセリフ。

「………今日、矢口ん家泊まんない……?」

それは、別名エッチの誘い。
「と、泊まる!! 是非泊まらせてください!!」
速攻で了解。
こんな誘いは、さっきも言った通り、2回あったかないか。
そんなチャンスを、逃すわけにいくか。
「うし、じゃあ帰ろう。早くやぐっちゃん家行こう」
手を取り、早速行動開始。
スキップで更衣室へと矢口の手を取り入って行く。
その後ろ姿を見た、保田安倍石黒の3人は。

「なんでこんなにキャラが変わることが出来るんだろう…」
「さっきのカッコ良さは、どこへ…」
「みんなもう、明日香のこと忘れてない?」

市井のビフォーとアフターの違いに、大きくため息をつくことしか出来なかった。


――


場所は変わって、矢口の部屋。
市井は落ち着きなく部屋をウロウロしている。
「あー、緊張してきた」
今矢口はお風呂。
市井はもう先に入らせてもらったので、もう準備は満タン。
あとは、矢口がやって来るのを待つだけだ。

とりあえず矢口が来るまでやることがないので、部屋を見渡す。
毎回、矢口の部屋に来る度、壁に貼った写真や、プーさんが増えているため、何回見ても飽きることはない。
写真は学校の子と撮った写真やら、市井とデートの時撮った写真が多い。
その中で、ある写真が目に入った。
「うわっ、懐かしー」
初デートの時の写真。
二人ともまだ初々しくて、手を繋ぐのもぎこちない。
「この頃はまだやぐっちゃん、金髪じゃなかったんだよな」
別に金髪が嫌だと言っているわけではない。
ただちょっと茶パツの矢口が懐かしかっただけ。
どんな髪型でどんな髪の色であろうと、矢口は矢口だから。
好きなのは変わりない。

「………どしたの?」
ボーッと写真を見ていた市井を不審に思ったのか、風呂から上がった矢口が声をかけてきた。
「あ、やぐっちゃん。ん〜ん、なんでもないッスよ」
そう言うと写真から目を離し、ベッドの上に足を広げて座り、その足の間に矢口を座らせる。
髪の毛を拭いてあげるのだ。
「やぐっちゃん髪伸びたねぇ」
「紗耶香、前、髪長い子好きって言ったじゃん」
「あれ、そうだっけ」
「アンタね〜…」
「あはは、ウソウソ」
ガシガシとバスタオルで頭を拭きながら会話を楽しむ。
こんな時間が、矢口にはとっても幸せだった。


「うし、はい終わり」
まだ少し濡れてはいるが、とりあえずは大丈夫。
バスタオルをベッドの下に放り投げて、そのまま後ろから矢口を抱きしめる。
「ちょっ…」
抱きしめられた途端、早速首筋にキスされ、矢口は戸惑う。
でも、抵抗はしない。
そのままTシャツの中へ手を入れられ、胸を弄られる。
「んんっ……あ…」
「やぐっちゃん…」
「ん……っ…」
呼ばれて後ろを振り向いたと同時に、唇を塞がれ舌が侵入。
吸われたり歯列をなぞられたり。
後ろから責められるのは初めてで、なんだかいつもより感じてしまう。
「…っん……うぁっ」
いつの間にか市井の右手は、矢口の大事なトコロへ。
市井のキスに夢中になっていて、全然気づかなかった。

「はぁっ、んっんっ…っ」
大陰唇を広げられ、中央辺りで自己主張している1番感じる箇所。
それを的確にとらえ、つまんだり押してみたり。
その度に出る、矢口の艶めかしい喘ぎ。
いつもだったらその快感に耐える為、シーツを握ったり市井の頭を抱いたりしてるものの、
今は後ろから責められている為、それは出来ない。
矢口の手は行き場を探して、彷徨っている。
「さ、やっ…んぁっ……もぅ、ダメだよぉっ」
けれどそれも限界。
もうこの快感に耐えることは出来ない。
解放して欲しい。
「……んっ、ん…」
キスして、少し緊張をほぐして。
市井は一気に指を2本挿入した。


「んん……やぁっ、だぁ……」
チュッチュッと音を立てて、吸われてる胸の先端。
一回目達した後、すぐに押し倒されて吸われたので、余計に敏感になっている。
「もっ……いいじゃん…オカシクなっちゃ、う」
「ヤダよ。だって1ヶ月ぶりなんだから」
仕事が忙しいのも重なって、最近全然してなかった。
その間、市井はずっと我慢の日々。
だから、せっかく掴んだこのチャンス、逃がすわけにいかない。
「はっ、あっ…んん」
耳朶を噛まれ、息が耳に吹き込まれ。
矢口の身体はずっと火照りっぱなし。

「もぅ……ほ、んとっ…ダメぇっ!」
胸、クリトリス、膣の中。
感じるトコロ全部責められ、もう頭は何も考えられない。
「あ、あっ、くぁっ…ん、んんっ!」
「好きだよ、やぐっちゃん…」
「うあっ、あぁっ…あ、たしもぉっ……す、きぃ…っ!!」
そう言ったほぼ同時に、イッてしまう。
さすがに3回目突入したら矢口に次の日殺されそうなので、市井も力を抜いてベッドに身を預ける。
そのまま疲れた二人は、朝まで寝てしまった。




―次の日=月曜日―

「紗耶香っ、ちょっといいかげん起きてよ!!」
「ん〜〜…せっかくあのデビルシスターズから解放されたんだから、もう少し寝かせてよぉ…」
「ダメだって! もう8時半だよぉ!!」
「………な、なにぃ!?」
気持ちいいまどろみも一気に覚め、寝癖のまま矢口の部屋を飛び出して行く市井。
矢口もその後を追い、家の前に停めておいた自転車の後ろに乗る。
そして、前に乗った市井がダッシュで娘。レスまで漕ぐ。

「紗耶香、もうちょっと平らな道通ってよ。腰痛いよぉ」
「んなこと言ったってしょうがないじゃん! 大体なんで腰なんか痛いのさ!」
こちとら急いでいるんだ。
そんなワガママ、聞いちゃいられない。
けれど、それは失敗で。
「………アンタが、昨日やめてって言ってんのに、何回もしたからじゃんかぁ!!
誰のせいだと思ってんのさ、腰痛いの!!」
昨日自分がした行為を、すっかり忘れてた。

矢口にも怒られ、遅刻して中澤にも飯田にも怒られ。
昨日せっかくヒーローだった市井は、わずか1日にして元通り。

やっぱり市井は、ヘナチョコの方が似合っているような気がします。


「………似合ってないよ!!(涙」




―火曜日―

「でな、めっちゃムカついたから、ねぇちゃんがご飯食べる前に、お茶に塩入れたったんや。
そしたら、頭思いっきり殴られて今こんな腫れてんねん」
「それあいちゃんが悪いんじゃーん」
「なんでぇ、ねぇちゃんがいちーいじめてたから、うちが助けたのに」
福田獲得を失敗した中澤。
そのやるせない気持ちを、市井をいじめることで発散してたものを、加護が間に入り、中断。
だから矛先を加護に変えいじめていたら、塩味のお茶になり、加護の頭を殴った。
どっちが悪いか、それは中澤なんだろうが、加護にも賛成出来ない。
しかし1番可哀想な人は判る。
何もしてないのにいじめられてる市井だ。
話を聞いていた辻は、市井に少し同情を覚えた。

「まぁ、いいわ。あんま過去の事振り返ってたらアカンからな。
それに、今日は保田さんに会えるんや。嫌な事は忘れなな」
ニヤニヤしながら言う加護に、じゃあそんな事言うなよとは思ったが、口には出さない。
自分にも塩入りお茶は入れられたくないから。
「今日保田さんいるの?」
「うん! 夜ご飯オゴッてくれるって言ってた」
だから、今日は朝からご機嫌だったんだ。納得。


「いいなぁ〜」
「へっへっへ。いいでぇ〜保田さんは」
嬉しそうに、保田の自慢話。
もう何回も聞いたのだが、辻は黙って聞いてやる。
何だか自分も嬉しいのだ。加護の、嬉しそうな顔をしているのを見ると。
そんな風に、会話を楽しんでる最中だった。
「なあ、あれって銀杏女子の制服ちゃう?」
「ん?」
二人の憧れの高校、銀杏女子学園の制服が目に入ったのは。

「やっぱいいよね〜、あの制服」
「さすが私立なだけあって、すっごい可愛いもんなぁ」
それに比べ、今自分達が着ている公立の制服は…。
二人顔を見合わせ苦笑い。
そしてまた銀杏女子学園の制服の少女を見てみると、その隣に、見慣れた人が立っている。
背が小さくて、髪の毛金髪で、ギャル系の格好をしている矢口真里。
「あれぇ、なんで矢口さんが?」
「まさか浮気!?」
二人顔を見合わせ何かを決意。
どこかの喫茶店に入って行く矢口と銀杏女子の制服の女の子を追跡して行く事にした。


「悪いね、忙しい中呼び出しちゃって」
「いや、忙しいのはそっちでしょ」
「アハハ、まぁね。でも、おかげで臨時休み取らせてもらった」
もう一度、話してもらえんか。
呼び出され、何を言われるかと思いきや。
今目の前にいる少女、福田をもう一度説得して欲しいと頼まれたのだ。
「働いてた頃、矢口が明日香と1番仲良かったから、裕ちゃんより矢口から言った方がいいんじゃないかって。
臨時休みあげるから、説得お願いしますってさ」
「そう」
でも、もう話すことなんかないよ、福田は言う。
けれど矢口は気にすることなく話を続ける。
「紗耶香もさー、ちょっと言い過ぎたかもしれないって言ってた。
自分の勝手な憶測で、みんなの前であんなこと言っちゃいけなかったよなぁ、って。
でも、矢口は憶測なんかじゃなくて、その通りかと思ったんだけども」
「………」
「違う? これでも、人の気持ちは結構判るんだけどなぁ。
ましてや、友達の…明日香の気持ちだったら」
福田は、黙ったまま口を開こうとしない。
ただ、無口だと言ったらそれまでかもしれないが、矢口には判る。
わざと黙ってるんだ。
「………何悩んでんの? 何閉じ込めてんの?
意地張ってたって何もいいことなんかないよ。自分の気持ち、ちゃんと言わなきゃ」
テーブルの上に置いていた福田の手を優しく握り、論す。


それを、こっそり近くのテーブルから覗いていた加護と辻はというと……

「みみみ見た!? 手ぇ握ってる!!」
「しょ、証拠写真や! のの、使い捨てカメラかなんか持ってないんか!?」
「あああ、も、持ってる!」
「よし、現場おさえるでっ!」
鞄からカメラを取り、カシャカシャと数回シャッターを押す。
「……くっそぉ矢口さんめ。いちーを裏切りやがってぇ〜」
「あいちゃんっ、立ち上がったりしたら見つかっちゃうよ!!」
大好きないちーを裏切った(と思っている)矢口を、テーブルの上に立ちながら憎しみの目で見つめる加護。
そんな加護を必死で取り押さえてる辻。
「…………お客様、退場してもらってもよろしいでしょうか」
そして、何本もの青筋を浮かべながら、二人にそう言っている店員。

その店員により、喫茶店からつまみ出されて行く二人。
そんな二人に気づかず、矢口と福田の話は続いていた。


――


「でぇ、一応、来週の日曜に本部の人達が娘。レスに食べに来るとは言ったんだけどね。
やっぱ無反応だったよ」
「そうか…」
「うん。頑張ってみたんだけど、なんだかなぁ〜ってカンジ。
まぁ、聞いてはいるみたいだけど」
「……やっぱ、なんとか乗り切るしかないか」
「でも、ホール3人だよ? それで本部の人15人来るんだよ?」
「せやからって新しいバイト入れてももう遅いやん。1週間かそこらで役に立つワケない」
「そりゃそうだけど…」
今日福田と話したことを、中澤に報告中。
今二人が喋っているのは、来週の日曜日に、娘。レスの本店、Hello!!レストランの人
15人がここに食事をしに来るということ。
それを、どうやってホール3人で乗り切るか。
ここを乗り切らなければ、娘。レスは潰れてしまうかもしれないのだ。
少し前、レストランボンバーが、乗り切れずに潰れてしまった。
そこに働いていた従業員達は、今はそれぞれの支店でやっかいになったりしている。
そんな事にはなりたくないのだ。
「ようするに、失敗せんかったらいいんや。そしたら、潰れたりなんかせーへん。
アタシも何とかサポートするから、矢口も頑張ってくれ。後藤のフォローとかで大変やろうけど」
「………わかった」
決意を新たに。

こんな時、福田がいてくれたら。
そんな思いが胸によぎったが、いつまでも引きずっていたらカッコ悪い。
決意を新たに、来週の日曜に備え、みんな一生懸命頑張ることにした。




―問題の日曜日―

今日は午後から本部の人達が来るということで、娘。レストラン貸し切り。
本部の人達だけで15人来るのに、他のお客も相手にしてられない。
今日貸し切りにして売上げが少なくなっても、また稼げばいいのだ。
それが娘。レストランには出来る。
…………潰れなければの話だが。

「あっ、来たよ!」
外に出ていた矢口からの合図。
車から下りて、15人の人が娘。レストランにやって来る。
「ほら、チビ助と辻は休憩室に行っとき。邪魔や」
駆けつけた中澤は、遊びに来ていた加護と辻を、中にへと追いやる。
二人は、渋々と中澤の言う通り休憩室に向かって行った。

「いらっしゃいませ!!」

従業員全員、一斉に頭を下げ挨拶。
「おう、久しぶりだな、みんな」
そう言ったのは、社長の山崎だ。
無駄な店舗を増やしたり、かと思えば潰したり。
「お久しぶりです、社長。2月の時以来です」
しかしそんな事顔に出すことは出来ないので、無理に笑顔を作りまた頭を下げる。
「ひゃっひゃっひゃっ。綺麗してるじゃないか、店」
「当然ですよ、清潔が命ですから」
和田マネージャーの言葉に、飯田が答える。
本当は、昨日全員で掃除した即興の綺麗さなのだが。
マイナスにならないように嘘をつく。
「…………アイツは?」
「えっ?」
「アイツは、やっぱおらんのか?」
金髪に、趣味の悪いサングラス。
娘。レストランをプロデュースしたつんくだ。
社長の山崎に聞こえないように、中澤にこっそりと訊ねる。
「何度も説得したんですけど……」
「無理、か」
アイツとは、福田のこと。
やっぱりもう一度、つんくも福田を見たかったのだ。


「じゃあ、そろそろ料理に取り掛かってもらおうか」
山崎のその一言で、厨房の5人が中へと引っ込む。
続いて、ホールの3人も厨房の手伝いをしようとしたのだが、
「おぉ、お前達は、俺達のビールの相手をしてくれよ」
という山崎の言葉を聞くことに。

(なんであたしがこんな事……)

あからさまに嫌そうな顔をした後藤。
気づいた矢口が、見えないよう後藤の足を蹴って注意しようとしたが、失敗。
「いてっ」
「あぁっ、す、すいません社長!」
矢口、山崎、後藤と座っていた為、間違って山崎の足を蹴ってしまったのだ。
「いってえなぁ」
そんなに強くは蹴ってないつもりなのに、大袈裟にいたがる山崎。
でも、あたしそんな強く蹴ってません、とは言えない。
許してくれるまで、すいませんと謝るばかり。
「……まぁいいだろう。だから、そんな謝ってばかりないで、こっち寄れよ」
「ちょぉっ」
許してはくれたものの、今度は肩に腕を回され引き寄せられる。
周りに座っているつんくや和田達、中澤や石黒、石川後藤達も、何も言わない。
いや、何も言えないのだ。

「うぅ、やぐっちゃぁ〜ん……」
それを、厨房から悔しそうに見ている市井。
あれが社長なんかじゃなかったら、今すぐ飛び出して行って殴ってやるのに。
「紗耶香、気にしたら負けだよ。早く料理完成させて、あそこから呼んであげよ」
「……でも、石川も今社長に髪触られたりしてるよ?」
「な、なんだってぇ!?」
そう叫んで、今にも石川の元に飛んで行きそうな飯田の勢い。
慌てて市井が抑える。
言ってる事とやってることがメチャクチャだ。
「と、とりあえず料理完成させよう。それが先決だ」
「……そ、そうだね」
「うん」
まだ大分テーブルの方が気になるものの、それはみんな同じ。
それなのにチーフの自分がこんなんじゃダメだと思い直し、持ち場に戻った。


ガチャガチャ、と食器を出す音や、フライパンを揺らす音。
そんな厨房の様子を覗いている加護と辻。
「なぁ保田さん、暇やねんけど」
「安倍さん、このお肉つまんでもいいですか?」
それぞれの想い人に話し掛けるも、無視。
というか、聞こえてない。
15人いっぺんに色々な物を次から次へと頼むので、そっちに集中しているのだ。
「スマン、ビールもう4本追加!」
「吉澤ビール出してー!」
「はーい」
中澤の注文に市井が反応し、吉澤に言う。
安倍の手伝いをしていた吉澤は手を止め、ビールを取り出したのだが、手が滑り落としてしまった。
しかも一気に3本。

ガッシャーン!!

ガラスビンの大きな音が、厨房全体、ホールにも聞こえる。
「バカッ!」
保田が怒鳴るも、落としてしまった後に怒鳴っても仕方が無い。
「す、すいませぇん!!」
半泣きで謝り、すぐさまホウキとちりとりでガラスを取り、床を雑巾で拭く。
みんな、頭を抱えてしまっている。


「なんだぁ? 大事な食器を割ったのかぁ?」
ひょい、といきなり現れた山崎の顔。
音に気づいて、やってきたのだ。
「すいません! 食器は大丈夫なんですがビールを3本…」
すかさず中澤が謝る。山崎は笑顔。
「まあ、別にどっちでもいいがね。早くビール持ってきてくれないか?」
「あ、はい、今すぐ!」

(っの野郎! 覚えてろよ!)

心の中で悪態をつきながらも、言う通りビールを手渡す市井。
世の中、そう心の中で思っても、上手く行かない。
「あーくそっ! 腹立つなぁ!!」
怒り任せに近くにあった近くにあった缶を蹴る。
しかしその缶は油がいっぱい入っていて、蹴った足を押さえ、倒れるのは市井の方。
「バーカ。何やってんだべ」
言葉通り、馬鹿にした眼差しを市井に向ける安倍。
「もう、そんなトコに寝てたら踏んづけるわよ!」
「ぐえっ」
そう言いながらも、もう既に踏んづけている保田。
「紗耶香ぁ! 早くこっち手伝ってよ!」
慌しく厨房を走り回っている飯田。
「………市井さん、そこ、ガラス飛び散ってまだ掃いてないんですけど…」
「えっ」
ひきつりながら、市井の下を指差す吉澤。
「………………いってぇ〜!!」
言われて初めて、背中が痛いことに気づく市井。

叫び声は、さっきのビールを落とした音より大きかった。


(なにやってんだあのバカは………)

娘。レストラン側の人間は、誰だってそう思ったろう。
あの叫び声の主は、本当に何をやっているんだ。
中澤と石黒とつんく、それに彼女の矢口は頭を抱える。
嫌味な山崎でさえも、さっきの叫びを聞き、何も言わずただ苦笑いなのだ。
中澤や石黒や、娘。レスを育ててくれたつんくよりも誰よりも、
そんなバカと付き合っている自分自身が恥ずかしくなる。
どうせなら、嫌味の一つも言って欲しかった。
ただ、苦笑いだけの方が、なんだかすごく寂しい。

(別れようかな……)

最初で最後、心底、そう思った矢口であった。


――


「なにやってんだか…」

見に来てみると、案の定あの社長は以前と変わらずの様子。
抵抗しない、文句を言わない従業員を手玉に取って。
でも2年前は、もう少し大人しかった。いや、大人しくさせたのだったか。
けれど今は、唯一その社長、山崎を大人しくできる人物は娘。レストランにはいない。
だからああやってつけあがることが出来るのだ。

山崎の傍若無人な振舞いに頭に来ているものの、何も言えない中澤と石黒の姿。
注がれるビールに、丁寧に断わっている矢口の姿。
いかにも顔に出ているものの、必死で笑顔を取り繕っている後藤の姿。
男の人が苦手なのか、俯きながら泣きそうになっている石川の姿。
そして、ここからは見えないのだが、厨房のみんな。

みんな、社長の行為に、不満に思っている。
そして、それを黙らせることができるのは、自分だけ。

「…………あたしの居場所は、あそこにあるんだ」

吹っ切れたのか、爽やかな笑顔で、2年前ずっと通っていた入り口へと歩いて行った。


「石川ぁ! ちょっと!」
「あ、はいっ!」
厨房から自分を呼ぶ声。
呼んだのはもちろん飯田。
「なんか変なことされてない?」
「はいっ、なんとか大丈夫です!」
出来た料理を石川に渡しながら、訊ねる。
それに、笑顔で返す石川。
嬉しいのだ、自分の事を心配してくれて。
「もう少しの辛抱だから、頑張って」
「はい、頑張ります!」
笑顔でそう言って、テーブルに向かう。
その途中、つい自分に微笑んでくれた飯田に気を取られ、コケてしまった。

ガッシャーン!!

皿が割れる音。
べチャ、とせっかく作った料理が地面に。
制服は、その料理のソースやらでグチャグチャ。
「おいおい、頼むよ石川〜」
はっはっは、と馬鹿笑い。
みんな、放心状態で手助けに行くことも出来ない。

そんな時だった。

「大丈夫? 食器かなんかでケガとかしてない?」

2年ぶりに見た、娘。レストランの制服姿。
福田明日香が登場したのは。


「あーっ、矢口さんの浮気相手や!」
「ほ、ほんとだ!」
食器が割れた音にビックリして出て来た加護と辻の声。
そんな二人の声も、今はみんなには聞こえていない。
聞こえてるのは、福田の声だけ。

「矢口何してんの! 早くホウキとちりとり! 後藤さんは、雑巾持ってきて!」
「「あ、はい!」」
ハキハキした福田の物言いに、年上の矢口まで敬語になってしまう。
「ほら、圭織はこの子、石川さん更衣室連れて行ってあげな!」
制服に付けてある名札を見て、裕ちゃんが言っていた圭織の彼女の石川さんてこの子か、と認知。
突っ立っている飯田に指示をし、石川を預ける。
そして、石川の代わりに山崎に謝罪の言葉。
「すいません、ちょっとした不注意でこんなことになってしまいました。申し訳ありません」
深く深く頭を下げる。
と、中澤がボゥッと福田の方を見ていると、福田が何か合図をしているではないか。
つんくが、その合図に気づいたかのように、中澤に耳打ち。
「おい、お前も一緒に謝らな」
「あっ」
そうやった、店長の自分も一緒に謝らないでどうするんだ。
慌てて立ち上がって福田と一緒に謝る。
「くっ…」
みんなの前で、こんな一生懸命謝られて。
文句を言えるほど、自分はそんなに度胸はない。
「は、早く代わりの料理持って来い!」
これだけ言うのが精一杯だった。


――


福田が来てからというものの、山崎のセクハラはピタリ止まり。
最後の最後まで、嫌味の一つも言えぬままのお帰り。
そして、次の日の電話で、
「これからも頑張ってくれたまえ」
との山崎の一言で、娘。レストランは危機を乗り越えた。


―その翌日…―


「いやぁ、それにしてもあの時はホントビックリしたよ」
「絶対来ないかと思ったー」
「いーや、市井は来ると思ってたね」
「なっちも思ってたさ」
「アンタ達、何処までがホント?」
懐かしい仲間達が、お客がいない時を見計らって福田の元へやって来る。
それを、少し離れた所で微笑ましそうに見ている中澤と石黒。
「来たのは、また、こうやってみんなの馬鹿な話を聞くのも悪くないな、って」
「わっ、相変わらずキツイなぁ」
「そんな理由で納得すると思ってんのかぁ!」
ワシャワシャとみんなにもみくちゃにされる。
されながらもなんだか、すっごく心地よかった。

そんな懐かしい仲間達に、ちょっとゴメン、と頭を下げ、新しい仲間達の元へと向かう。
石川、後藤、吉澤の3人だ。
「制服、どうしたの?」
手前にいた、石川にまず話かける。
昨日あれだけ派手に汚れていたのに、今は真っ白。
一体どうしたことか。
「あ、予備の制服、店長にもらったんです! それと、昨日ちゃんとお礼言えなかったんで…。
本当に、ありがとうございました!」
尊敬の眼差しで自分を見つめる瞳。
「いや、お礼言われても困るんだけどね。それに、石川さんあたしと同期みたいだから、敬語はやめようよ。
なんか、あそこにいる子達に、敬語喋らせてるーって言われそうだし」
あそこにいる子とは、吉澤を除く厨房全員と矢口のこと。
人をからかって遊ぶのが大好きなのだ、あの子らは。
「それと吉澤さんだっけ」
「はい」
「吉澤さんはもう少し、自分の意見言った方がいいよ。昨日と今日見た感じじゃ、
あんまり思ったこと言えてないようだし」
「わ、判りました」
それは、吉澤が悩んでいたこと。
それをズバリと言い当てる。


「で、最後に後藤さん」
「は、はいっ!」
背筋をキチンと伸ばし、思いっきり返事。
そんな後藤を今までに見た事がなかった吉澤と石川は唖然としている。

(ごっちんをここまで変わらせることが出来る福田さんって…)

ある意味、凄い。
ある意味、恐い。


「後藤さんには、もう一度基礎からやってもらわなくちゃ」
「はっ?」
「全然なってない。それに、異常に顔に出しすぎ。直さないとね」
「ええっ、嫌ですよそんなのっ! ジューブンですって!」
「全然充分じゃない」
「うぅ……」
真顔で言い返される。
これが矢口だったら、逃げることが出来るのに。
「とりあえず、明日からまた教え直しだね」
「…………」
黙って頷くことしかできない後藤。
でも、別にムカツクことはなかった。

「さて…」
駐車場に車が入ってきたのを見て、入り口に身体を向ける。
その時、背後から二つの声。
「……おい、アンタが、矢口さんと浮気してることは、知ってんねんからな」
「ちゃんとここに証拠写真もあるのです」
加護と辻だ。
差し出された証拠写真に目を向けると、矢口が福田の手をギュッと握っているのが目に入る。

ああ、そういうことか。
だから、あたしがここに来たとき、「矢口さんの浮気相手や!」とか意味の判んないこと言ってたのか。

了解した福田は、この二人のとんでもない勘違いに笑ってしまった。
同時に、からかいがいがあるな、とも思った。
「……そうだよ、あたしが矢口の浮気相手だよ。それがどうかした?」
イタズラっぽい笑みを二人に向けてやる。
二人は驚き、呆然。
そのまま放っておいて、入り口の方へ向かう。
途中、気を取り戻した二人がギャアギャアと騒いでいたが、無視。
その後、あの二人がどう動くか想像して笑った。

そして……

カランカラン

入り口に付けてある鐘の音。
ホールにいる4人が、一斉に反応。
みんな、声を揃えて。

「いらっしゃいませ!」


娘。レストランは、今日も平和である。


終わり

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